第肆章 あからさまなパンくず 9P
「でも……でも違うのです。ああ―― やめて下さい。そんな可愛い声で鳴いても私は今、何も持って居ませんから。首筋に鼻をこすり付けないで。くすぐったいから」
「そう? 今の貴方とマルちゃんは意気投合しているみたいよ。とても仲良しにみえるもの。これで引き離したら私達が悪役じゃない?」
茶化しながらローブは、話を続ける。
「今日、直ぐにと言う話ではないから。一度、家に持ち帰ってお話をしましょう? 貴方の言う通り、無責任に命を預かるものではないはないから。単純に貴方の負担が増えるだけなら意味がないわ。言い出しっぺは、私だからそこも含めてね」
「はい――」
「仔犬如き、たいしたものじゃないだろう。放っておいても勝手に育つからな」
今まで黙っていたレザンが横槍を入れる。人の子を育てる訳ではないから手はそれ程掛からない。セリュールが迷いに迷っている所を脈ありと見て押しを強めたのだ。この縁談は、セリュールが鍵を握っている其処を突けば、容易く牙城は崩れてしまうのだから。
一方、ローブは、冷めた目をしてレザンの物言いに反論する。
「うちの家は御存じの通り、基本的にか弱い淑女二人しかおりませんの。わんちゃんの世話だって力がいるでしょ? 大きくなったら尚更だわ。場合に寄っては、本宅から誰か一人派遣して貰う必要があるもの。そう簡単には決められないわ」
「左様か……なら良い知らせを期待している」
名残惜しげにゆっくりと、セリュールは仔犬をランディに戻す。その姿は、まるで幼い子供を見ている
様でランディは驚いた。氷の様に凍てついた雰囲気が全くないからだ。
「二、三日中には返答が出来るでしょう。ランディちゃんもそれで宜しい?」
「畏まりました。宜しくお願い致します」
「あまり、期待しないで頂戴ね。さっきも説明した様に事情が絡んでいるから」
「はい。重々、承知しております。セリュールさん、どうぞ宜しくお願い致します」
「私の意思は変わりません……今のままで十分なのです」
ランディが仔犬を奥の居間に戻す間にローブは、商品を決めてさっさと会計を済ませてしまう。別れの挨拶を簡単に交わして見送るレザンとランディ。
確実に去ったのを見届けた後、ランディは大きく肩を落とす。
レザンは、ランディの肩に右手を置き、励ます。
「あれは……難しいかもしれんな。彼女は恐らく、セリュールの熱意を推し量りたかったのだろう。元より、セリュールに対しての粋狂に近いお節介が発端だからな」
「はい……俺の目的は、あくまでも幸せなお家探しですから。過度な期待はご法度ですね」
「手応えは悪くなかった。前回のグランよりは数段、マシだ。恐らく、狙い目は物好きな富裕層だ。気張る必要はない。簡単に見つかるさ」
相も変わらず、軽口を叩くレザン。ランディは、小さく微笑んだ。
「随分な物言いだと思いますが……レザンさん、何処で聞かれているか分かりませんから」
「老い先短い老人だの戯言だ。誰も気にする者はいない。責任は後の自分がきちんと取る」
「そんなご無体な」
「いざとなれば、伝家の宝刀恍けると言う手もある。気にするな」
「レザンさんには、誰にも敵いませんね。一先ず、その線を当たって見ます。お願いしている子達にも伝達をしておかないと。後は、シトロンにもだなあ――」
「やんわりと伝えなさい。お前は説明下手が過ぎる」
「重々、承知しております」
何時までもしょげている場合ではない。次は厄介者を相手にしなければならない。
もう一度、ランディは気合いを入れてカウンターへ戻ると、何か思いついた。
「さてと―― 最後の一人が来る前に剣の手入れでもしておこう」
そう。約束の刻限も間近にせまっているのだから。
*
