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沈黙が依然として続いた。人とぶつかって、向こうが恐ろしい人物であれば、いてえな、とか、くそっ、とかが聞こえてくるはずだ。しかし、そういう声はまるで聞こえなかった。まるでぶつかった途端に時がとまってしまったかのように、何も音がしない。僕と同じく、いきなり何かにぶつかったことで混乱している可能性もあるけれど、この家に無断で侵入してくるような人間が、今さら狼狽などすることがあるのだろうか。そういうことは、初めから覚悟しているのではないだろうか。だからこの沈黙については冷静に対処しなくてはならない。きちんとこの意味を推し量る必要があるな、と僕は思った。
おそらく近くで、倒れているなり、こちらを睨むなりしているのだろうが、そういうものも全部、暗闇に呑まれてしまっていた。相手がどういう表情で、どんな格好でいて、性別はどうなのか、少年なのかお年寄りなのか少女なのかおばさんなのかもさっぱりわからない。ぶつかった際も、相手の体にめりこんだ感触をかろうじて覚えているだけで、それ以外にはほとんど覚えていない。そしてその情報の断片も、僕に何か有益なものを教えてくれるわけでもないのだ。
だから、僕は黙り、かつ動かずにいることしかできなかった。あちらからの反応があるまで待つこと以外に、できることはなかった。静かな時が流れていく。雷の音は、もはや聞こえているのかいないのか、それすらもわからない。相手の正体を見破るのに囚われてしまって、雷のことなど考えていられなくなってしまったのだ。集中しているとき、周りの音が一時的にせよ聞こえなくなるように。
まるで冷凍庫に押しこまれたかのような、息苦しくて寒々とした状況が続く。ゴクリという誰かのつばを飲みこむ音がする。ものすごく近くで聞こえたから、これはきっと僕の出した音なのだろう。けれども僕は、初めその音を自分の音だとすぐに認識することができなかった。それほど緊張している、ということなのだろう。一瞬だけ、目の前で影のようなものが動いたような気がした。でも、それに伴うはずの音は聞こえなかったから、錯覚だろうと合点した。今のは緊張が生み出す悪い幻影みたいなものだろう。思わずそれに手を伸ばしてしまったが、やはり何も触れることがなかった。
それからだいぶ時間が経ったが、状況は硬直したままだった。それで僕は、だんだんじれったくなってきた。自分の気がつかないうちに、体を取り巻いていた分厚い緊張感が少しずつほぐれてきている。さっきまでは何かをまともに考えることができなかったのだが、今ではどうにか(ちょっと怪しいが)、筋道立ててものを考えることができる。
それはきっと、自分が早く、この家に侵入してきた人物が誰なのかを特定したいからなのだろう。今の僕にとってはそれが最重要事項なのだ。正体のわからないものにおびえることが第一ではない。おびえる以前に、僕は、相手が誰なのかを明らかにしたいと望んでいる。その望みは、時間が経つごとに、体のこわばりがなくなるごとに、強くなっている。
僕は動くことにした。難しいことは考えず、ただ前に進んで、手を伸ばしてみるのだ。あちらからの反応はない。きっとこれからも反応はないままだ。だから、こちらから接近していくしかない。待っているだけでうまくいくこともあるが、今回はそうではない。積極的に動いていかないと、僕の求めているものは手に入らないのだ。そうと決めたら、体はすぐに動いてくれた。僕は床に着いた尻を持ち上げた。そして四つん這いになりながら、じりじりと前へ進んでいった。左手を前に出し、蠅を追い払うように左右に動かす。今にも何かが触れそうで、僕は心臓が高鳴った。だがこれはおびえているのではなく、相手がついに判明するのだという武者震いに似た高鳴りだった。
リビングを抜けて廊下へと出る。きっとそうなのだろうと思う。進んでいったとき、ちょっとした段差のようなものを通ったから。廊下は左右に続いている。けれど、そちらまで行く必要はない。相手と正面からぶつかった以上、相手の倒れている場所がすぐそこであることに疑いはなかったからだ。もし移動していたとしても、その音を聴き逃すはずがない。このまま行けば、おのずと侵入者のもとに辿り着く……。僕はもう一度つばを飲んだ。今回はちゃんと自分がつばを飲みこんだことを認識することができた。
ついに壁に触れてしまうまで、僕の手は何も探り当てることができなかった。おかしいなと思い、周辺一帯を隈なく探索してみたのだが、誰かがいたという痕跡はまるで残っていなかった。だいぶ探し回ってから、僕の体はピタリととまってしまった。それからは、動こうという気にはとてもなれなかった。まるで魂に灯る炎が、ある日突然、何の前触れもなく消えてしまったみたいに。
結局誰もいなかった、という事実に、僕がどう感じ、何を思ったのかについては何もわからなかった。悲しんでいるのか、ほっとしているのか、喜んでいるのか、悔しがっているのか、全然はっきりしなかった。ただ、心の中の火がふっと消えたのだという事実を理解しているだけだった。そこに一切の感想は含まれていなかった。ああ、もういないんだ。僕がかろうじて浮かべることのできた言葉はそれだけだった。あとに続く言葉はなかった。
そのとき、僕は、どういう心の働きなのかはわからないのだけれど、自分が同じ状況を繰り返し体験しているのだということを強く確信した。以前に足音を逃してしまったときの喪失感と、現在感じているものとが合致しているからだろう。雷が鳴ってから、足音がやって来るまでの時間も、だいたい一緒だったように思える。とても信じられない話ではあるのだが、僕は今夜という時間を、何度も何度も巡っているのである。そのように結論づけることしかできなかった。でなければ、二度もこの家に誰かが入ってくることの説明を誰ができるというのだろう。
何かが足りないのだ。何かが不足しているから、僕はこの時間を突破することができない。それが充実して初めて、僕は今夜という時間を脱出することができる。生きて死んで、また生まれ変わって死ぬことを繰り返す、この輪廻を抜け出すには、ある特別なことをしなければいけない。何かのきっかけを見つけて、それを上手に利用しなければ一生ここに囚われたままなのだ。
そしてその鍵は、間違いなく、あの足音が握っている。あれの正体を確かめることが、まずすべきことだ。次こそは、やつの正体を確かめてやろうとこのときに僕は誓った。もう、あの言いようのない喪失感を味わいたくはない。雷の鳴る音ともおさらばしたい。平和で明るい日常に、早く帰りたい。
そうと決まれば、次にどうするのかはもうわかっていた。僕はその場で横になり、眠る体勢になった。廊下はひんやりとして冷たかったが、きっと大丈夫だろう。こんなところで眠っても、心臓がとまりはしない。起きるときに少しつらくなるだけだ。横になってしまうと、途端に体が重くなり、瞼が自然と閉じた。どうやらこの世界では、僕の好きなタイミングで眠りにつくことができるらしい。そのことに僕は感謝しないわけにはいかなかった。いつか絶対に脱出できるということが、保証されているようなものだから。
まもなく僕は眠ってしまった。ブレーカーが落ちたような急激な眠りだった。その直前に、隣の家に住んでいる女性の姿が、視界の隅の方で見えた気がした。