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 いつもより速く自転車をこいでいたせいで、彼はたくさん汗をかいていた。今日のような冷えこむ夜であっても、運動をすればそれなりの汗をかくというものだ。彼は仲間から借りたパーカーを着てはいたが、それももう暑苦しく感じていた。首筋に当たる風はまだぴりっと冷えるものの、それもだんだんと彼にとって心地良いものへと変わっていった。


 彼は短く刈り込んだ頭を掻いた。いつもより二時間以上も帰るのが遅れてしまった。コンビニのアルバイトが終わったのは夜の十時だったのだが、それから従業員の控室で、二人の気の合う仲間たちとゲームをしていたのだ。本当はすぐに終わらせるつもりだったのだが、つい熱中してしまい、気がついたときには深夜零時を回ったところだった。その二人は彼よりも二歳年上で、地元の大学に通っていた。これから、控室で仮眠を取って、朝にまたバイトに出るのだそうだ。彼らのうちの一人は親切な人で、これから帰ろうとする彼に、店に置いてあったパーカーを貸してくれた。そんな自由な大学生たちを見て、俺も早くそうなりたいなと、高校生の彼は思ったものだった。


 昼食以降まともなものは何も食べていなかったので、彼は腹が減って死にそうだった。母さんは俺の分の夕食を残しておいてくれているだろうか? あるいは全部食べてしまって、もう寝床に入っているのかもしれない。父親は早寝早起きをそのままかたちにしたような人で、九時か十時にはもうぐっすりと寝息を立てている。だからこの時間、起きているとすれば母親だけだった。彼が「ただいま」と言って玄関を開けたとき、母親はたいてい彼を出迎えてくれる。彼はそれをいつも嬉しく思っていた。とても同級生にこんな話はできないのだが、彼は母親を心から愛しているのである。


 だから、今回のこの失態は、彼に少なからぬ動揺をもたらした。母親の携帯に電話をかけてみたのだが、出ない。まあそれはいつものことで、母親は携帯が鳴っていても気づかないことが多いのだからそれはそれでいいのだけれど、連絡がつかなかったことで彼は不安になっていた。帰宅したとき、俺は一人なんじゃないか。母さんは父さんに倣ってとっくに眠っており、俺はたった一人で冷蔵庫の中を探り、料理の残りものでも見つけて、深夜にやっているドラマでも見ながら淡々と食事をしなければならないのか。そのことを考えると恐ろしい気持ちにさえなった。彼にとって、母親のいない夕食というのは考えられない忌々しき事態だったのだ。


 自転車を走らせているあいだ、彼は幾度となく空を見上げた。何だか雲行きが怪しい。いつ降り出してもおかしくない天気だ。彼は正面に見える月から目が離せなかった。月は厚い雲などもろともせずに、絶えず光り輝いている。月の光っている領域に雲は立ち入ることができず、その周辺をうろうろすることしかできていない。こんな景色を見たのは生まれて初めてだった。空全体はすっぽりと灰色に包まれているのに、月だけはその輝きを失っていないのだ。それは障子の隙間からそっと覗く、着物を着た美しい女を彼に思い起こさせた。綺麗なのだが、どこかぞくりとさせるものを持っている。


 それにしても、と彼は思う。今日はやけに冷え込んでいるな。季節はまだ九月の下旬だ。夏の余韻がいまだ残る微妙な季節である。にもかかわらず、今日の夜は真冬の北海道みたいな寒さだった。彼自身、北海道に行ったことはないから想像でしかないのだが、そう思わせられてしまうほどの冷えこみ方だったのだ。コンビニから出るときは本当につらかった。暖房の入った店内に戻りたかった。でも、これ以上遅くなるわけにはいかなかったし、高校生は十時には帰らなくちゃいけないんだぞー、と大学生たちが囃したてていたので、彼はどうしてもそこをあとにしなければならなかった。次からはあらかじめ天気予報を確認しておこう。彼はアルバイト先を出発するときに思った。時間を忘れてゲームに没頭する、という行ないも、次からはできるだけ禁止しようと心に決めた。


