第玖章 終演 5P
淡々とランディは答える。少なくともノアに今の自分を否定させる訳には行かない。
そう、稚拙な考えを集めた答えだとしても己が見た、聞いた、感じた世界を元にした答えは揺るがない。
「お前はどうしようもない甘ちゃんだな」
「ノアさん……」
「そんなもの感じなくて良いんだよ。お前は見たい世界を見れば良いんだ。そうじゃなきゃ、何も出来やしない」
「ノアさん!」
「止めるな、フルール! お前は分かっていない。その御高説を垂れて立派にした決意を貫くならば、他者に強要するな。心配させるな。お前の中で完結しろ。それを一切、外に出すな。ただでさえ、零と壱の世界でも複雑になっているのにこれ以上、お前のルールを持ち込む余地なんてない」
フルールは腕にしがみ付き、ノアを止めようとする。けれど、激昂したノアは歯牙にもかけずに言の刃でランディに切り掛かった。
「世界の流れを傘に自分の都合が良い様に動いているだけのちっぽけな貴方に責められる覚えはない! 世界は結果だ? そんなこと、誰でも知っているよ。本当に酷い……例え、俺が血反吐を吐いても涙を流しても過去として結果が出れば、あったこととして世界は周り続ける。永遠の傷、消えない傷が残るんだ。そんな傷は誰も負うべきじゃない。何も見ようとしない、聞こうともしない、ただ、閉じた世界の通りを押し付けるだけ。そんなの何も行動をしない評論家と同じだ。言葉に何も重みを感じないんだよ!」
ランディは言の刃を受け流し、声にならない悲痛な叫びと共にノアの喉元へ言の牙を剥く。
「……っ! 俺の言葉に重みを感じず、気付けないなら現実と向き合え。今回、確かにお前の行動、考え方は褒められるものであった。この町に流れる空気を変えた。皆に考えを改めさせ、良い方向に向かうのかもしれん。しかしその結果、この子が被害者になった。お前の独善的な自己犠牲に振り回され、お前が一人で傷つく姿を見て傷ついている。お前の言う通り、確かに閉じた世界の話なのかもしれない。だがこの落とし前、どうつけるつもりだ? 俺は少なくともこの子を傷つけていないぞ。お前の言葉、この子の重みが全くない。先ずは周りを見ることだな。お前は一体、何処にいるんだ?」
ノアはランディから逃げずに正面から受け止め、相討ち覚悟で最後の刃を突き立てた。
「…………」
ランディは大きく目を見開き、唖然とすることしか出来なかった。
「時間が掛かっても良い。何時か答えに来い。―――― あああ、胸糞が悪い。俺は戻る。後はどうとでもしろ」
煙草に火を付け、目頭を揉みながら疲れた様に言うとゆっくりと立ち去るノア。
別れの挨拶もせず、まるで怒られた子供みたくランディは下を向き、立ち尽くすだけ。
暫しの間、静寂が辺りを包み込んだ。
誰も何も言えなかった。どちらも決して間違っていなかった。
ただすれ違い、傷つけ合うのが悲し過ぎたのだ。
純粋に他者を思い、憂いたランディ。そして他者を思うがあまり、自己犠牲にとりつかれたランディを
思い、憂いたノア。優しさが痛みに変わることを四人に嫌と言うほど分からされた。
「……ちょっと、ノアさんもランディも頭を冷やさないと駄目かもしれないな。僕はどちらも正しいと思う。だから二人で互いの言葉を昇華させて行けたらと願う」
沈黙に嫌気がさしたルーは小さく嘆息し、苦笑いを浮かべる。
「悲しいね、でも僕たちはこの悲しさを糧に先へ進まなきゃ。僕が今言えることはこれだけかな。取り敢えず、ノアさんが心配だから僕も行くよ。例の話はまた今度だ、ランディ」
去り際にルーはフルールに「後は頼んだ」と小声で告げてノアの後を追って行く。
じっとランディを見つめたまま、フルールが無言で大きく頷いた。
ノアとルーが去った後、ランディは黙ったまま、墓標へ向かう。
目元を髪で隠し、唇を強く噛み締めて。
ただただ、己の未熟さを呪う。
悔しくて、悔しくて仕方なかった。
心の何処かで分かっていたことだ。
過ぎ去りし過去に大事の前の小事だと切り捨てた筈だった。
しかし、今になって声が聞こえる。他者を思う幼子の自分ではなく、もう一人の大人になった己を思う自分が悲しげな顔をして。穏やかな声でもう休めと言うのだ。
「くっ……」
最早、限界だった。必死に自分の感情を押し殺し、ただ痛みに耐えるランディ。
視界が全て灰色に染まり、寒さがランディを襲う。
