第貳章 仕事の合間に 10P
「勿論、懺悔をするのであれば、この町の皆さんは、ワタクシにとって心の拠り所でした。町の景色の一つ一つに思い出があり、とても素晴らしい時間を共に過ごせた事、全てがワタクシの宝物と言っても過言ではありません。されど、聖職者には使命があるのです。全てを擲ってでも成し遂げねばならぬ事が……私情に左右されてはいけません」
エグリースの言葉は、一つ一つが揺るぎなく、手入れを怠って居ない胸元に光る十字架と二対の指輪は、色褪せる事のない輝きは、エグリースの確固たる意志を代弁している。これには、三人も黙り込んでしまう以外なかったの。されど、痛い沈黙が教会内を支配する中で勇気をもってユンヌが口を開くのだが。
「私は――」
「ユンヌ、何を言っても無駄よ。エグリースさんの意思は固い」
「……」
そんなユンヌを制したのは、フルール。エグリース以上に睨みを利かせて瞳には怒りを通して呆れの色を見せる。交わす言葉は無いと首を横に振る。
「行きましょう。あたし達に出る幕は無いわ。エグリースさんが望んでいるならそれで良い」
やんわりとユンヌの腕を引っ張り、出入り口へ向かう最中、立ち止まったままのランディへと振り向く。当然の事だが、ランディも着いて来ると思っていた。一方、ランディは口を真一文字に結び、エグリースをじっと見つめていた。
「ランディ?」
「申し訳ない。先に帰ってて。俺はもう少し、エグリースさんと話がしたいから」
「あっそ……ならお先に」
「じゃあね、ランディくん」
ランディは、二人ににこりと笑い掛けて手を振る。そう、ランディにはまだやる事が残っている。名残惜しげに時折、振り返るユンヌとつんけんどんに足音を荒げながら去るフルールを見送った後にエグリースに向き直る。
「エグリースさん、俺からも差し出がましいながら一つ、進言しても?」
「ランディくん、献身な姿勢を持って礼拝に参加し、主の言葉を体現しようと試み、困っている方へ手を差し伸べる君の言葉をワタクシは無碍に出来ません。どんな事でも言葉に出しなさい。蟠りを持たせてしまっては、ワタクシの良心がとても痛みます。話を聞いてからワタクシ自身で判断しますから遠慮せずに」
今まで黙って聞き役に徹していたランディは、少し疲れを滲ませながら精一杯笑う。
エグリースも同じ様に肩の力が抜けた様子で目頭を押さえながら微笑む。
「では、お言葉に甘えて……先程、言っていた私情を擲ってでも言う発言。言質を取るような言い方で申し訳ないのですが、少なくとも心残りがあるのは、間違いないですか?」
「ええ、君の言う通り。ワタクシもこの町でまだ、やるべきことがあると思っていました」
「ならば、今は主が与えた試練の時では? 例え、エグリースさんが王都に戻ろうと、結果を出せたとしても答えは同じ。少なくとも補祭で学んだからと言って必ずしも成し遂げられない。そこについては、どう言うお考えですか?」
「ワタクシには……課程を議論する余地は、ありません。貴方と違って組織に所属しているので上層部との関わりがあります。ワタクシ以上に主の意向へ従事している方々の前では、ワタクシの意思は風前の塵に過ぎません」
これまでと同様に一切、矛盾を指摘する隙も与えないエグリース。その姿勢がランディには納得出来なかった。理由は、何時か見た以前の己の姿がエグリースと被さってしまうから。
所謂、同族嫌悪だ。少し前の感情や周りの近しい者、己が抱く憤りより理性やもっと大きな世の中の流れや理、無関心を装う事ばかりを気にして自分の足元を見ることが出来なかった自分を重ねてしまう。言葉の重みを感じないとノアに指摘された自分を見ている様で気に食わない。
だからこそ、エグリースを止めなければ、ならなかった。今は、己の背負う亡き者の残した宝や生者の鉄槌を体現する為に。この先に進む事が出来なければ、ランディは前に進めない。己の矛盾と向き合う為に我武者羅に立ち向かうしかない。例え、自分自身を否定する事になってもその先に見えるものが何なのか知りたいからだ。今のランディは、感情を手に入れた。そして、それらを表現する尊さも知った。
喜び、悲しみ、怒りを曝け出したランディに恥も外聞もない。全ては、研鑽の道すがらの一つに過ぎない。普段からの積み重ねを経て一点を研ぎ澄ますのも研鑽の一つだが、未知へと飛び出して視点の違う新たな理を手にするのも研鑽だ。己の中で揺るがない何かを手に入れる為に只、突き進む。
「貴方を慕い、崇拝の心を保ち続ける者すらも見捨てるのですか? エグリースさんの考えに共感し、歩んで来たユンヌちゃんや学校の子供達はどうなるのです?」
「後任の方が導いて下さるでしょう。つまり、ワタクシが止まらなければと言う理由がないのですよ。所詮は、大きな機械の歯車一つとしての役割しかありません。ランディくん、大人になりなさい。ワタクシが我を通した所で誰もが喜ぶ結果になりません」
頑なに自分の意見を固持して首を縦に振る事は無いエグリース。されど、諦観の裏には、寂しさと無力さを嘆く姿が見え隠れしていた。それならば、勝手だと分かって居てもやるしかない。代わりにランディがエグリースの功績を楯にこの町の者へ働きかける。世界は、もっと温かい何かで満ちている事を証明するのだ。
ランディの意志を持った茶色の瞳は、火を灯していた。
「エグリースさん、謙遜と確固たる主体性がないからそう言ってしまうのでしょうが……誰にも出来る事ではない務めをなさっているのですよ。貧しい者へ施しを。質素権益を心掛けて自身の給金を削り、使用人を雇わずに出来る事は自分で。子供達の教育にも熱心な方は、そう居ません。例え、評価の判断基準にならずとも町の方々が覚えています。息づいているんです。だからエグリースさんが諦めようとも俺は、諦めません」
所詮、意地と意地のぶつかり合いでしかない。されど、互いに譲り合えないものがあって雌雄を決しなければならない時がある。信頼しているからこそ、自分の持つ最高の信条をぶつけるに足りる他人は早々、居ない。寧ろ、これは僥倖と言って良いだろう。
「何をしようと、ランディくんの自由ですが……ワタクシの為に無理をしないで下さい。君には、既に迷える子羊が助けを求めているのでしょう?」
「それも含めてやれるだけの事をさせて貰います」
「……」
「それでは、これにて失礼致します」
捨て台詞を残してランディは、教会を後にする。
こうして火蓋は、切って落とされた。ヒトを知る為の戦いだ。