変わらぬ泉。
8月。
山道を車で登り、20分ほどだろうか、歩いて行くと泉が見えて来る。泉と言っても湧き水が湧いているだけだ。地元の人間なら定期的に汲みにくる。山水は販売店で買う物より幾らか澄んでいる、ように感じるだけかもしれないが、それでも地元の人間はこの泉を好んでいた。
僕はというと、都会の大学から帰って来て、久々に澄んだ空気を吸いたいが為に自転車で散歩をしているところだ。その一つの寄り道としてこの泉を訪れた。幼い頃はしょっちゅうここに来ては水を飲んでいた。メインはその泉の傍にある川での水遊びだが。
閑話休題。
僕は今、非常に困っている。否、本来困っているのは「彼女」なのだが、ついでに僕も困っている。さて、目の前にいる「彼女」は一体誰なのだろうか。
「・・・・・・。」
「大丈夫?」
僕は「彼女」にそう問いかけた。「彼女」は泉の傍らで棒立ちになっていたのだ。そんな「彼女」を放置しておいても良かったのだが、何分良心というものが働いてしまったのだ。仕方がない。
「彼女」は白いスカートにホームセンターで売っているようなサンダルを履いていた。とりわけ外傷を負っている訳でもなければ、親がいなければ帰り道が分からないような年齢でもないだろう。だが、なんとなく僕はそう声をかけたのだ。「大丈夫?」と。
彼女は僕の方をちらりと眺めるととぼとぼと苔が生えているところを避けて、岩水の側に座った。
「うーん、大丈夫・・・じゃないかな?」
「えっ」
僕は困っている。何が困っているって空気が重いことだ。最初に声をかけた時「彼女」は神妙な顔つきで泉から川を眺めていた。そんな哀愁すらも感じる「彼女」の姿に要らぬお節介を焼いたところだ。それで会話が進まず困っている。
5分ほど経っただろうか、もしかしたらもっと短い時間かもしれない。しかし、この重苦しい空気は時間感覚を麻痺させる。さすがに何か話さなくてはと思い、僕は何気なく会話を始めた。
「大丈夫じゃない・・・何か痛みとか、悩みでもあるの?さっき・・・深妙な顔つきで立ってたからさ。ちょっと心配でね」
「それ適当なきっかけつくって始めるナンパの手口?」
「えっ?」
「ん?」
「いや、僕はそんなつもりじゃなくて、ただ心配だっただけで・・・」
「そう。」
「うん。」
「じゃあ、ちょっと聞き流してよ。私の悩み。お兄さんナンパじゃないんでしょ?神父さんみたく聞く壁になって。あぁ、本物の神父さんのお仕事みたいな導きだとか、解決策だとか『答え』は要らないから。」
「聞くだけ?で、いいの?」
「そう、聞くだけ。」
僕は疑問符をいくつか頭に浮かべながらも、「彼女」の話を聞くため彼女とは向かい側になる大きめの石に腰かけた。「彼女」は僕の方など見向きもせず川を眺めている。
「私ね、去年浪人したの。受験失敗して。周りはソンナコトナイヨーって言うんだけど、私はそのセリフを聞くたびに苦虫を潰しながら笑顔で、来年頑張りますって答えてた。1年っていう期間は長かった。別に1年違うだけで、世界が変わる訳でもない。そう思ってた。でも、違ったんだよね、現実は。私とすごく仲の良い友達の子がいるんだ。その子と同じ大学を目指してたんだけど・・・私だけ落ちちゃった。その子は来年同じ学校に来れると良いねって言ってくれたんだけど、そうはならなかった。いや、しなかった。私は別の大学を選んだ。だってね、その子変わっちゃったんだ。私が知るあの子じゃなくて、違う子になっちゃった。あの子はあの子で色んな友達が出来て、色んなことを知って、それで変わった。今、すごく楽しそうにしてる。私達は文学部だったけど、今あの子はアクティブなサークルに入って輝いてる。あの子からすれば、私は今まで通り友達の1人で扱ってくれると思う。あの子すごく良い子だから。でもね、私は違う。私は変われない。あの子と同じ所に遅れて行って、同じ雰囲気にはなれない。だから、決別の意思もあって、別の大学にした。まあ、心機一転?ってやつ。それで、私は、あの子のいない新たな大学に行く。新たな一歩を歩む。そう思ってた。でもね、笑っちゃうぐらい何も変わらなかった。勉強はできた。友達もそれなりにいる。ただ、何も変わらなかった。変われなかった。私はあの子のように変わりたかったのに。」
