変の動機
一番の謎は光秀の動機になるだろう。
当時の織田家臣の中で最も優遇されていた明智光秀が何故信長を討ったのか。
古くから支持されていた野望説では、少数の供廻りしか付けずに本能寺に逗留した織田信長を、軍備を整えた光秀が好機と捉え犯行に及んだと言われている。
確かに有力な家臣は西へ東へ遠征しており、京が手薄になった状態。天下取りの野望を抱いていたら絶好の機会である。
しかし、天下を虎視眈々と狙っていたのなら変の前後の行動が余りにも杜撰でお粗末だ。
詳しくはいずれ説明するとして、知略に富み、計算高いと評価されていた光秀にしては何故と疑問が出るような行動を取っている。
それこそ突発的な犯行であるかのように行動が後手後手なのだ。
例として挙げるとすれば、近しい武将との同盟や支援を受けていなかったこと、事件後にわざわざ安土城まで向かったことなどである。
また、有力だった説に怨恨説が挙げられる。
度重なる信長の叱責や、人質に取られた実母を殺された事、領地替えを命じられたこと、秀吉の援軍になることで自尊心を傷つけられたなど、信長に対しての不満がたまった事を動機とする説である。
しかしこれも、江戸時代以降に創作された物で信憑性も弱く、もし仮にそれらが動機だったとしても、それほどまでに遺恨を抱く相手を近くにして信長が手薄な状態にいることにも矛盾が起きる。
信長がそれほど人心を把握できない人間ならそれまでの発展は起こらなかったのでは無いだろうか。
さらに明智家法という光秀がしたためた家訓には、
「信長様は自分のような粗末な人間を拾い上げ、引き立ててくれた。一族家臣は子孫に至るまで信長様に尽くさなければならない」
と書かれている。
これは天正9年、つまり本能寺の変の前年に書かれており、この1年の間に殺害に及ぶほど評価を変えたというのは考えづらい。
要するに光秀の行動は計画的にしろ突発的にしろどちらも矛盾を孕んでいるのである。