第壹章 学び舎のひと時 8P
「有り触れた話だからそんなに構えないで。あたしにだって心を寄せた人が居たの。ほんの一時ね。今思えば、憧れに近かったかな……その人がどう思ってたかは―― 知らないけど。でもその人はある日、あたしの気持ちを伝える前に去ってしまったわ」
大きな瞳で遠くを見据え、在りし日の思い出を懐かしみながらフルールは、語る。
誰しも恋に焦がれる時期はある。その心模様は、人間性の形成において重要な因子の一つである事は間違いない。他者に対して興味を持ち、知りたいと考えたり、人とのかかわりも必然的に増えるので社会性を学んだり、仕事や趣味に興じたりするのと同様に貴重な経験。
勿論、恋煩いの深みに嵌って強い刺激を求め続けて溺れてしまうのは、言語道断である。フルールの場合、今でも焦がれる程に強い想いがあり、精神性を伴った所謂、プラトニックなものであったのだろう。だからこそ、フルールの純真な思いは、誰にも否定出来ないし、無き者にもならない。
「なるほど……そこから自分の強い気持ちの高揚を超える何かがないからどうすれば良いか分からなくなったんだね」
「分かっているなら口に出さないで。これでも結構、恥ずかしいんだから」
「申し訳ない……でも君が答えを求めているにしろ、いないにしろ。折角、友人として相談してくれたのだから言うけれど……君が言った様に誰しもある事だから仕方ないんじゃない? 心の問題は、様々な作用でやっと解決するのだから」
慎重にランディは、言葉を選びながら話を続ける。
「もしかすると、人によってはそれを枯れていると言うかもしれない。でも俺は、そう思わない。今の君は、宛ら多年生の植物さ」
「どう言う意味?」
「多年生植物って言うのは、知っているかい? 説明すれば、直ぐに分かると思うけど、越冬して何年も生き続ける植物の事だよ。君は、それらの植物と一緒で華やかな春と猛烈に熱い夏を経験し、物悲しい秋を越えて冬に差し掛かっている。次の春を待ちわびてね」
「随分と臭い口説き文句ね」
精一杯の励ましもフルールは、鼻で笑う。ランディは、めげる事無く食らいついた。
「でも俺は、これが一番しっくり来るけどね。だから焦らなくても良いじゃないかな? 君には、君のペースがあってそれに従っているだけだ。言わば、君だけの自然の摂理。ならば、その流れにきちんと乗って居れば必ず、答えは出て来ると思うよ」
「勿論、あたし自身も納得しているつもり。でもこのままで良いのかなって焦りは、拭えない。だから厄介なのよ」
「そうなると、俺からも頑張れとしか言えないね」
後ろ手に手を組み、ランディは音を上げた。其処まで己の中で思考を研鑽し、理解しているのであれば、外様の入る隙間などある訳がない。されど、ランディにも分かった事があった。先程、ユンヌに厳しい事を言ったのは、自分の経験を踏まえての言葉だった事。
一歩を深い所まで踏み込んだ結果、ユンヌからやんわりと拒絶されたのがフルールには、納得が行かなくてあの様な反応が出て来てしまった事。そして複雑な女性の友人関係に足を踏み入れてしまった事。そしてこれらに対して安易に踏み込んでしまった後悔だ。ランディでは手も足も出ない上、双方の背景も理解しているので尚更ややこしい話であった。
しかし、ランディの葛藤は、思わぬフルールの発言で吹き飛んでしまう。
「何よ、其処まで思わせぶりな発言をしたのだから貴方が責任を持ってあたしをときめかせてくれるんじゃないの?」
きょとんとしたフルールがランディにいきなり詰め寄って来たのだ。これには、予想外だったランディも少し慌てふためくも冷静さを取り戻す。恐らく、フルールなりの気づかいだ。
「まさか……計算尽くめだった話題とは……よし! ならば、物は試しでこのまま戻って挙式をしようか。指輪は後日、用意するとして。それよりも君のご両親にご挨拶が先かな?」
