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夢は見なかった。何の妨げもない、すごく深い眠りだったみたいだ。
目覚めたとき、僕はすごく気分が良いことに気づいた。一度、自分と離れたところに行ったことで、気持ちを改めることができたのだろう。もしもあのまま起きていれば、きっと僕はさらに憂鬱な気持ちを加速させて、暗闇と同化してしまうくらいに濁ってしまっていたかもしれない。それくらい、この闇は濃いのだ。肉体を保っていられないくらいに、ともすれば惹かれてしまいそうになるくらいに。
外からの景色が入ってきていないために、今が朝なのか、夜なのかもわからない。僕は時計を探そうとするが、この暗闇ではどうすることもできない。それに、この部屋に時計が存在するのかどうかも怪しいものだ。おそらく、時間を知るためには一階まで下りていかなくてはならないのだ。仕方なく僕は、また一階まで下りることにした。こうなるならばいっそ、一階のリビングかどこかで眠ればよかった、と後悔した。
ゆっくりと立ち上がるが、それでも体の節々が痛んだ。恐ろしい姿勢で長い時間眠りこけていたからだろう。僕は暗くて一人ぼっちなのをいいことに、身体を変な格好にして、よく伸ばすことにした。ぐっと腕を伸ばすと、心地良い痺れのようなものが全身に行き渡った。何度かそういった運動を続け、満足したところでやめた。そして、部屋に散らかっている障害物を飛び越えながら、扉へと向かった。
廊下へ出る前、僕はこの部屋がとても臭うことに気がついた。それも並大抵ではない。地獄で二百年ほど熟成させた特製チーズみたいな臭いだ。思わず鼻をつまみ、部屋全体を見渡す。一体どこからこんな臭いが発生しているのだろう? 当然ながら、目に見えるものは何一つとしてなく、視界には茫漠たる暗闇が広がっているだけだ。どこか特定の場所からではなく、この部屋のすべての箇所から、臭いが湧き出ているようにも思える。
どうして今まで気づかなかったのか不思議なものだ。もしくはこれは、僕が今、部屋を出ようとしたところでいきなり発生したとでもいうのだろうか? それは考えられないと思った。だとすれば、この臭いはもとから存在しつづけており、ここで眠っているあいだにもあったのだ。そう思うとおかしな気持ちになった。僕はすぐさま廊下に出て、扉をバタンと閉めた。臭いはその瞬間に消えてなくなった。
臭いに対しては嫌悪感というよりも、困惑ばかりを感じつつ、廊下を歩いていく。臭いのことはもう考える必要がない。今は、時間だけを思えばいいのだ。だけれども、そのように意識すればするほど、臭いへの執着度も増していくように思えた。
そんなとき、僕は小さな窓があるのを発見した。廊下を真っ直ぐに進んで、壁にぶつかった場所から左に行ったところだ。そこではまだ廊下が続いており、その途中途中に同じかたちをした窓が取り付けられてある。そこからはほとんど光が入ってきていない。ただ、月の光なのか、淡くて幻想的な明かりが斜めに差し込んでいるだけだ。そのことから、外の世界はまだ夜なのだということがわかった。
僕は導かれるようにしてそちらへ向かった。小窓に顔を近づけてみると、外の様子が判明した。まず月が視界に入ってくる。月は紫がかった黄色い光を発していた。その周りを、灰色の雲が覆っている。厚い雲だ。普段ならば一面に広がる星々が観察できたのだろうが、今夜はそれは不可能のようだった。空一面、むくむくと太った雲で満たされており、どこにも隙間がない。いいや、月の光る場所だけは、雲が入って来られないようだった。月は雲の防壁をかいくぐって、一生懸命、こちらを照らしてくれているみたいだった。
それから僕は視線を下へとずらす。すると薄暗い町並みが見渡せた。家々がずらりときれいに並んでいる。それら行列のあいだには整備された道路が伸びており、それ以外には何も見えない。明かりのついている家はどこにもなかった。それで、今は明け方に近いのだろうか、とも思ったりした。
通行人などいないと思っていたのだが、ちょうどそのときに一台の自転車が道路を走っていった。自転車はものすごいスピードで離れていった。目の錯覚に違いないのだが、自転車はまるで高速道路を走る軽自動車みたいに颯爽と駆けていったのだ。そういう事情と、こちら側からあちら側へと走っていたせいで、それがどういう人物だったのかがまったくわからなかった。あの足音と同じだ。それは正体不明のまま、すぐさま見えなくなってしまう。あとに残ったのは、行ってしまった、という軽い余韻だけだった。
僕は窓から離れた。とにかく、まだ夜なのだということがわかった。そして、雨も降っていないし雷も鳴っていない、ということも。それだけがわかっただけでも満足じゃないか。あとは実際の時間を確認するだけだ。時間を確認したあとにどうするのかについては、もう考えないようにしていた。あとのことはどうにかなる。もう部屋には戻りたくない以上、部屋以外の場所で、僕は何かをしないといけないのだ。それはそのときになってみなければわからない。どうすればいいのかの答えは、そのときに誰かが教えてくれるに違いない。
僕は一度だけ、小窓の連なる廊下に目をやったあと、階段のところへと戻った。そして、足を踏み違えないよう注意しながら、段を下りていった。窓からの明かりはここまで届いてはおらず、相変わらず深淵へと落ちるような感じで進んでいった。