織田信長
先ずはこの戦国史最大のミステリーの被害者である織田信長の動きを追ってみようと思う。
幾度となく画策された織田包囲網をくぐり抜け、当時天下をほぼ手中に治めていた織田信長。
全国の有力な大名は織田家に恭順の姿勢を見せており、天正10年4月(1582年)に武田家を滅亡させてからは越後の上杉家、中国の毛利家、四国の長宗我部家を除いては表立って反抗する大名はいない状況だった。
信長は中国地方を羽柴秀吉に、越後を柴田勝家、滝川一益に侵攻させ、四国へは神戸信孝、丹羽長秀を向かわせる準備をしていた。
軍事的には天下布武の総仕上げの段階である。
その折、武田征伐の戦勝祝いと自国の加増のお礼にと安土城に徳川家康が訪れる。
事件の半月前の5月15日の事である。
信長は近畿一帯をを指揮させていた明智光秀に接待役を命じ、手厚く迎えた。
家康が来て2日後の5月17日、中国地方より秀吉からの報せが届く。
「高松城を攻めあぐねている間に敵に毛利、小早川、吉川の援軍が到着した。直ちに出陣を要請する」とのこと。
信長は相手の大将が出てきている今こそ毛利家を潰す好機と捉え、要請に応えるよう動き出す。
同日、明智光秀の任を解き、中国出征の準備を進めさせる。
14日に安土城に帰還した息子織田信忠も出陣の為に19日に上洛させている。
家康の接待は20日まで続くが、それが終わると家康に堺を見物するよう勧め、自身も中国遠征の準備を進めて29日に上洛し、本能寺へ着いた。
その際茶器等の名器を多数持参している。
事件前日の6月1日、本能寺に公家を招き茶会を開く。名器を見せ合う茶会だったと思われる。
茶会が終わると酒宴になり、既に京都にいた信忠も参席し、酒を飲み交わした。
深夜、信忠は自身の寝泊まりする妙覚寺へ帰宅。信長も本能寺で就寝する。
その未明、寺の外の喧騒で目が覚めた信長は当初見張りの喧嘩が起こったと思ったらしい。
すると兵の鬨の声が上がり鉄砲が撃ち込まれた。
小姓の森蘭丸に確認をとらせると明智の軍団という事が発覚する。
その時本能寺に詰めていた衛兵は100人足らず。一方の明智軍は本能寺を13000人で取り囲んでいた。
「是非に及ばず」
そう一言呟くと弓を持ち槍をもち応戦する。
しかし抵抗も虚しく負傷。
火の上がった本能寺の中に消えていき、自刃したと云われている。
なお、信長の遺体は事後明智軍が執拗に捜索したが見つけることはできなかった。