右手で髪の毛をさっと、横に流した後、ランディはフルールの両手をそっと掴み、手で包み込むと一気に距離を詰めて馬鹿真面目な顔をして答える。熱意の籠った視線も忘れずにこの場においての道化を演じ切る。フルールは、着いて行けずにぽかんと口を開けて少しの間、完全に動きを止めてあまつさえ、呼吸まで忘れてしまっていた。ランディがその顔を眺めている間に笑いが漏れ始め、逆に揶揄われている事が分かると、落ち着きを取り戻す。
「分かった、分かった……少し前なら顔を赤らめてからかい甲斐があったのに。時は、残酷よね。随分と可愛げがない弟分に育ったものだわ」
「いつまでもやられっぱなしなら詰まらないでしょ? それに君、ちょっと不覚にもときめいてしまっただろう。柄にもなく、頬を赤くしちゃって……俺がビックリするほど、今の仕草が可愛かったから」
「うるさいっ!」
額に手を当てて顔を隠しつつ、負け惜しみを言うフルール。ランディは微笑み、追撃をお見舞いする。これで他人の目があったのならば、恥ずかしくて絶対に出来ない芸当だろう。
思わぬ、流れでフルールの両耳は、心なしか赤くなっていた。
「でも、君が首を縦に振ってくれるのならば―― 喜んで隣に居座らせて貰いたいと思う程に魅力的だと本心からそう思う。フルール、君は野原の可憐に咲く一輪の花だ」
「もう良い! やめてちょうだい」
「ははっ」
ランディは畳み掛ける様に跪いて右手を取ると、甘い言葉を囁く。それもこれもフルールの為に。錯乱するフルールは、頬に手を当て乍らあたふたしてしまう。
浮き足立っていたものの、はにかんだ顔でランディを見つめた。
「……ありがとう。自分に自信がなくなってたから話が出来て良かったわ」
「お役に立てならば、何より」
やっと、暗い表情が晴れて笑顔を取り戻すフルール。
「但し、甘い言葉を囁くなら気を付ける事ね。誰か知らないけど、貴方の言葉には女の子が見え隠れしているわ。余裕たっぷりな雰囲気が物語っているもの。慣れない事はしない様に」
「……恐ろしいな。図星とまでは言わないけど」
「誰しも分かるわ。貴方が誰かに育てられた事くらい」
ランディとて、人の子。誰かに教えて貰わねば、女性の喜ぶ仕草を覚える事は出来ない。
何よりも誰かを喜ばせたいと思い、実際に成功した具体的な行動を他の者へ行えば、その行動に至った浅からぬ想いも勝手に漏れ出てしまう。自分の得手不得手を曝け出すならば、相応に時と場所を選ぶべきだろう。勿論、誰もが一朝一夕の努力でその見極めが出来る訳もなく。繰り返し、失敗を重ねて長く経験を積み上げて他者からの指摘がなくなってからが体得したと言えよう。この場においては、フルールを励ます事が目的なので遠からず、正解であったかもしれないのだが。
「それじゃあ、此処で」
会話に二人で熱中している内にフルールの家の前までいつの間にか着いていた。家の玄関口まで小走りで駆け寄り、くるりと振り向くと、別れの挨拶と共に悪戯っぽく笑うフルール。ランディも穏やかな笑みで手を振る。
「話が出来て楽しかったよ」
「聞いてくれてありがとう。少しは、気が晴れた」
「どういたしまして」
ランディは、フルールと別れて直ぐ近くの自宅へと歩みを進める。ひんやりとした日陰の石畳の坂を上って行く。今日は、休日なのでこの後は、ランディの自由だ。
「さてと……何をしようかな」
何時までもフルールとユンヌの件を引き摺る気は、毛頭ない。何せ、貴重な休日だ。
一度、考え事で立ち止まるランディ。午後の予定は、未定。幾ら喜んで授業の先生を引き受けたとは言え、疲れが出る。その疲れたまま、誰かと出掛ける事は気が引けたので約束を入れていなかった。
「一先ず、部屋に帰って仕切り直すか……折角だから本屋にでも行こうかな」
今日は、徹底して一人でいる事に決めたランディは、その通りに喫茶店で趣味に励んだり、買い物や町を歩き回って一日を終えた。