鎌倉建武南北朝【4】
9 1335~1336年、足利尊氏挙兵
足利尊氏の急進発は、あらかじめ用意されていたかもしれない。尊氏の知恵袋たる弟の直義が講じたのだろう。ただ例え直義が用意していたとしても、それに応えるだけの行動力が必要だ。尊氏には、それがあった。
また、直義の朝廷重視の態度からして、尊氏の勅命無視は想定外だったに違いない。尊氏は、朝敵となる覚悟を持ちながらも、悲壮ではなく意気揚々と鎌倉へと進発したのではあるまいか。
(1)北条時行に勝利した時、直義の策で鎌倉幕府継承を宣言した。北条残党を味方につけつつ、新興武士勢力の声に応える。一石二鳥の絶妙の策である。巧妙に、奸臣新田を除く(天皇には反抗しない)などと言ってもいる。直義が天皇(をよすがとする勢力=公家、社寺)を怖れていたことが判る。当時、日本の土地の大部分が公家、社寺の所有だったことをよく知っての策。いわば破天荒な兄の尻拭いを、弟がした形だ。
(2)1335年12月、箱根竹ノ下で天下分け目の第1戦
京都から新田義貞軍が、鎌倉足利尊氏討伐に派遣されてきた。兵力は、ほぼ互角。2つのことで、足利の勝利となった。
1つは、新田方の佐々木高氏(道誉)が、足利方に寝返ったこと。佐々木は組織力が優れ、近江を制していた。
もう1つは、新田の弟、義助の兵たちが萎縮していたこと。
意欲と知略が、人望プラス(兄義貞)マイナス(弟義助)に勝った。
足利勢は近江を容易に通過して、京都に入った。
(3)1336年1~2月、京都第1次攻防戦
足利尊氏直義軍は、京都に進撃した。播磨の重鎮赤松が味方し勝利は確実と思えたが、天皇方にとんでもない救世主が現れ、足利は九州へと逃れざるを得なかった。天皇方には、人望力の新田義貞、知略政略の楠木正成らがいたが、これに加え奥州から北畠顕家が彗星の如く飛んできて足利を打ち破ったのである。北畠はこのときまだ19才だったが、公家とは思えない強力な指導力で奥州騎馬軍団を率いてわずか半月で京都に来た。(600㎞を1日40㎞で)尊氏の突進力を凌ぐ突進力だった。
(4)1336年5~6月、京都第2次攻防戦
足利は、九州で兵力を結集した。尊氏の突進力の噂は、全武士の知るところだった。そして足利は、京都に進撃した。このとき、天皇方に北畠はいない。奥州に帰ってしまっていた。尊氏の勇名を過小評価したのであろう。尊氏のあの突進で、既に大勢は決まっていた。
楠木はさすがに政略に明るいだけに尊氏の勇名を正確に評価し、天皇に足利との和議を提案している。楠木の発言力が弱く、ダメだった。