第傪章 特訓、特訓、特訓 6P
「ああ、頑張って」
話が直ぐに終わり、ランディは、退店準備を始める。何時までもルーの貴重な休憩を占有するのは良くない。読書をする為に外へ出たのだから邪魔するのも宜しくない。それに自分の用事もまだ残っている。珈琲の代金を二人分置いて手を振るルーに見送られながら襟元を正し、背筋を伸ばしたランディが次に向かったのは、ラパンの家。大通りを突っ切り、小道を蛇行しながら真っすぐ、『réfectoire』に向かい、通い慣れた店に入っていくランディ。
店に入ると、これまたいつも通り、カナ―ルが。
「こんにちは、ラパンいますか?」
「いらっしゃい、ランディ! ラパンならちょっと、使いに出してるよ。直ぐに戻って来ると思うけど、待ってて貰えれば、戻って来るけど」
「待って居ても宜しければ」
「息子が世話になってるせんせーが来てるんだ。無碍に追い出す何て失礼だろう? 店も一度、休憩で閉めているし、ゆっくりして行って貰って構わないよ」
手招きをしながら入口近くの席を引いてランディへ席を勧めるカナ―ル。ランディは、素直に厚意に甘えて椅子に座る。
「茶くらい飲んで行くでしょ?」
「恐縮です。折角の休憩時間に」
厨房へ戻ったカナ―ルは、直ぐに帰って来るなり、ランディの前へ紅茶を置いた。そのまま、向かいの席に座る。
「今日は、どう言った用向き? 家庭訪問とでも洒落込んで来たのかい? 食事は、指示通りにきちんとしてるし、睡眠も充分に取らせてるよ」
「いえ、今後の進行の話をしようと。体調管理は、毎朝確認しています。ご協力のお蔭で日常生活の心配は、していませんよ。ありがとうございます」
机に肘を付きながら笑うカナ―ルと、紅茶の心安らぐ香りで今までの緊張が解れて頬が緩むランディ。昨夜から今に至るまで気が抜けなかった。予想外の持て成しが心に染みる。
「そうかい。感謝しているのは寧ろ、私らの方だよ。日に何度も飲み食いしていたから治させたくてね。後は、家を継ぐ事もあって仕事しか専ら打ち込む事がなかったから可哀想だったのさ。相手してやってくれてありがとう、せんせ」
窓辺の町並みを眺めながら物憂げに語るカナ―ル。その様は、さながら劇の男役を務めていても可笑しくないくらい、爽やかな印象が際立っていた。
「そうだったんですか……お役に立てたのならば、何よりです。でもまだ、問題自体は解決していないので気は抜けないですね。まだ暫く、ラパン君は、預からせて貰います」
「ああ、助かる。愚息を宜しく頼むよ」
最初の出会いから此処まで信頼して貰えると思っていなかったランディ。先の失態で自信を無くしたが、やる気が出て来た。そして話の合間に紅茶を嗜む。鼻を抜ける柑橘類の香りと程良い苦み。牛乳を入れても良いだろう。ルージュやヴェールが注文するのも頷ける。
「こんにちは、カナ―ル母さん! ラパン居る?」
「お疲れさま、チャット。どうしたんだい? ラパンなら使いに出ててもうちょっとしたら帰って来るよ。待ってて貰っても大丈夫かい?」
そんな心穏やかなひと時は、ランディとは別の来客で吹き飛んだ。ドアベルが鳴ると同時に入って来たのは、昨日も話題に上がったチャット。今日は、仕事の合間に来たのか、白いシャツとシルエットの際立ったスカートと言う出で立ち。カナ―ルは、立ち上がり、迎え入れた。ランディは思わず、身を縮こませてしまったが、姿勢を正して何でもない風を装う。
「急ぎの用事ではないけど。話をしたい事があって……」
カナ―ルの背後に居るランディを見つけるなり、口ごもるチャット。ランディと同じく、鉢合わせをしたくなかったと思ったのが用意に透けて見えた。
