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1-2

 扉を開けると、その先は海の底みたいに真っ暗だった。部屋を覆っていた暗闇とは明らかに異質だ。だがその異質さは、どこか心地良いものだった。人で込み合った場所から、一人きりになれる場所に来たときのような安堵感がある。こちらの方が、より自分を解放できる場である気がする。どちらも黒々としている点では同じだが、親密さという点から比べてみると、そこにははっきりとした差が見出された。


 廊下に出た途端、今まで聞こえてきた足音は消えてしまった。おそらく、足音を立てていた人物が、警戒して気配を消したのだ。あるいはただ、物音におやと敏感に反応して、一時的に歩みをとめているだけなのかもしれない。少しすればまた、足音はやってくるかもしれない。だが、いずれにせよこの瞬間は足音がやんだのだ。ということは、雷の恐怖が再び僕のもとへとやってくる、ということを意味していた。好機到来、とばかりに、次の瞬間には雷がゴロゴロと鳴った。僕は思わず体を縮めそうになった。だが、こうも怯えてばかりはいられない。僕は多少のごまかしを利用したとはいえ、一度は自分の力で立ちあがったのだ。もう雷に負けてはいられない。僕は音が鎮まるまでじっとしていた。縮み上がることはどうにか避けられたが、体を動かすことはできない。ようやく音が去ると、僕は足を慎重に踏み出して、海の底みたいな廊下を歩いていった。


 少し行くと壁にぶつかった。何も見えないから、どこからが壁でどこからが壁じゃないのかもわからない。進むスピードがゆっくりだったから被害は最小限で済んだが、それでも額と鼻をぶつけてしまった。今度からは手を前に出して進むことにしようと思った。


 足をこっそりと動かしていく。すると、壁の右手に階段があるのを発見した。階段はどこまでも続いているような気がした。明かりがないからいくらでも不安になれる。一段一段、大げさなくらいびくびくしながら下りていく。ちょうど左に手すりがあったので、それをつたって安全に下りていくことができた。目の悪い人は毎日こんなに苦労して階段を上り下りしなければならないのかと思うと、うんざりする思いだった。慣れればどうってことないだろうが、それまでが大変そうだ。途中で恐怖に負けてしまえば、きっと段差の途中で僕みたいに小さく丸まってしまうのだろう。そして運が悪ければそのままバランスを崩して落下してしまうのだ。僕は体をぶるぶると震わせた。そんな目には絶対に会いたくないと心から思った。


 下りるあいだ、雷の音は何度も訪れた。しかし、その音はどんどん弱まっているようだった。ゴミ回収車から流れる音楽が、いつのまにか遠く離れていくみたいにして、雷は聞こえなくなる。雨もやんだようだ。叩きつけてくるような激しい音はもうしなくなっている。あとに残されたのはすさまじい風の音だった。その音はびゅうびゅうと不吉な音色を立てていた。恐怖は感じないが、どこかしらこちらを責め立てているような音だった。僕はこの変化にいささか戸惑った。どうしてこうも、図ったかのように雷が鎮まったのだろう? しかし、それ以上に、自分の中に巣食っていた恐怖が消えていくのを実感していた。これで僕は、さらに自由に動けるようになるだろう。この幸運に感謝しつつ、以前よりもずっと余裕を持って、段を下りていった。


 そうしていくうちに、辺りはだんだんと淡い光に照らされるようになった。段差も、手すりも、そして自分の体も、どこにあるのかがちゃんとわかる。自分の手を見てみると、灰色ではあるが五本の指も確認することができた。どこかから光が入ってきているのだろうか? 僕は最後の数段を足早に攻略していった。


 一階に辿り着いたあとは、辺りをきょろきょろと見渡してみた。明かりの発生源をつきとめるためだ。すると、階段の裏手から光が入ってきていることがわかった。その方向からは同時に、すさまじいほどの風のうなり声が聞こえてきている。どこかの扉か窓が、開きっ放しになっているのだ。僕は廊下をつたってそちらまで歩いていった。


 開いていたのは玄関の扉だった。扉は必死に閉まろうとしているのだが、どうしてもそうすることができないようだった。その隙間から、風が家に入ってきている。風は好き放題に暴れ回り、扉をめちゃくちゃに振り回している。僕は急いで玄関の扉を閉めた。


 侵入者が扉を閉め忘れたからこういうことになったのだろう、ということくらいは予想がついた。だが、そんなことが果たしてあり得るのだろうか、という疑問も同時に湧いてきた。彼が家に入ってきたときはまだ雨が強かったのだ。扉が開いていることはすぐにわかりそうなものなのに、それをあえて無視するということは、よほどの忘れん坊か、悪質な嫌がらせ魔に違いなかった。そういうことをするような人がこの家に潜んでいるということだけでも、身震いする思いだった。


 そういうわけで、相手が何を考えているのかがわからない。僕に出会った途端に、襲いかかってくるかもしれない。そこで僕は、扉を閉めたあと、沈黙と暗闇に包まれた家の中で、どこから攻撃されても大丈夫なように身構えた。その場で二分ほど待機してから、何も起こらないことを確認し、ゆっくりと廊下を進んでいった。


 家の中心に近づいていくと、風の音は小さくなっていった。今ではもう、そよ風程度にしか感じない。これならばどんな音だって聞き逃さないはずだ。だが、それからはもう、あの足音を耳にすることはなかった。あちこち探索もしてみたが、侵入者の形跡も何一つとして見つからなかった。


 これもまたおかしな話だ。雨をしのぐために家に入ってきたのなら、濡れた状態でいるはずだ。彼の服からは水がぽたぽたと垂れ、通ってきたところを僅かながらにせよ濡らしてきているはず。しかし、廊下のどの箇所を通っても、そういった跡は残されていなかった。裸の足で探りながら歩いていったが、どこも濡れてはいなかった。


 いくつもの部屋を訪れてみたが、侵入者は見つからなかった。再度同じ場所を巡ってみたけれど、結局実りある発見はなかった。真っ暗なせいで、あちこちにぶつかったりしただけだ。僕はそのたびに小さな悲鳴を上げていたけれど、その声も空しさを増すばかりだった。


 どこかに身を潜めているという可能性にかけて、捜索を続けていたのだが、どうやらその可能性はなかったみたいだ。侵入者はとっくにここを脱出しているか、もしくはそもそも侵入者などここに来てはいなかったかのどちらかである。しかし、僕にはどちらもまるごと信じることはできそうになかった。どちらにしても間違っている、そんな気がしてならなかった。


 僕は二階の部屋に戻ることにした。どれほど悩みを切り詰めたって、状況は変わらないこともまた確かなのだ。雷はもうやんだ。そして、足音もどこかに去ってしまった。はっきりしたことはこれだけだ。僕はそれらの事実を受け止めるしかない。そうしてまた、奥へと引きこもるしかない。僕は階段を上り、上った先で左へと曲がり、部屋へと直行した。部屋に入るとすぐに扉を閉め、久しぶりの緊密な空間を味わった。そこに漂っている空気になつかしみを覚えながら、ベッドの脇で丸くなり、体が落ち着いてくるのを待った。

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