3-1
目を覚ましたとき、僕はまた二階の部屋に戻ってきていた。だがそんなことはまるで気にならず、体を起こしたその瞬間から、自分がどうするべきなのかを考えはじめた。もう、この部屋に留まる意味なんてない。ここにいたら時間はあっという間に過ぎてしまい、足音が家に入ってきてしまう。そこで僕は、立ちあがるとすぐに扉の方へと向かった。相変わらず邪魔な障害物に足を取られたり、うまく避けたりしながら、一直線に近づいていく。歩くあいだ、ここに漂っている空気を何度か吸ったりしたが、やはりというべきか、嫌な臭いが部屋全体に充満していた。あまりに全体に行き渡っているため、発生源を特定するのは難しい。結局、この臭いについて考えることは一度もなかったな、と僕は思った。この問題は僕にとってはもうどうでもいいことなのだろう。死んだようなこの臭いは、もはや扱うべきではないのだ。僕はさっさとこの部屋をあとにして、廊下へと出た。扉を閉めると、以前と同じように臭いは完全になくなった。
廊下を真っ直ぐに進み、壁に触れそうになったところで右へと曲がる。僕はそこで立ち止まり、ふと後ろを見てみた。そこでは廊下がまだ続いており、小さめの窓がずらりと並んでいる。二回目の夜にこの窓を発見したときは、そこから月や自転車が見えたのだ。きっと今覗いても、見える景色は同じに違いない。僕はよほど窓に近づいていってそのことを確かめようとしたのだが、寸前のところでやめることにした。わかっていることを確かめる必要はない。たとえ確認しなくとも、きちんと月は光っているだろうし、自転車もじきにここを通ることになるのだ。今はそれに関わりあっている暇はない。あとになって、いろんなことが解決したあとで、それらについてゆっくりと考えればいい。僕は前に向きなおって、階段を下りていった。手すりがあるのと、いい加減暗闇での歩行に慣れてきたことで、つまずいて落下しそうになる、というようなことは一度もなかった。
階段を下りきってしまうと、僕は迷いなく、玄関の方へと近づいた。足音がこの家に侵入してくる前、ここの扉がどうなっているのかを確かめるためである。もしも鍵がかかっていなければ、誰でも容易に侵入可能であることを意味している。そうでなかった場合が問題だ。鍵が閉まっていたら、侵入者はいったい誰になるというのだろう。そういうところをはっきりさせるために、僕は扉の取っ手を探し出して、ガチャリと開けようとしてみた。
しかし、玄関は鍵がかかっていて、開かなかった。
僕は続いて、鍵穴のありそうな位置を手で探ってみた。だが、どうしても見つからない。そこで僕は、玄関を開けるのはあきらめることにした。
僕は扉から離れて、上り框のところに腰を下ろした。玄関は元々閉まっていた。とすると、侵入者は僕の家族か、もしくは知り合いかということになる。僕はそれについていろいろと考えを巡らせてみた。家族のうちで、この時間に帰宅するような人はいたかどうか。あるいは、こんな時間に家を訪ねてくるような酔狂な知り合いがいたかどうか。だが、そういう人物はどうしても思いつかなかった。そこで当初、僕が考えていたような、顔も見たこともない人が、雨をしのぐためにここに入ってきたのだ、というものに戻ることにした。
けれどもそれだと、どうやって鍵の閉まった玄関から入ってくることができるのかどうかが問題になる。それは物理的に不可能なことだ。もしも鍵を開ける手立てがあるのだとしても、鍵が開く音が、足音の前に聞こえるはずだ。その音はわりによく響くから、聞き逃すことはおそらくほとんどない。僕は二回、足音の侵入するのを聞いたが、そのどちらにおいても、鍵を開けたときのカチンという音は聞かなかった。とすると、侵入者はどうやって、ここから入ってきたというのだろうか?