「何故、お前はそんな物騒な物の手入れをしている? 何処かに討ち入りでもするつもりか。それとも誰かの仇討か……どちらにせよ、末恐ろしい話だ」
「諸事情により……です。俺が剣を握るのを凶兆の前触れ扱いするのは、やめて下さい」
「だって、この町に来てからあの一件以来、殆ど握ってないだろう? 大抵の場合は、その刃を日の下へ曝け出す前に終わらせるお前が獲物を出すって事は相当な話だ」
ローブが訪れてからそれ程、時間が経たずにヌアールは、手ぶらで店に来た。白衣を翻しながら扉を乱暴に開けて入って来た。そしてランディを見つけるなり、開口一番で罵倒が飛んで来た。無論、仲良くする心算はさらさらないランディも涼しい顔でその喧嘩を買った。年長者へ敬う気はない。寧ろ、ランディにとってはガラの悪い半端者が来たとしか思っていない。相も変わらず、犬猿の仲で一度、町の中で出会うなら悪口雑言の応酬だ。
これでは最早、仔犬の話をする余裕もない。
「一度、帯刀して町の見回りをしました。争い事を止める為に鞘からも抜いてます。取り立てて騒ぐ様な事ではありません」
「なら、それの手入れをする理由は何だ? 使って居なければ、頻繁な手入れも必要ない。剣士が獲物の手入れをする時は大抵、使う前と使った後だ。汚れがないその状態ならば、これから使うに決まっているだろう。隠し通せると思ったら大間違いだ。この大馬鹿」
机に両手を突いて額に怒筋が浮かぶのではと思ってしまう位の剣幕でがなり立てるヌアール。動じることなく、ランディは椅子に座ってゆっくりと剣をタオルで磨く。
デカレと一戦交えた後、殆ど使い時の無かった剣は、少々の傷はあれ、凹みもなく曲がっても居ない。刀身は、揺らぐ蝋燭に照らされて輝いていた。持ち手の皮も多少の血や汗を吸い、革に染みが出来ているも擦れは見受けられない。定期的な手入れとは違い、入念な確認を行うランディ。
「元より、隠し立てする心算はありませんでした。きちんと礼儀正しく問い掛けてくれれば、お答えする予定だったのにぃ。ノアさんの言動の所為で一気に話す気が失せました」
面倒臭いヌアールからの詰問をのらりくらりと躱すランディ。次に濡らした砥石を手にすると刀身を研磨して行く。小気味の良い研磨の音以外、静かな店内。
痺れを切らしたヌアールは、腕を組んでそっぽを向く。
「勿体ぶった言い方して蓋を開け見れば、大それた理由じゃないんだろ? 下らな過ぎてがっかりするからもうやめておいてやるよ」
「今日の夕刻に憲兵と一戦交えると言っても?」
静かに剣の手入れへ没頭するランディから唐突に訳の分からない事を言われ、困惑するヌアール。独り言を呟きながら驚いて目を見開き、考え始める。
「……寝言は、寝て言え。この町に憲兵なんて何処にも―― まさかっ!」
「ご名答です」
「司教様の護衛で来ているあの憲兵か」
呆れ果てたヌアールは、溜息を一つ。今度は誰に喧嘩を売ったかと思えば、国で一、二を争う公権力と、本来なら敬い、慕うべき国教が相手なのだから無理もない。
自棄になったのかと、ヌアールは呆れたのだ。場合によっては彼是、難癖を付けられて不敬罪で引っ張られても可笑しくない。ましてや、私怨の決闘など、以ての外。
申し開きもしない内に投獄されるのがオチだ。
「また、面倒臭い事に巻き込まれてるな。別にどうでも良い話だ。精々、その高くなった鼻っぱしを折られてついでに灸もすえて貰え。それより、仔犬はどうした? 何の為に此処まで来たと思ってるんだ? そもそもミロワからのお節介の所為で……」
「はっきり言って飼う気なんてさらさらないでしょう。体裁を整える為、実に下らない」
「よく分かったな」
「俺も馬鹿ではありません」
何処からか、椅子を引っ張り出して腰掛けたヌアール。




