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鎌倉建武南北朝【2】

3 1324年の正中の変


前述の曰野俊基が計画立案した、鎌倉幕府打倒計画。その兵力として期待されたのが、美濃の土岐一族。計画が頓挫し敗れて死んだため小規模な兵力のように誤解されるが、その実力は侮りがたいものがあった。当主土岐頼兼、同族多治見国長の存在は、共に当時の武士勢力の中でもトップクラスである。もし生き延びていたならば、足利尊氏と並ぶ存在になっていた。京都に近い地理的位置により、土岐幕府が成立した可能性がある。その実力ゆえに、後、足利幕府により討たれるのである。

このとき後醍醐天皇が関係ないと言い逃れているが、公家社会では裏切りや蜥蜴の尻尾切りは普通のこと。


4 1331年の元弘の変


この倒幕計画に、初めて大塔宮護良親王が登場する。天皇方の代表者として有名であるが、本人には背負って立つ力量はなかった。ただその公家育ちゆえか対人関係を得意とし、土岐亡き後の兵力結集に貢献を果たした。親王が奔走したお蔭で、楠木正成ら畿内各地の武士や社寺が立ち上がってくれたのである。


兵力不足を憂慮した吉田定房により、発覚。これにより天皇方は、策士曰野俊基を失った。


このとき捕らえられた文観が死を免れたのは大きく、後の社寺勢力結集の中心に立ち貢献した。


後醍醐天皇が隠岐に流され天皇方は壊滅したが、楠木が知恵を絞り千早の小城で幕府の大軍を苦しめたのは有名である。楠木は戦術だけでなく政略も秀でていたが、出身が下層ゆえ公家主体の新政権で能力を発揮できなかったのは惜しまれる。楠木に足利や土岐並の実力があったら、幕府を開いていただろう。


5 1331~1333年、反幕府勢力が各地で決起


楠木の奮闘が契機となって、各地の武士が立ち上がって幕府に反抗した。楠木の、政略の勝利といえよう。


決起したなかでは、播磨の赤松則村が最も巨大な存在である。土岐に代わる実力者であり、幕府を開く能力を持っていた。本人に野心がなかったので、大勢力の手駒とされた。子孫は、足利氏に討たれる。


その他、伯耆の名和長年や、伊予の得能通綱も相当な実力者だった。肥後の菊池武時も秀でていたが、孤高の存在だった。


6 1333年、鎌倉幕府打倒


直接手を下したのは、足利高氏(のち尊氏)と新田義貞の二人である。


足利は、強力な組織力を作り上げ幕府を開く実力を持っていた。ただ本人に野心がなく、六波羅攻撃も偶然のことだった。足利は、京都に出てからは態度を一変させ、建武政権の打倒を目指すことになる。


当時、足利よりも人望を集めたのは、新田だった。新田は組織力はあまりなかったが、その包容力の巨大さで関東の各勢力を結集することに成功した。僅か数百騎で上野を出発したのが、鎌倉に迫る頃には数万騎に膨れ上がっていた。天皇方の歪んだ歴史記述では偶然のこととされているが、必然だった。

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