「あいよ。そうだ! 今丁度、ラパンに用事がってランディも来ているんだ。あっちの席でお茶はどうだい? 美味しいの淹れるよ?」
「えっ……分かりました。では、同じように待たせて貰います」
上の空だったチャットは、咄嗟にカナ―ルの誘いに頷く。そして向かいのカナ―ルが座っていた席に着くと、艶やかな黒い長髪を手で梳き、靡かせた。褐色の細いうなじはランディの視線を釘づけにするほど、艶やかでこんな状況でなければ、見とれていただろう。
「やあ、こんにちは――」
「こんにちは、ランディさん。貴方にも話したい事がある……宜しい?」
ランディがおずおずと挨拶をする一方、チャットは何か決意した強い瞳で問うて来た。
「分かってる。君の意見は昨日、フルールから聞いた。考え方は、変わらない。そうだろう?」
「はい、それに加えて。朝、フルール姉から貴方の真意を聞いた事を確認したくて」
「なら、話は早い。フルールがどう言ったか分からないけど―― 大凡、間違いない」
此処まで深く語らずとも互いに理解が及ぶなら寧ろ、望む所だと大きく踏み込んだランディ。負けず劣らず、一歩も引くことなく、チャットからも追及が飛ぶ。そしてその追及に対してランディは、首を横に振って決別の意思を見せる。
「単刀直入に。ぽっと出の騎士様が下らない偽善で振り回すのは止めて。見通しが立ってない無謀な計画しかないなら貴方なんて要らない」
ぐっと、食卓に乗り出してランディを細い眉を歪ませながら睨みつけ、言い放つチャット。同時にふんわりと、花の香りを基調とした華やかな香水の香がランディの鼻を擽る。
「随分と酷い言い方だね。君の代案とて、効果的な対処法とはとても言えないだろう? ただ、問題を先延ばしにして有耶無耶になるまで只管、耐え忍ぶ。これが彼の為になると?」
左手で顎を撫でながら感情を表に出すことなく、ランディは努めて穏やかな口調で問う。
「それは、ラパンの考え方に寄って変わるわ? ラパンが不自由に思わなければ良いだけ。私なら説き伏せられる。なんなら一緒に付き合ってあげられる」
「それは、本当に彼の為? 籠の鳥の様に危ない事から遠ざけて。井の中で大海を知らぬ蛙の様に危難の先に待つ実利を知らせず。それで彼は、自分の人生を本当の意味で生きているのかい? 彼は、君の人形じゃない。生きた列記とした個人なんだ」
「そんな御託必要ない。皆、貴方みたいな自由に選択をして生きれる訳じゃない。それに籠の中の鳥は、世界の広さを知らずとも幸せだし。井の中の蛙は、空の深さや青さを知ってるわ。言葉を返す様で悪いけど、貴方の言う世界の広さだけが全てじゃない」
「君は、利発なお嬢さんの様だ。此処まで無様に言葉を返される様じゃ、年長者として立つ瀬がない。でも、君は知らない。俺たち人って生き物は、社会と言う概念を手に入れて一見、自然の理から外れた存在の様に感じられるけど。実際は、他の動植物と同じように何らかの外的要因で呆気なく捻り潰される。その要因は、自然の猛威かもしれないし、人が作った社会の仕組みによるかもしれない。それらから負けない様に進まないといけない訳さ」
平行線を辿る会話。ランディは、懐柔出来る隙を伺うも一向に見えない。勿論、両者にとっての正しさがあり、論理的にも綻びがない。根本的な解決を目指すか、道徳や可能性を鑑みた上での最善の解決かの差。果ては、互いの偏向した思考のぶつかり合いであってそれ以上の何ものでもないからおさまりが付かないのも仕方がなかった。
「つまり、どこまで行っても人は、この世に生を受けたその時から魂に刻まれた生存本能に左右され、見えない生存競争の中で生きている。でもその本質を忘れたら座して死を待つのみ。後悔を後でしても仕方がないから苦しんででも歩み続けるしかない」