 月はぼんやりと、だが印象的に光っている。その光り方は、見れば見るほどおかしなものに感じられた。普段よりもいくぶん主張が激しいようにも思える。まるで残された時間を使って、必死に何かを伝えようとしているようだった。もしかすると、これからすごい雨が降るのかもしれない。月はそのことを伝えようとしているのかもしれない。彼はおぼろげにそのように想像した。


 いくつかの角を曲がりながら、自宅へと急ぐ。途中、彼は奇妙な臭いが漂っているのを感じた。獣の体に鼻をへし当てたときのような強烈な臭いだ。彼は思わず「うっ」と嘆息を漏らし、顔を下へ潜める。息を一時的にとめて、臭いの発生源から懸命に逃れようとする。臭いはそれから、まもなくしてなくなった。彼はだいぶ離れたところでやっと臭いの消えたことに気がついた。一体今のは何だったんだ? 彼はまるで、知的好奇心にあふれた児童のようにそのことが気にかかった。しかし、今は家に帰ることが先決なので、この問題は明日までに取っておくことにした。明日の朝、学校に行くときにでもまたあそこを通ってみればいい。それでもまだ臭いが残っていたら、ちょっと周辺を探索してみよう。今はもう暗くなってしまったし、寒すぎる。探し物をするにはあまり良くない時間帯なのだ。


 そこで彼は、後ろに向かせていた顔を前へと向かせて、ペダルに乗せた足に力を込めた。




 彼が家に帰ったとき、母親はまだ起きていた。母親はテーブル席に座って静かにテレビを見ていた。冴えない顔のキャスターが冴えないニュースを伝えるろくでもない番組だった。そんな番組を母親はじっと見ていた。


「ただいま」と彼が言うと、母親はやっと彼の存在に気づいたみたいで、ゆらりとテレビから目を逸らした。そして彼のことをじっと見つめた。どうやら多少とも眠っていたらしかった。「ああ、うん」と非常に曖昧な返事をして、母親は椅子から立ち上がった。


「夕食はもう済んだ? 今日の残りが冷蔵庫に残っているけど」

「まだ食べてないんだよ。おかげで腹ペコだ」


 そう言って、彼は冷蔵庫の方へと向かった。後ろからは、母親からの目線がめいっぱい感じられた。


 冷蔵庫からハムカツとキャベツと鳥そぼろを出して、それらを順番にレンジで温める。それから麦茶を出してきて、台所の方で白飯を椀によそる。炊飯器には彼一人分のものがちょうど残されていた。彼はそれを取り出してしまうと、炊飯器の電源をオフにした。食卓が整うと、彼は母親が食い入るように見つめる中で食事をしていった。


 彼は少し頭が混乱していた。母親はまるで人が変わったみたいだった。おそらく眠たいからだと思う。意識が整っていなくて、それでいつもと違った様子が感じられるだけなのだろう。だがそれだけでは納得しきれないような何かがあるような気もしていた。テレビで変なものでも見てしまったのかもしれない。彼はしばらく食事を続けたあと、テーブルの上に置いてあったリモコンを手に取って、適当にチャンネルを回してみた。ろくなものは一つもやっていなかった。彼はあきらめて、録画してあった映画を見ることにした。一つの広々とした部屋に集まった男たちが、あれこれくだらないことを語り合うような変な映画だったが、まあ良いだろう。テレビをつけずにいるのは息が詰まるだろうし、かといってどのチャンネルも面白いものはやっていないから。


 母親の視線にはどこかこちらを責めるようなものがあった。それで彼ははっと気がついた。まだ、帰るのが遅れてしまった理由を言っていない。一応携帯のメールでそのことは伝えてあるのだが、返信も何も来ていないから、きっと携帯を開いてすらいないのだ。まずは迷惑をかけてしまったことを謝らないといけない。