僕がまず思ったのは、「この子大学一年生かよ、顔つきもスタイルもただのロリじゃん」という彼女の深妙な顔つきと雰囲気をぶち壊すようなことだった。そして同時に思ったのは、「若いなあ」ということだった。変わる自分に憧れ、変われると思う自分に酔い、変わるということが美化されている。「若い」21歳大学3年生の僕はそう思った。変わらないことなど当たり前で、変われないことも当たり前だ。変わる人間が凄いわけでも偉いわけでもなく、普通だ。どっちの転がっても同じなのだ。そうであるにも関わらず世間は「変わることをプラスのこと」「変わらないことをマイナスのこと」と置くことが多いと思う。そんなしょうもないことにいちいち触手を動かしていては疲れる。僕はそう思った。
「変われなくてもいいんじゃないかな。それも君らしさだよ。みんなが変わって自分だけ取り残されてるように感じるのかもしれないけど、そんなことは気にしなくてもいいんだ。自分リラックスできる姿が一番いいと思うよ。それが変わることならそれもまた良しってことさ!」
僕は苦手な愛想笑いを浮かべながらそう言った。
「あっそ。」
僕は内心微妙にキレながらロリっ子大学生の返答を噛み締めていた。
「『答え』は聞く気ないそう言ったよね。別に解決策が欲しいわけじゃないんだって。モテないでしょ?」
僕は内心全力でブチギレながらロリっ子大学生の饒舌を引きちぎりたがっていた。というより、毒吐ききってなんだが馴れ馴れしくなってないか?
「つまらない。お兄さんつまらないよ。飽きた。帰る。」
「あぁ・・・そう。」
僕は彼女のその態度に怒りがどこかへ消えてしまいそうなほど、呆気に取られていた。彼女の白いワンピースが消えて行くのを眺めている。
「あっ、お兄さん、最後の言って置くけど、私変わるから。お兄さん私の話聞いてる途中で、こいつガキだなとか思った顔してたけど、私は変わるから。」
「・・・。」
僕は何も言わなかった。変われないそう思っていたからだ。それは紛れもなく、僕自身の経験だったから。
9月。
僕は新学期を迎えるにあたりイメチェンをしていた。いや、彼女に感化されたわけではない。偶然と言わざるを得ない偶然だ。偶々或いは偶発。ダランと下ろしていた髪をかきあげ、ワックスで整えて額を開けてみる。なんだか前向きになった気がしていた。気がするだけなのだが。いつ振りだろうか、顔を全部出すような髪型にしたのは。あいつらに笑われるだろうか。まあそれもまたいいだろう。僕は玄関を開けた。
友達と受講する講義室までの間、なんとなく周りの視線を気にしながら講義大学構内を歩いていた。今ままでと変わったことなど、初対面の人間からすればわからないことなのになぜか初対面の人ですら気にしてしまう。とぼとぼと朝の空気を吸いながら澄んだ空に「変わったぞ」と心で誓う。そんな折、前の方からまた人がやって来た。ブラックカラーをベースに高級感溢れる衣類と高めのヒールで着飾っていた。しかし、初対面であるはずのその顔には見覚えがあった。
僕は気づいた。
相手も相手で僕に気づいて理解した。
僕は笑った。
彼女も笑った。
「変わったぞ。」
「私も。」
ただの見た目の問題だろう。中身は何も変わってないのかもしれない。だが、変わったのだ。お互いがお互いに。
あの泉では名前も聞かなかった。そうであるから所属大学なんて尚更だ。
だから、初めましてだ。
「僕は新谷涼介。」
「私は涼宮伽耶。」
「初めまして。後輩。」
「初めまして。先輩。」
変わってんじゃん。
新学期だろうが、日常だろうが、何かの出来事だろうが、いつだって人は変わる。変われるし、変わらされる。
変わらなかった2人がこの出来事で変わるか、変わらないかはまた別のお話。