室町戦国時代【1】
1 足利義満亡き後の将軍たち(1408~1441)
(1)4代義持5代義量(1408~1429)
義持は人望があり、政権は安定した。
義量も、手堅く受け継いだ。この義量が酒害で若死にしなければ、戦国時代はなかったかもしれない。
1416年、関東で上杉禅秀の乱という争乱があった。これは、関東の主にならんとする野心から、上杉が起こした下克上反乱。
(2)6代義教(1429~1441)
一般的な評価では、大名に対する強圧的な政治が祟って、混乱が起きたとされている。しかし義教の大名に対する態度は、普通だった。義満時代とほとんど変わらない。
むしろ変わったのは、各地の大名たちの意識である。一円支配、生産向上で地力をつけた各地の大名は、独立心を強め下克上の意識を持った。逆を言えば、義教が近年の情勢を見誤り、旧態依然のやり方を進めたということである。
よって、各地で反乱が起きた。
鎌倉公方足利持氏や結城晴朝はたまたま実力者だったので、目立っただけである。
赤松満祐の将軍暗殺は、義教の態度を見誤った結果である。知略があったがゆえに、気を回し過ぎた。
2 応仁の乱前後(1443~1477)
(1)足利義政将軍
一般に、その失政が災いして乱が起きたなどと評価されるが、義政は、普通だった。むしろ人望があり、平和だったら名君になっていた。夫人の曰野富子は財テクオバサンとして悪評されているが、当時財テクは普通のことだった。義政の周りに風流人(今でいうオタクとか)が集まったので、おかしく思われた。
足利政権自体が中央集権をしていなかった(内乱でできなかった)から、乱れるのは必然だった。
(2)相続争い
本人たちの才能なぞ関係のない、不毛な争いだった。
足利では、義視は指導力あり、義尚は知略に秀でた。
加担した両巨頭(細川勝元、山名宗全)は、二人とも足利にとってかわって幕府を作れるような実力者たちだった。山名は指導力と人望を兼ね備えていたし、細川は天下を取らんとする気概の持ち主だった。どちらか一人だけが存在していれば、幕府は安泰だった。
斯波氏では、義敏は向上心溢れ意欲に富む気概の持ち主、義廉は突破力に秀でていた。
畠山氏では、義就が突破力あり、政長は対人交渉に秀でていた。