最重要人物
信長個人に対して恨みを抱き、実際に攻撃を行い、光秀とも接点のある人物が1人浮かんでくる。
室町幕府第十五代将軍足利義昭である。
十二代将軍足利義晴の次男として産まれた義昭は、跡目争いが行われないよう寺社に預けられ覚慶と名乗り高僧になる。
しかし、兄の足利義輝が暗殺されると朝倉家で匿ってもらい明智光秀を仲介して信長に助力をもらい上洛する。
永録11年(1568年)に将軍に付き、幕府を再興させることに成功する。
この時点では信長と義昭の関係は良好だったようである。
しかし幕府による統治を目指す義昭と武力による統一を狙う信長の思惑が違うため、関係は次第に悪化していく。
義昭は元亀2年(1571年)頃から上杉、毛利、武田、本願寺、六角等に御内書を出し、信長包囲網を形成し朝敵として攻撃させている。
上杉、毛利は信長の最期まで抗戦ししていたが、六角、武田、本願寺、浅井朝倉は信長に敗れほぼ瓦解している。
しかし義昭の打倒信長の思惑は本能寺の変近辺まで行われていたと考えてもいいだろう。
元亀4年(1573年)、義昭は京都を追放され、天正4年(1576年)に毛利家の備後国鞆に入る。
鞆に滞在中に本能寺の変が起こったといういきさつである。
義昭は京都に滞在しておらず、本能寺の動向を見ることができなかった訳であるが、義昭を黒幕と仮定した上で考証していく。
明智光秀は義昭の上洛に尽力し、信長と仲介させたことで幕府の高官に出世している。
言わば幕府の直参でもあり、信長の家臣でもあるという二重登用の状態であった。
内密に義昭の要請を受けていて信長が手薄になった状態で暗殺を行ったという考えなら光秀の行動も納得ができる。
本能寺の変で明智方に着いた武将の中には将軍申し次衆の伊勢貞興を始め、警護衆の西岡氏、京極氏等が参戦しており、義昭の関与を匂わせている。
幕府の意向であるから事件が成功するまで様子見をしていた細川家も変後には賛同するのではという考えで放置していたとも考えられる。
細川家は信長に付くまでは幕臣であったし、忠興は娘婿であるから変後に味方をしてもらえると考えても不思議ではない。
毛利、上杉も包囲網がほぼ崩れ去った状態でも抗戦を続けていることを考えると義昭の求心力も低くないと見ていいだろう。
光秀が信長以上に義昭の要請を尊重するというのも理屈として理解できる。
信長に仕えた荒木村重は天正6年(1578年)10月、突如謀反を起こし、反旗を翻す。
原因には諸説あるが、その中に義昭の関与を理由としたものが挙がっている。
謀反は失敗に終わるが、信長に重用されていたにも関わらず寝返った裏に義昭が関わっていたとするならば、本能寺の変の光秀も同様に調略されていた可能性が高まる。
義昭の目的が織田家の攻略ではなく、信長個人に対する怨恨であったならば、信忠を軽視した光秀の行動にも整合性が出てくる。
義昭の要請に光秀が応え、内通を密にしていたために秀吉に漏れてしまったと考えるのが仮説として妥当ではないだろうか。