第肆章 決断の時 4P
床には、本が十冊程、詰まれており、趣味の物以外は、如何にも年頃の青年が過ごす部屋と言うべきか。何をするでもなく、雨粒が小さな窓を伝って桟に落ちて行く様を灰色の小さな瞳で追っていたラパン。あの日以来、仕事が終わってからもいつもこの様な時間を無為に過ごす日が続いた。
仕事も手に付かず、時折、小さなミスが。理由を知っている両親から怒られる事は、なかったが、その気遣いが逆に申し訳なさを引き立てる。今日は、店の休業日で一日、自由に出来る数少ない貴重な日なのだが、外に出る気にはならない。何時もなら買い食いをして回ったり、雑貨店で新しい彫刻刀を見たり、チャットと連れだって山や林に行き、野草や木の実や果実を取りに行ったりと忙しいのだが、それもする気になれない。
チャットやフルールからも外出に誘われているも丁重に断り続けている。
何が、チャットをそうさせるかと言えば、恐怖がそれら全てに勝っているからだ。
抗おうとしない自分の所為でまた傷つけられる。しかも今度は、親しい者達にもその被害が及ぶかもしれない。そう、考えてしまったら段々と何も出来なくなってしまった。
これからどうすれば、良いかまるで分らない上にどうしたいのかも塞ぎこんでいた間に見失ってしまったラパン。このままで宜しくないと、焦燥感だけが募って行く。
焦りが己を罵倒し、自信が無くなって行くのも悪循環であった。
「こんな時、どうすれば良いんだも……多分、ランディさんなら知っているだな」
曇天に問い掛けても答えが出る訳はなく、ラパンは、目を閉じて深く背凭れに体を預ける。
言葉通り、こんな時に思うのは、今まで師として縋っていたランディの面影だ。そもそも自分から手を離さなければ、ランディは教え続けてくれただろう。今回も笑いながらめげる事はないと言い、不安を吹き飛ばしてくれて次は、一緒にやり返そうと、提案してくれたかもしれない。
そんな心強い味方から離れたのは、他ならぬ自分自身だ。
「あんな無様な所を晒したら顔向け出来ないん……」
両手を目元に当てて零す独白からは、悔しさが滲み出ている。心細いのだが、この前の出来事で手も足も出ず、挙句の果てにチャットに庇って貰ってようやっと事なきを得たのだから申し開きがラパンには、出来なかった。考えども、考えども堂々巡りが続き、思考の迷宮から一向に抜け出せない。あの時、こうしていれば。ああしていればと、後悔が際限なく噴き出して来る。
過ぎ去った過去に正解を求めても何もないのだが、そうせずには居られないのだ。勿論、この挫折を乗り越えられるか、乗り越えられないかで話は、変わって来る。以前、ランディも言っていたが、これも本来ならば修行の一環として必ず訪れるのは、間違いない。されど、今回は思ったよりも時期が早過ぎた故に対処の仕方が難解になったと言えよう。当然の事ながら幸運も不運も別段、誰かを優遇する事はない。唐突にやって来るものであったり、勿論、事前に準備した通りに来る時もある。
「はあああ……」
ラパンが大きな溜息を吐く。その傍らで廊下から女性物の軽い靴音が聞えて来て部屋の扉からノックが。鍵は無いのでラパンが返事をする前に来訪者が入って来た。
こんなに気軽に入って来れる者は両親か、気心知れた仲の人物しかいない。
「入るわ」
「どうぞなんだな」
室内に入って来たのは、チャットだった。肩口の開いた簡素な灰色のドレスにストールの出で立ち。扉の前で仁王立ちをしている。あまり表情を変える事がないチャットは、いつも通り落ち着いた様子。ラパンは、気丈に振る舞って笑みを浮かべながら迎え入れた。
ラパンは、立ち上がると今まで座っていた椅子を進める。チャットが礼を言いながら座る所まで見届けると、自分はベッドに腰掛けた。
「ラパン、大丈夫? ちょっと、様子を見に来たわ」
声色を緩めて穏やかに怪我の具合を問うチャット。
「こんにちはなんだも。チャット。お蔭様で体調は、バッチリなんだな」
「怪我……治ったみたいで安心したわ」
「心配を掛けたねー」
ラパンは、大きく肩を回しながらすっかり治った事を伝える。勿論、これは嘘ではなく、怪我自体が大きな物ではなかったので二、三日で十分に直っていた。