心臓に刺すような痛みを覚え、墓標の前で膝を付き、胸元を震える両手でぎゅっと押さえる。
また一人の世界で折り合いを付けて全てを飲み込む為、心の殻を閉じようとしたその時。
不意にふわりと甘く優しい香りがランディを包み込んだ。
「……もう良い、良いから。何も言わなくても良い。みっともない姿だって見せたって誰も笑わないし、怒らない。泣いたって良い。迷ったって良いじゃない。立ち止まったって良い。躓いて転んだって良い。だから今はあたしを頼りなさい!」
ランディの背中に柔らかい感触があった。ゆっくりと温かさが伝わって来る。じわじわと冷え切った心にまで温かさは広がって来た。世界に色が戻り、安らぎが戻って来る。
だが、今のランディはその温かささえも拒絶した。振りほどこうと力の限り暴れる。
一番、顔向け出来ないフルールに慰めて貰うなど以ての外だ。
身勝手にどれだけ振り回し、心配させ、拒絶し傷つけたことだろう。
どう償いをすべきか分からない。
無条件で己に注がれる純粋な優しさに何をもって報いらねばならぬか。
冷静になれば分かることなのだが、今のランディに分からなかった。
だから今度はフルールが大きく手を引く。
ノアに教えて貰ったことを実践する機会が来たのだ。
「何もっ、言わなくたって……苦しいなら、悲しいなら! あたしが気付いてあげる。また、貴方が立ち上がるその時まで! だからもう一人にならないで――お願いだからあたしを置いて行かないで!」
しがみつくフルールの叫びでランディの肩が大きく一度跳ねた。そして先の乱心が嘘のように大人しくなる。
「……ごめん、君にそんなこと言って貰う資格なんてないんだ。君に慰めて貰うなんて俺には恐れ多い。俺は君にどれだけ酷いことを――――」
我に返ったランディは消え入りそうな声で呟く。
「貴方の話はどうでも良いわ。それはあたしが決めること。あんたはあたしの言うことを黙って聞きなさい」
フルールは暴れなくなったランディを強く抱きしめて背中に顔を埋めながら言う。
「あたしはこうしたかったの。もっと早くにやっておけば良かった。こんな簡単なことなのに何で出来なかったんだろう。やっぱり、言葉ばっかりに頼っちゃ駄目ね」
フルールは柔らかく笑う。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ごめんね」
「もう、謝らない」
「うん、ごめん」
「何回言えば、分かるの。このおバカ」
身を寄せ合う二人の穏やかな会話が続く。
幾ら頑張ろうとも人は一人で生きて行けない。例え、生命活動においての合理性がなくとも。
精神的な関係が必要不可欠なのだ。
他者が居てこそ、違いがあり、自身の存在を認識する。
そして世界の歯車としての存在意義を得る。
何よりも心に孤独を抱えて只管、空虚さに耐える苦痛を強いられるのならば、人は死を選ぶからだ。全ては誰しも生きる意義を他者に依存するが故。
それは一人でまだ見ぬ大きな敵に抗おうと強がるランディも変わらない。
「あれ?」
「どうしたの?」
不意にランディの足元へぽつりぽつりと水が滴り、土が黒くなる。
「雨が降って来たのかな……」
自然にランディの目から涙が溢れた。必死に止めどない涙を拭うランディ。
「空は晴れているのに何でだろう?」
「そうね……たまに此処はお天気雨が降るのよ。まあ、雨が降るのも悪くないわ」
子供をあやす様に語り掛けるフルール。
ランディはゆっくりとフルールの手を掴み、握りしめた。
「っ……ああ……くっ!」
「頑張ったね」
フルールはもう一つの手でランディの頭を撫でる。
寒空の下、次第に漏れる嗚咽。むせび泣くランディ。林に響くは悲壮感漂う慟哭。
だが、これは序章だ。世界は悲しみが全てではない。
また、笑える日を迎える為の準備だ。
こうして漸く、最後の一人が救われた。
そして事の顛末を知るは歌う町のみ。
ああ、暇だったと歌う町は呟く。
ここ暫く、衰退期を気取り過ぎた。
備えよ。
これから新たな黎明期を迎える。
だから大いにはしゃげ、笑え、喜べ、楽しめ、迷え、泣け、憎め、叫べ、そして全身全霊を持って生きよと囃し立てる様な旋律を誰にも聞こえない声で奏でる歌う町。
旋律は直接、耳で聞えずとも人々の心に自然と響き、魅了し続ける。
旋律に駆り立てられた人々から次はどの様な歌が生まれ、世界を満たすか。
それを知っているのも歌う町だけだった。