「今日のことなんだけどさ。ちょっと、仲間たちとゲームをしてて……それで帰るのをつい忘れていて……」

「そうだったの。じゃあ、仕方ないわね」


 母親はそれだけを言うと、再びこちらを舐めるように見つめてきた。


 彼はさらに不可解な気持ちになった。寝ぼけているにしてはきちんとした返事でもあるし、起きているにしてはあまりにも適当な返事であるように思えた。彼は普段の、はきはきと話す母親を思い浮かべた。記憶にある母親と、目の前にいる母親とはまるで別人みたいだった。振る舞いだとか声だとかは記憶にある通りだが、言葉にできないような微妙な部分が違っている。勘違いである可能性はもちろんある。だがそれをふまえても、彼は自分の感じている違和感を拭い去ることができない。彼は一気に白飯を頬張って、食事を終えた。そして、空になった皿や椀を流し台のところまで運んで、スポンジに洗剤をつけて洗った。汚れはまだこびりついていないので、さっとこするくらいでたぶん大丈夫だ。一分ほどでその作業を済ませると、彼はもう一度、椅子に座った。明日は学校があるし、すぐにでも風呂に入りたかったのだが、今はこの違和感を解消させなければならない。


「なあ」と彼は母親に呼びかけた。「何か変なものでも食ったのか? それとも、さっきまでヤバい番組でも見てたのか?」


「どうしてそう思うの?」と母親は鋭い口調で言った。しかしそこには、怒りとか悲しみとかの感情がまったく含まれていない。


「なんとなく思っただけだよ」と彼は言った。「わかったよ。もっとちゃんと謝ればいいんだな? 今日は、帰るのが遅くなってしまって、すみませんでした!」


 彼は頭を下げた。そして再度母親の顔を見てみた。母親はまるで植物の観察をしているような穏やかな顔を崩さない。


「そのことはもういいわ。ゲームばかりするのはよくないし、それが原因で遅くなるのはもっといけない。でもまあ、そういうのは若いうちにしかできないから、少しくらいならいいんじゃないかしら」


 母親はそのあと、彼から視線を外して、どこかわからない空中の一点に視線を集中させた。


 彼はどうすればいいのかがまるでわからなくなった。腑抜けてしまった母親をどうにかしなければとは思う。しかし、どうすればいいのかの具体的なプランがあるわけではない。風呂にももちろん入らないといけない。明日もしっかり、朝の八時には学校が始まるのだから。彼は時計を見てみた。時刻はもう一時を過ぎていた。さっさと寝てしまわないと、寝不足のまま授業を受けることになる。それはできることなら避けたい。だから、彼はまず、風呂に入ってどうしようかをゆっくり考えることにした。母親に「風呂に入るから」と声をかけて、風呂場へ直行した。声をかけたとき、母親は彼のいる方向を一瞥しただけで、何も言わなかった。何も語ろうとしないその視線は、彼に打撃じみたものを与えた。


 風呂から上がったあとも母親は動こうとしなかった。彼が風呂に入っている最中、一ミリたりとも動いていなかった可能性すらある。母親は依然として、感情のない顔でどこか全然別の場所を見ていた。もうテレビになど興味はないみたいだった。映画は今、中盤にさしかかっており、みんなのいる部屋で殺人事件が起きていた。もう二人ほど殺されているらしい。その犯人が誰なのかについて、登場人物がそれぞれ好き勝手に騒ぎ立てている。彼らはみな、人が殺されたことについては何の恐怖も感じていないみたいだった。次に自分が殺されるかもしれないのに、ずいぶんと余裕の態度で論理的な議論を戦わせていた。彼はテレビを消してしまおうかとも思ったのだが、一応結末は気になるのでつけたままにしておいた。彼はテーブル席ではなくて、テレビ近くのソファーに座った。


 母さんはいつ眠りにつくのだろう。俺が部屋に行けば母さんも寝室に行くだろうか? 彼は部屋に行こうとするのだが、不安になってなかなかそこから動くことができなかった。この不安の正体はよくわからない。母親がここにじっとしていたからといって、それで何か不幸なことになるわけではないのだ。だが、彼はたまらなく不安だった。そう思っている自分自身を分析しようとするも、ますますわからなくなるだけだった。