ますますわからなくなってきた。しかし、いずれその人物がここにやってくることはわかっている。その時が来るのを待てばいいだけなのだ。そこで僕は、そいつが玄関から入って来るまで、この場所で待っていることにした。ここに来る前からそうしようかなと考えていたから、この決断に迷いはなかった。
時間を意識していると、案外時が経つのが遅くなるというものだ。長い戦いになりそうだと僕は思った。けれど、ここを動こうという選択は僕にはない。ここを離れてしまったら、また最初からやり直しになってしまいそうな気がする。予想もしていなかったような障害物に邪魔されて、またもや侵入者の足取りを見失ってしまう可能性もある。そういう運命を回避するために、僕はここで、誰かが入ってくるのをじっと待っているほかない。相当暇になるが、これで夜が終わるかもしれないことを思うと、背に腹は代えられなかった。
まずは雷だ。雨が強くなり、雷も鳴り始めたところで、足音はやってくる。それまでは辛抱するしかない。僕は床に手をついて、足をぶらぶらさせながら、その時が来るのをじっと待った。やはり何もしないでいると、時間が経つのが遅く感じられる。雨はいつまでたっても降ろうとはしなかった。風は強くなってきているが、肝心の雨はまだ到来しない。いまかいまかと待っていると、さらに降り出すのが遅くなっていくようにも思える。そこで僕は、何も考えずに、ただ外から聞こえてくる音に耳を傾けているだけにした。風はびゅうびゅう吹いているが、雨はいつまでもやってはこなかった。
いてもたってもいられないくらいになってようやく、雨のぽつりぽつりと降る音が聞こえてきた。なにせ家の中は何の音もないから、雨の細々と降る様子が、耳からしっかりと伝わってくる。風はさらに強くなってきているようだ。まるで、緊張して舞台に上がれない新人の背中を押すようにして、風は雨の降るのを助太刀している。その勢いに押されて、雨もだんだんと強さを増していく。そして、はっと気がついたころには、雨は本降りになっていた。ザザァー、という音と、屋根に雨粒のぶつかる音が聞こえてくる。ガタガタガタ、という、何かが何度もたたきつけられているような音も響いてきた。こんな天気に外に出てしまったら、風邪を引くことは避けられないだろう。どんなに頑健な男であれ、自然の猛威に刃向うことはできないのだ。自然の前では、すべての人はただ、ひれ伏すしかない。何かの拍子にすぐにぺちゃんこにされてしまいそうな脆い家の中で、ぶるぶると震えているしかないのだ。それがきっと、地球を支配しつづけてきた人間に対する罰なのだろうなと思ったりした。
いったい僕は何を考えているのだろう。年端もいかない子供が、こんなたいそれたことを考えるべきではないのだ。人間の罰とかそういうものは、僕などではなく、もっと頭の良い人間が考えるべきことなのだ。そこで僕は、一旦考えていたことをすべて外に放り出すことにした。頭がからっぽになったところで、僕は再び、侵入者が表れるのをじっと待つことにした。何か余計なことを考えるから、そもそもこういうことになったのだ。どうして僕だけがこんな目に会わなければならない? これこそ人間の罰というものじゃないか? 今度、いつになるかはわからないけれど、過去にこういう目に会った人の伝承とか、言い伝えとかを探してみようと思った。もしかすると、この体験には何か意味があるかもしれないからだ。いいや、意味は絶対にあるのだ。誰がもこんな体験をしているわけじゃない。体験できる人というのは一種の特別な人間だ。僕は自分が特別だなんて思ったことはないけれど、でもこういうことが起きたからには、何かしらの特別な事情が僕の中にはあるのだろう。そういうものを今度、図書館かどこかで調べてみようかと思った。でもそれは、この繰り返しの世界を抜け出てからの話だ。図書館で調べものをするためにも、僕はここを出なければならない。雷がいつ鳴ってもおかしくない中で、僕は体を動かすことなく、じっと座りつづけた。