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鎌倉建武南北朝【3】

7 1333~1335年、建武政権


後醍醐天皇が京都に帰り、新政権を樹立した。倒幕に参加した全員が、新政権のメンバーになった。


(1)恐らく理想的な体制は、天皇が、新田なり足利なり然るべき武士に政権を委任し政務を代行させる形だったろう。天皇が象徴的地位に収まれば、安定する。平清盛政権の形である。

しかし天皇は、自ら主導しようとする野心が強かった。それに加えて、陰謀的な手法である。人心を失うのは、必然だった。


(2)新政権のメンバーは、様々な人物がごっちゃ混ぜだった。


中心的存在は護良親王だが、指導力を欠いた。せめて現場にあればその対人親和力を発揮できたであろうが、いかんせん宮廷内に留まる親王だった。


政略に長けた楠木は雑用係に過ぎず、組織指導力に長けた名和は一官吏にすぎなかった。


関東で人望を集めた新田は、その関東を置き去りにした。


実力者赤松には、官職さえなかった。恩賞も一旦与えながら、後に取り上げたのは有名である。


宝の持ち腐れ、だった。


メンバーでかろうじて能力を発揮できたのは、奥州に派遣された陸奥守北畠顕家、関東に派遣された武蔵守足利直義、侍所に参加した高師直の3人である。いずれもこのとき初めて登場し、次代に能力を発揮することになる。


顕家は、北畠親房の子。北畠は、強力な指導力により奥州の軍事力を手中に収めた。足利の全国制覇を困難にすることとなる。


直義は、足利尊氏の弟。知略政略に優れ、新田のいなくなった関東を掌握した。


高は、足利尊氏の側近。ただ他を寄せ付けない人物のため、人望はなかった。



そして、足利尊氏が新政権メンバーに参加しなかった。外されたわけではない。天皇(尊治)から名前をもらっている。本人に、野心がなかったのである。ただ、この頃から態度を一変させてはいる。やがてその能力が、いかんなく発揮されることになる。


(3)1334年、護良親王免職幽閉事件


天皇が陰謀を巡らせ、足利尊氏をおとしめようとした。足利が関東を捨てずに逆に地盤固めをしたことから、警戒したのだろう。宮廷にこもった護良親王が太刀打ちできるはずがなかった。天皇は、またもや蜥蜴の尻尾切りをした。



8 1335年、中先代の乱


滅亡した鎌倉幕府執権北条高時の子、時行が逃亡していたが、ついに反乱を起こした。残りかすというのが一般的な評価だが、時行はかなりの実力を持っていた。足利が関東を固めたはずだったが表面だけで、北条の勢力が残っていた。それを統合し指導する力を持っていた時行は、知略に長けた足利直義に圧勝した。ここに、建武政権は崩壊の危機に瀕した。


そしてこのとき、北条時行に並ぶ実力を持つもう一人の存在、足利尊氏が動いた。悠長に構える天皇の態度に対して、尊氏は兵を率いて京都を急進発し電光石火の勢いで北条時行に勝利したのだった。それまで割合大人しくズッシリ構えている印象のあった尊氏が見せた、今までにない突破力、突進力だった。いったい尊氏にどんな心境の変化があったのか、それは分からない。

いずれにせよ、尊氏のこの行動は各方面、各勢力に巨大な衝撃を与えた。天皇方にとっては、命令を無視されつまり反逆した足利。そして武士方にとっては、新しい頼りがいのあるリーダー足利の出現。武士の多くは、尊氏の突飛な行動に呆れたことだろう。呆れながらも、尊氏についていけばという安心感を持った。このとき足利尊氏は、この時代の最高の英雄になった。

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