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明智光秀

 次は主犯各の明智光秀についてである。


 近畿地方で斎藤家や朝倉家等、仕官する先を変え浪人のような存在だった明智光秀は1568年頃から織田家に仕えるようになる。


 将軍足利義昭とも接点を持ち、文武に渡る活躍により信長の信頼を得、1580年には近畿地方一帯の所領を与えられて登用10年で織田家一の出世頭となる。





 信長の側近としてその存在感を大きくしていた光秀であったが、何故凶行に及んだのか。


 その動機は未だ判明されていない。


 本能寺の変直前の光秀の行動を追ってみる。






 天正年5月14日(1582年)、信長より軍務を解き安土を訪れ徳川家康の接待役を任じられる。


 翌15日から17日の3日間接待を行うが、17日に信長の元に届いた羽柴秀吉の中国援軍の要請により、接待約の任を解かれ援軍の総大将に任命される。


 光秀は17日中に坂本城に戻り、軍備を進めた。




 26日、坂本城を出た光秀は丹波の亀山城に移る。(坂本城は滋賀県、亀山城は京都)


 27日、愛宕山に登り参拝。その晩は宿泊した。


 28日、威徳院西坊で連歌の会を開く。


 6月1日、午後4時頃より部隊が続々出発。午後6時に部隊13000人を集結させる。


 軍議を開いたのち、軍を出発させる。本来南へ向かうべき所を東に進め、老の坂に着く。

 ここには京の都と西国へ向かう道の分岐点があったが、光秀の軍は京へと足を進めた。


 6月2日未明、桂川付近で戦闘準備を始める。


 午前4時頃本能寺を完全に包囲し、本能寺の変が起こったと云われている。





 この犯行の動機が未だ不明な点だ。


 和睦交渉を信長に反故にされ、実母を殺されるはめになったこと。

 仲立ちしていた長宗我部家との交渉を一転される等数々の遺恨により犯行に及んだ説。




 晩年より信長が息子達を重用することになり、所領地を転封されてしまったこと。


 重臣達が言いがかりのような理由で処罰されていく様を見てこれからの処遇に危機感を覚えたからと言う説。




 根本的に光秀に野心があり、偶発的に起こった信長討伐の好機に犯行に及んだ説等がある。





 更には光秀の他に暗躍していた者がいると言う黒幕存在説まである。


 一先ず推測は置いておき、黒幕説も含めた推測をするため他の武将の行動も見ていくことにする。




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