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3-2

 ついに、どこかで雷の落ちる音がした。ずいぶんと近くで落ちたようだ。まるで耳元で誰かが叫んでいったみたいに、その音は反響した。雷は、重くて激しくて引き裂くような音を立てながら、僕の体を通過していった。その瞬間に僕は震えがとまらなくなってしまう。とうとう雷がやって来たのだ。予想はできていた。けれども、それで恐怖が多少なりとも軽減されるわけでもない。雷は雷として、一定の量を保ちながら襲いかかってくる。対策をしていても、無意味なのだ。それで僕は、一旦足音のことが考えられなくなった。雷におびえ、じっと耐えしのぐことしか考えられなくなった。


 いいや、こんなことではいけない。雷が鳴った、ということは、そろそろ足音も来る、ということだ。僕はそれに身構えていなければならない。でないとまた、足音の正体を見失うことになるだろうから。それで僕は、体の震えを無理矢理とめようとした。それはなかなかうまくいかなかったが、震えはだんだんと収まり、まともにものを考えることができるようになった。雷が鳴るたび、つい気持ちが挫けてしまいそうになるが、それもどうにかやりすごすこともできるようになった。


 さあ、これで準備は万端だ。あとは、正面の鍵のかかった扉が開かれるのを待つ。それだけだ。雷をやり過ごすのにも限界がある。だから、できることなら早めに来てほしい。そういうことを心の中で願っていると、扉は、何の前触れもなくガチャリと開いた。


 ついに玄関が開かれた。そこに見えたのは、人のかたちをした黒いシルエットだった。まるで影が、人間の体のように立体的になったかのようだ。顔や服装も黒くなっていてよくわからない。男なのか女なのかさえもはっきりしない。その人は玄関の扉を開けたまさにその状態で固まっていた。僕がここにいるということにはどうやら気がついているらしい。僕もまた、予想外の人物が現れたことで固まってしまった。先ほどまでの緊張感はひとつ残らず消え失せていた。今度は別の、すごく複雑な感情が僕を取り巻いていた。何かこう、友人がいきなり、僕の目の前で何食わぬ顔で逆立ちしたような気持ちだ。すくみ上って声が出ない、というものでもない。あるいは完全にリラックスして、天にも昇れそうな気持ちとも違う。それらとはまったく別の領域に属しているような、今まで見たことも聞いたこともない未知の感情だったのだ。


 家の中も、外も、明るさの点では少しも変わらない。どちらも暗くて何も見えない。だが、不思議とその影だけは鮮明に見ることができた。なぜなら、影だけが混じりけのない真の闇を抱えていたからだ。彼だけは、他の暗闇が持っているような何かを喚起するものが失われているのだ。普通、ただの暗闇は、そこがもしも明るかったら何かの物体が見えるはずで、そういう予感のようなものを、初めから抱えている。しかし、この影は、初めから終わりまで、昼でも夜でも、いつでも真っ黒な体をしているのだ。僕にはそれがわかった。


 人の影をかたどった何かは、その場を動こうとしなかった。まるで自分が背景の一部にでもなったみたいに。そしてそのときに僕は、雷の音がしなくなっていることに気がついた。雷だけではない。雨の音や、風の音もなくなっている。唯一の聞こえてくる音は、ぶううううん、という、低く途切れのない小さな音だけだった。どこから聞こえてきているのかもわからないため、この音の正体はまるで不明だった。


 また、失敗したのだろうか? また僕は眠らなくてはいけないのか? 真の闇を目撃して、僕は瞬間的に思った。いい加減我慢ができなくなってきた。同じことを繰り返すのは、これ以上はしたくない。早くここを出たいのだ。方法なんてわからないけれど、でもとにかく、この閉じられた場所から自由になりたい。なのにどうして、お前はいつも、僕の邪魔をするというのだ。そこをどいてくれ。僕は頭が真っ黒のまま、立ちあがった。そして僕は裸足のままで前へと進み、影へと突進していった。自分が何をしようとしているのかはわからない。ただ、今自分がやろうとしていることが、今自分の一番望んでいることだということだけははっきりしていた。僕は一直線に、固まって動かない影のもとへと突き進んでいった。


 前へ手を伸ばして、影に触れようとする。だが、その手はすり抜けてしまった。あれ、と思ったそのときには、もう遅い。僕はとまることができずに、そのままの勢いで、影の中に突っ込んでいった。目がつぶれてしまったかのように何も見えなくなる。視界だけではなく、全身がどす黒い黴のようなものによって蝕まれていくようだった。僕はどんどん影を通過していく。だが、その通過はいつまで経っても終わらなかった。底のない大きな穴を落下しつづけているような感覚だった。きっと、ここに呑まれてしまったら最後、ずっと出られなくなるのだろう。出口なんて、元から存在していなかったのだ。そう思うとなぜだか気持ちが楽になった。




 だいぶ意識が薄れてきたところで、ある情景が浮かんできた。それは僕が、暗い道路に一人で立っている様子だった。下を向き、手は悔しがっているように握られている。唇を噛んで、感情を懸命に押し殺そうとしている。自分のことを観察するというのも奇妙なものだった。僕は僕に、何かを訴えてきているみたいだった。だが僕にはそのメッセージを読み取ることができない。どうしてあんなに悔しそうにしているのか、その意味を把握することはできない。そこで不思議に思った。僕はどうして、自分の考えていることを理解できないのだろう? するとあれは、僕ではないのだろうか?


 しかし、その疑問に答えてくれる人がいるわけでもない。僕はどこまでも一人だった。僕は少しだけさみしさを感じたが、同時に安心もしていた。ようやく完全な一人になれたのだという思いが、悲しくもあり嬉しくもあったのだ。結局のところ、僕の望んでいたのはこういうことだったのかもしれない。自分のことなんて少しもわからないけれど、今こうしていることが、生きてきた中で一番心地良いということだけはわかっていた。


 これで良かったのだろう。僕は悔しがる少年を眺めてから、そっと目を閉じた。雷の音はもう聞こえなかった。雷がどういうものなのかも、もはや思いだせなくなっていた。

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