「私、これからおつかいに行くんだけど。その後は、仕事ないから遊びに出掛けない? 雨だけど、買い物とか、ご飯を食べに行くのも良いかも」
「在り難いお誘いだけど、遠慮しておくよ。気分が乗らないんだな」
そっと胸を撫で下ろし、褐色の頬を少し緩めながらラパンを外出に誘うチャット。最近、塞ぎ込みがちと言う事を母、カナ―ルから聞いていたのだろう。
気分転換も兼ねての誘いだったが、申し訳なさそうにラパンは、やんわりと断る。
「分かったわ。また、今度にしましょう。それで今日は―― 何をしていたの?」
「折角の休みだったんだけど……どうにも最近、木彫りに身が入らないん。お出掛けも検討したけど、雨だし。ボーっとしてたんだな」
「そう……なんだ。気分転換は、出来た?」
「あんまり」
「まあ、そう言う日もある」
二人の間には、ぎこちない会話が続くばかり。あの日以来、ラパンは変わってしまった。それは、何故かと言えば、己の中で許せないものが出来たからだ。今までは、どんな事でも笑って自分を誤魔化し、他人を許し、そして何もない風に装って来ていた。
けれども、いつの間にか、許せないラパンが出来上がっていた。だからこそ、複雑な感情がラパンから自分でも抑えきれない程に漏れ出し、この状況を呼んでいる。それは、チャットも分かっているのであまり刺激をしない様に言葉を選んで話をしていた。
外出に誘ったのも断られるのを承知の上で敢えて聞いていた。このバランスの崩れた会話も決して悲観するものではなく、ラパンと言う人間が自分自身を表現するきっかけと成りうるのでとても大切な事。ランディと言うラパンから見えれば、特異点に触れた時点で仕組まれた仕掛けに過ぎない。
此処までは、チャットもラパンに起きている変化を確認しただけ。その変化の兆候が見られたので本題に入るべきであろうと、己の中で判断を下す。
「悩んでいる様だから一つ、忠告。あまりランディさんの背中を追う必要、ないと思う」
「いきなりどうしたんだも?」
「今、ラパンは、ランディさんならどうしただろうとか。ランディさんならどんな言葉を掛けてくれただろうとか。何か考える度に面影が過ぎっているじゃないかって」
「それは、否定出来ないんだも。だってランディさん、凄いんだもん。僕に出来ない事を何でも簡単にやり抜いてしまう……憧れなんだな」
改めて姿勢を正して唾を飲み込むとチャットは、ラパンを真っすぐ見据えて今一番、触れにくい話題に切り込んだ。根耳に水なラパンは、動揺しつつも答える。
「でもラパンは、ランディさんにはなれない。だって貴方は、ラパンだから」
「そっ―― それは、分かっているんだな! でも僕は、単純に憧れているだけだ」
チャットの指摘に顔を顰めたラパンは、言葉を詰まらせた。
そして居心地が悪いラパンは、右足を揺すりながら唇を噛む。
「いいえ、今の貴方は、ランディさんに追い着こうと無理に背伸びをしている。心と身体のズレが貴方をそうさせているの。じゃなきゃ、自分から訓練を辞退する真似なんかしないわ」
「どうして……それを」
「最近、独りでやり始めたでしょ?」
「何でそこまで知ってるの?」
「昨日の夜に家から抜け出している所を見たわ」
驚愕の表情を浮かべるラパンにチャットは、左手で右腕を摩りながら少しの間だけ視線を逸らす。本当は、この話題に触れたくなかったが、この時を見送って話す場などない。時間を空ければ、空ける程、話し辛くなるのだから。
「知らないと思うけど、私……時々、離れた所で様子見に行ってたわ。でも、昨日も一昨日もその前の日も朝に居たのは、ランディさんだけだった」
「これ以上、やっても……ランディさんの手を煩わせるだけだから辞退したんだな」
「それは、違う。ランディさんに顔向け出来なかったからでしょ?」
「……そんなつもりじゃないん」
「だって、ランディさんの人柄を考えたなら貴方が失敗しようとも気にしないもの。寧ろ、解決策を提示してくれる筈。今の私には、貴方の意地意外に理由が見当たらないもの。迷惑を掛けたくないって言うのも確かにあるだろうけど、ラパンの中に何かを見つけて諦めていないランディさんは、相談してくれない事の方が困るわ」
「……ちっともチャットの言い分は、正しくない」