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状況から見える矛盾

 一度時系列を整理しておく。


 5月29日、信長は僅かな供廻りを従え本能寺へ入った。


 翌6月1日(天正10年は5/29の次が6/1になる)、本能寺で茶会。夜には宴会が行われる。

 この日の午後4時頃から光秀は兵を集め、軍議を開いた後に兵を東へ(京へ)進める。


 つまり、光秀が動き出す頃には信長の懐が薄いことを気付いてる事になる。




 ただ、信長が手薄だと知っただけで首を取りに行くだろうか。


 光秀を「頭の切れる、聡明な武将」という評価を当てはめて見てみる。


 主君殺しは下克上の時代と言えど大罪である。

 現に秀吉はその大義名分を元に味方を集め、光秀を山崎の戦いで破っている。


 天下取りの野望や怨恨を理由に信長を討つとしても、周りに理解させなければ自らを窮地に陥れてしまうのだ。


 現状有力家臣が散り散りになっていたとしても信長の訃報を聞き付ければ一挙に光秀が攻められる。


 史実では秀吉が中国大返しでいのいちに駆け付けたが、柴田勝家や滝川一益も遠いとは言えない距離にあり、すぐに戻ってくる可能性があった。


 因みに柴田勝家は上杉の追撃、滝川一益は北条の攻撃を受け足止めを食らう。


 四国征伐に向かう予定だった信長三男の神戸信孝は出征を3日に控え堺にいた。

 軍も整っていたが本能寺の変を聞いた兵たちが逃げ出してしまったため動けずにいたらしい。


 要するに光秀は運が良かっただけで、もしかすると変後に取り囲まれる可能性もあったのだ。


 とても頭の切れる者の行動では無い。


 信長も、光秀が後先を考えれる人間と評したから自身の周りを手薄にして問題ないと考えたのでは無いだろうか。





 情報伝達の未熟な時代。人の足でしか周りの情報が届かなかった時代で、軍備を整えていた光秀を想像してみる。


 6月1日、これより兵をまとめようとする折、一人の伝令が光秀の元に来る。


「織田信長公、本能寺にて本日茶会を行っておるようです! 付き人は少数! 本日は本能寺にて宿泊されるようです!」


 当時の本能寺の向かいには明智屋敷があったらしい。本能寺の情報は光秀にも把握できたと考えられる。

 しかし、


「なるほど好機! 信長を討とう」


 となるだろうか。


 別働隊が近くにいる可能性は? 信長も中国遠征に同行する予定だったのだ。兵を集めている可能性は考えなかったのか?


 自身の行動に賛同する武将はいるのか? 事実光秀は変後に親い武将に手紙を書いて回っている。変を起こす段階では近辺に情報を出していない。結局一番近かった細川家は親子共々手紙を無視し、高山右近などの摂津衆、光秀寄りの人間でさえ秀吉に味方する事態になっている。


 徳川家康も堺にいたし、信長の息子の織田信忠の所在も知れない。


 このような状態で


「柴田も滝川も羽柴もいない。信長も手薄。今こそ好機!」


 となるだろうか?





 光秀は丹波の国を与えられ善政を敷いたと言われている。


 領民の事を考え、また領民にも光秀自身愛されていたらしい。


 クーデターに失敗すれば光秀だけに限らず、親族、領民にまで危害が及ぶ。


 そのような状況で準備もせずに突発的に信長を襲うだろうか。


 光秀の人物像からはとても考えられない行動なのだ。




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