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だが、部屋に引きこもった途端、またもやあの憂鬱な気分が到来してきた。世界の何もかもが敵のように感じられた。みんなが僕を非難がましい目で見つめているのだ。味方になってくれる人はどこにもいない。味方は自分だけだ。僕だけが僕を救うことができる。
雷の音はもう聞こえない。それで僕は、まるで大切な女の子を失ったときのような喪失感を覚えた。憎々しく思っていたものが、いざなくなるとずいぶんとさみしいものだった。僕であるということは、雷に恐怖するということである。そういうことがなくなった以上、僕という存在はある程度の欠陥を持たないといけなくなる。僕は自分の体が半分に分かれた図をイメージしてみたが、何だかそれはSF世界の実験みたいに思え、あまり真実味がなかったためにすぐに想像するのをやめた。自分の思っていることをうまく図として表すことができないことはつらいことだった。それでさらに憂鬱な気分は増した。
こういう気持ちのとき、僕はどうしても、過去のことを思いださないわけにはいかない。人は死ぬ前に過去から現在までをざっくりと思いだすようだが、それと似たようなものだろうか。気がついたら頭の中に、これまであったことの数々がぼんやりと浮かび上がっていた。楽しい思い出もあるが、悲しい思い出もある。見たところ、悲しいものの方が圧倒的に多かった。こんなときに悲しくなりたくはない。それで僕は、思いだすのをやめてしまった。
僕は気を紛らわせるために、周囲に目を走らせた。さらに記憶に埋没すれば、僕は青い渦に巻き込まれて、そこから一生出られなくなるだろう。そうならないために、現実との接点を多く持たなければならない。目が暗闇に慣れてきているのか、それともどこかから奇跡的に明かりが入ってきているのか、僕は以前より鮮明に周囲のものを見渡すことができた。とにかくたくさんのものが散らかっていた。それぞれのものを判別するにはもっと明かりがないと駄目だが、大きさはさまざまのようである。手帳サイズの小さいものから、等身大のクマの置物みたいなものまで。片づけるのにずいぶんと手間がかかりそうな部屋だなと僕は思った。同時に、これらすべてを火で燃やせたら何もかもがすっきりするだろうに、とも思った。
火、というものを思い浮かべると、僕はいつも、隣に数年前まで住んでいたおばさんを思いだす。彼女はいつも、ぶすっとした顔をしていた。古臭い服を身につけて、黒々とした短い髪は散り散りになっている。目は細長くて、どこか遠くの方を見ているような感じだった。そして彼女は毎朝、道往く人々に必ず挨拶をしていた。だけれども、挨拶をするときの顔が常にどこか不満そうな感じだったから、僕は毎回、決まりの悪い気持ちでその挨拶に答えていたものだった。僕と言葉を交わすことがそんなに不機嫌なことなのだろうか、と当時は真剣に悩んだものだ。
おばさんは朝と夜の二回、庭で焚火をしていた。それは暖をとるというためではなく、単純に、ゴミを燃やしていただけなのだろう。しかし、おばさんは一人暮らしのようだったし、そんなに毎日ゴミが出るわけでもない。にもかかわらず彼女は絶対に、朝と夜の決まった時間に庭で火を燃やしていたのだ。だんだんそれが近所迷惑になり、おばさんは僕が十歳になる頃にはどこか別の場所に追放されてしまったけれど、彼女の印象は今でもしっかりと焼きついている。挨拶をしてきたときのあの表情も、絵に描いてみろと言われたらすぐに描けるくらいだった。おばさんは今、どこで何をしているのだろうか。いまだに世界のどこかで毎日二回ずつ火を焚いているのだろうか。それを想像すると、何だかやりきれない気持ちになった。
おばさんの住んでいたその家は、今は別の人が住んでいる。その住人は、おばさんの醜い容姿とは正反対の、若くて利発そうな二十歳くらいの女性だった。髪はすらりとして長く、清楚な格好をしており、毎日ゴミを燃やしたりもしない。近隣の人たちからの評判もすこぶる良いみたいだ。挨拶をするときも嫌な顔一つしない。僕が「おはようございます」と言うと、彼女はこれほど素晴らしい笑顔が日本に存在していたのかと思わせるほどの笑顔で「おはよう」と返してくる。彼女がここに引っ越してきてから、僕は学校に行くことが楽しくなってしまったほどである。彼女は僕にとっては救いの存在の一つだった。彼女がいたからこそ、彼女の笑顔があったからこそ、今まで辛抱して学校に行けていたのだと言っても過言ではない。
しかし、唯一気になるところがある。おばさんとあの女性との顔が、よく見るといろいろと一致しているのではないかということだ。もちろん表情を比べてみたら、まるで比較にならないのだけれど、目のかたちとか、鼻の様子とかを見比べてみたとき、そこには奇妙な一致を見出すことができるのだ。よく眺めてみたこともないし、彼女たち二人を並べて観察したわけでもないから、憶測に過ぎない。だが、二人は何だか妙に似通っている。今度、機会があったらそのことについて、女性に直接訊いてみようと思った。無論、ただ思うだけで、きっと訊きに行くことはないのだろうとは思うが。
と、そこで僕は頭を使うことをやめた。これ以上進んでいくと、いずれまた、嫌な思い出にもぶつかってしまうことだろう。過去へ思いを巡らせるのはもうやめた方が良い。僕は暗闇を見つめた。そしてそこに転がっているものを一望して、さてこれからどうしようかと思った。
しかし、果たして自分がこれからどうするのかを決めることはひどく難しく思えた。というか、僕はこの部屋にずっと引きこもって、何がしたいのだ? 初めは雷が恐いからここに留まっていた。でももう雷は鳴っていない。ここに留まるべき理由は何もない。けれども僕はここを動くことができない。これはどういうことなのだろう?
次第に僕は、考えるのが面倒になってきた。瞼が重くなってくる。ベッドの脇にいるはずの自分が、ベッドに横たわっているような感覚になってくる。そんな中で僕は、あのときに確かに耳にした、不規則な足音のことを思いだした。それを皮切りに、僕は体がぐったりとなり、頑張って開けていた目を、ついに閉じてしまった。