羽柴秀吉
秀吉の行動は本能寺の変を知っている視点から見ると不信な点が多すぎる。
事実、本作品を執筆するに当たって、当初私は秀吉の陰謀説を採用しようとしていた。
秀吉の山崎の合戦までの行動を見ていくことにする。
(諸説あるが)農村出身の秀吉は信長に見込まれ仕官される。
当初は馬飼いから始まり、草履取り、台所奉行等を経て足軽に昇る。
与えられた役所で目を見張るアイデアで場を改善していく様は信長を驚かせたのだろう。
物凄い速度で昇進を続け、織田家旧臣と肩を並べるまでになる。
畿内をほぼ平定し、長篠で武田を壊滅させた信長は、天正5年(1577年)越後の上杉を攻める柴田勝家の援軍に任命される。
そこでは勝家と作戦を巡り仲違いをし、戦線を離れる事になった。
その後中国の毛利攻めを任され、本能寺の変まで中国攻略を続けることになる。
播磨(兵庫県)から備中(岡山県)までを順当に攻略していった秀吉は天正10年3月15日、高松城を攻める。
4月15日に包囲するも敗退。この頃毛利の援軍の気配を察知し、一度信長に援軍の要請をしている。
明智の軍を向かわせるという返事を貰った秀吉は、難攻不落の高松城を落とすため、川をせき止め、高松城の水攻めを敢行。5月8日から工事に着工し、19日に完成する。
因みにこの頃に2度目の要請をしており、その時の手紙が信長の出陣を決意させる。(5月17日の家康応対時の手紙)
毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の援軍4万が駆けつけたが既に堤防は完成しており、水に浮かぶ高松城を傍観するしか無かったらしい。
動きの取れない毛利軍は講和することを決める。
互いの主張が会わず講和が停滞している内に本能寺の変が起き(6月2日)、翌6月3日に秀吉の耳に届く。(毛利への密書を掴んだと言われている)
秀吉は毛利方に信長の死去を悟らせないまま要求を下げ講和を結ぶ。
高松城主の切腹を見届けた後6月6日の昼に兵を下げ京へ急いだ。
これが有名な中国大返しで、200キロの距離を7日で走破している。(6月13日に山崎で明智光秀と戦う)
光秀を討った事で後に天下人の道を歩む秀吉は最も本能寺の変の恩恵を受けた人物と言えよう。
また、変の発端である援軍の書状も、それがなければ事件が起こり得なかったことも考えると、変の裏に秀吉が絡んでいたという陰謀説もあながち無視できない主張だと言えるのではないか。