 そして、彼はそのときになって、部屋が異様に冷え切っていることに気がついた。外があんな寒さだから、当然のことだ。暖房器具はどれも作動していない。おかげでリビングは氷山にいるみたいな寒さになっている。どうして今まで気がつかなかったのかと自分を責めたくなるくらいの、馬鹿みたいな寒さだった。母親はそれが原因で、あんなにも腑抜けてしまっているのだ。彼はそう断定して、急いでエアコンをつけた。暖房に切り替えて、設定温度も二十八℃にした。風量は【強】。エアコンはしばらくもたもたしていたが、やがて暖かい風を部屋に送りこむようになった。天からの恵みみたいな温かさだった。


 そして彼は母親のところに行って、彼女の体を触ってみた。体はやはり、相当冷えていた。風呂に入ったのはずいぶん前のことみたいで、今はもう内側からのぽかぽかしたものは感じられない。彼は母親に立ちあがるよう言った。母親はその言葉にはすぐに従って、彼に引きずられるがままになった。彼は一旦ソファーに母親を寝かせると、そこに置かれていたタオルケットを体に掛けた。体を温めるにはあまりに心許ない代物だが、ないよりはましだ。その場所で、母親の体が熱を取り戻すのを待つことにした。風呂に入れることもできたのだろうが、そんな世話ができるほど立派な男ではない。寝室まで運ぶ手もあったが、そこには父親も寝ており、父親を起こしてしまうのもいけない。


 母親はそばに座る彼のことをじっと眺めている。その顔は、ずいぶんと不思議なことをする息子だこと、としみじみ思っているようでもあった。彼はその顔を見て気詰まりな思いになった。そこで映画を見ることにしたのだが、映画はなぜだか音声が出ていなかった。母親を寝かせるときに、ソファーの上に置いてあったリモコンをどかすことを忘れていたのだ。そして偶然にも【消音】のボタンを母親が押してしまい、こうして音のない映画が完成してしまった、という次第である。そのことに彼は気づいて、リモコンを取り出そうとするが、それは彼の力では不可能なことだった。今、リモコンは母親の尻の下に挟まれ、どうにもできない状態なのである。


「体にリモコンが挟まってるよな?」と彼は訊いてみるが、母親はまるで無視していた。尻のところに変な感触があっても、まるで気にしていない様子だった。


 彼はついにあきらめてしまった。もうこうなったら音のない映画を見ているしかない。あとになって、テレビの側面にある音量のところをいじれば【消音】は解除できるのだ、ということに気づいたが、そのときにはそれすらも面倒になっていた。彼はただ、母親のそばから離れず、リビングが温まるのをじっと待っていた。


 しかし、なかなか温かくならなかった。エアコンは確かに作動しているのに、寒々とした空気はなくならない。まさか窓を開けっ放しにしているのではないかと睨んだが、窓には雨戸が引かれている。廊下に続く扉も閉められている。隙間と呼べるようなものはもう存在しない。にもかかわらず、温かさが部屋に満ちることはない。それほどまでにここが冷え切っていたのだと思うと恐ろしい気持ちになった。そしてそのあいだ、ずっと母さんは俺が帰ってくるのを待っていたのだ。とても尋常な事態だとは思えない。


 次第に彼の風呂上りの熱もなくなってきた。彼はぶるぶる震えながらテレビを見続けた。映画はかなり長くて、なかなか終わりが見えてこなかった。十人の主要人物のうち、ようやく半分が殺されたところだった。人々はいまだ熱心に、誰が誰を殺したのかについての冷静沈着な議論をしていた。


 だんだんと意識の薄れていく中で、何かの鳴る音が彼の頭の中でずっと響いていた。だがそれはかなり遠くからの音だったので、かえって彼の眠りを助長するものでしかなかった。

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