鎌倉建武南北朝【1】
[時代説明]
この時期は、鎌倉幕府末期の北条氏の専横に対して、天皇を中心とした勢力が立ち上がり倒幕したが、後分裂し抗争した時代。
【姓名判断評価】
1 鎌倉時代末期の朝廷勢力
(1)リーダー後醍醐天皇
武士勢力に圧せられる現状の打破に止まらず、自ら新政権の中心に立とうとした。象徴的な存在でしかない天皇が自ら表舞台に立とうとした、特異な人物である。その政治手法は、周囲の公家の常套手段たる陰謀である。陰惨な策謀により院政停止や後の武士勢力圧迫を進め、権力を手中にしようとした。しかしその仲間を平気で裏切るという悪辣さのため、後、人材が次々に離反し、ついには孤立して悲惨な最期を遂げるのである。天皇に同情的な解釈が多いのは、弱者を哀れむ心情からである。天皇が主導したので、天皇制を重んじる勢力からの史観として南朝正統論がある。天皇自身の手法が正面から対するものであったならば、武士勢力は復活しなかったか、復活しても勢力が伸長しなかったのではと思われる。
(2)後醍醐グループ(天皇の周囲の公家たち)
1321年~1323年の後醍醐親政開始時の主なメンバーは、北畠親房・万里小路宣房・吉田定房・曰野資朝・曰野俊基・玄恵の6人である。この集団を紐解くと、北畠がリーダーである。北畠は、公家に似合わず陰謀手法を用いない人物だったため、支持を集めたと思われる。また、北畠の集団指導力も秀でており、この集団を実質的にも指導していた。ただ惜しむらくは、他の勢力との交渉力を持たず、それがため後醍醐勢力を孤立させた点であろう。また、陰謀力を欠いていたため、後の建武政権の維持に失敗する一因ともなった。集団唯一の交渉力を見せていた万里小路がもう少し若かったら、と惜しまれてならない。天皇の陰謀力を実質担ったのが曰野俊で、二度にわたる幕府打倒計画を立案した。天皇や曰野俊の陰謀を下支えしたのが、曰野資や玄恵で、曰野資は具体的な活動を担い、玄恵は幕府打倒の大義名分構築を担った。集団メンバーで最も評価が難しいのが吉田。吉田は天皇に味方するかと思えば幕府方につくという奇怪な態度を繰り返しているが、これは吉田の先見の明の表れだと思われる。吉田は、異なる勢力が結集せねば事の成就はないと早くから見切っていたようである。あるいは天皇の支持を得て動いた可能性も、ある。
両曰野を中途で失ったことで、天皇の孤立が加速した。
2 鎌倉幕府勢力
得宗執権の北条高時は、物語などで犬遊びに興じ政治を顧みずゆえに打倒されたなどと記されているが、これは天皇側からの敵を貶める歴史記述でしかない。北条自身は、秀でた統治家であった。統治家であって政治家でないところが、注目点である。他の御家人を圧し権力を集中させる手法は北条氏の伝統であったが、この高時は特に著しい。高時により、得宗専制体制が完全に確立した。他の勢力の反発が激しくなった所以である。
高時の腹心長崎高資が悪逆で有名だが、長崎はこの体制の一人に過ぎない。長崎がトントン拍子に出世したことへの妬みも加わっての悪評であろう。