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 途中で、昨日ひどく臭った場所を通り過ぎた。しかし、その場所には何の臭いも残っていなかった。跡形もなく、まるで清掃された直後の共用トイレみたいに。


 彼は自転車を停めた。どうしてだかは彼にもわからない。ただ何となく、自分はここに留まらなければいけないという予感を感じただけだ。彼は自転車を道路の端へ寄せて、そこにある家を見つめる。一見何の変哲もない家だけれど、息苦しくなってしまうような空気が張り詰めているようでもある。気のせいかもしれないし、気のせいでないかもしれない。どちらなのかはわからない。この世界が本当なのか嘘なのかどうかがわからないのと同じように。


 彼は表札を確認してみた。そこには「楠」と書かれていた。彼はこの苗字を見たことも聞いたこともない。知り合いにこの苗字を持っている人を知らない。だが、彼はその名前がひどく気にかかった。その文字は彼を大いに惹きつけた。


 表札の前で佇んでいると、誰かの近寄ってくる気配があった。その家の庭からだ。がさがさと、草を靴ですりつぶすような音がしている。やがてその人は姿を現した。先ほどまで何の気配もなく、家に誰もいないのだなと勝手に確信していたから、彼はよほど警戒をしたのだが、その人の眩しい笑顔を見ると、その警戒心もすっかりなくなってしまった。


 その女性は美しかった。化粧はほとんどしておらず、髪もいくらか乱れてはいたが、その自然な格好は彼女にすごく似合っていた。おそらくそういう格好でいるのに慣れているのだろう。メルヘンチックな印象も感じられ、実際の彼女の年齢が彼にはとてもわかりそうになかった。十代半ばだと言われてもきっと信じてしまうだろうし、三十歳を超えていると言われても、何の戸惑いも感じない。彼女がかなり近くまで彼のそばに接近すると、ほんのりと良い匂いが漂ってきた。思わず眠ってしまいそうな、揺りかごみたいな匂いだった。


 彼女はこちらを見て笑っていた。喜びと悲しみの混ざった複雑な笑顔だった。だがこのときは、そのことで違和感を覚えることはなかった。ただ、彼が今まで味わったことのない女性的魅力に翻弄しつくされているだけだった。こんな人がこの町に住んでいること自体が驚きだった。今まで彼女のことを知らなかったのが不思議なくらいだった。


「おはよう」と女性は言った。ゆっくりとした、落ち着いた声だった。それにつられて彼も、「お、おはようございます」とぎこちなく挨拶をする。すると彼女は口もとに手をやって笑った。今度は悲しいものはあまり含まれていないみたいだった。その後の言葉が続かず、彼は遠慮もなく女性を見つめるばかりだった。


「高校生かしら?」と女性は彼から目を逸らさずに言った。


「は、はい」と彼は返事をする。「これから学校です。あっちに自転車を停めてあって」


「じゃあ、私とこうして話していて、大丈夫? 学校に遅刻するといけないから」


「ああ、それは心配ないですよ」と彼は腕時計をちらりと見る。「今日は早めに家を出てきたから、まだ時間に余裕があるんです」


「そう。私、何だかあなたを引き止めてしまっているようで、心配だったの。それなら安心ね」


 そう言って彼女は、家の庭の中に入っていった。これは、お前もこっちに来い、ということだろうか? 散々迷ったあげく、彼は彼女に従って、庭にお邪魔させてもらうことにした。


 緑色の庭には、はっきり言って、なにもなかった。花が咲いているわけでもないし、犬小屋があるわけでもない。手入れも雑で、あちこちで雑草が元気に身体を伸ばしている。女性はその様子をじっと見つめていた。彼はその隣に立って、同じように庭を見つめる。彼女はこの庭に何を見出しているのだろうか。初めて会ったということもあり、彼はこの女性への興味が尽きなかった。ここに誘ってきた理由もまた、彼は知りたかった。


「この家はね、実は私の家ではないの」と女性は話しはじめた。「私が住んでいるのは、一つ隣の家。ここには私とは別の家族が住んでいた」


「……住んでいたってことは、今はもう?」


 女性は彼に向き合った。


「そういうことになるのかしらね。私にもはっきりしたことはわからないの。でも、ただ、かつてここに住んでいた家族は、今はどこかへいなくなってしまった、ということだけはわかっている。何だか初めて会った人に話すことじゃないみたいね。退屈だったらごめんなさい」

「いや、そんなことは。でもどうして、あなたは誰もいないこの庭にいたんですか?」


「ここにはね、一人の中学生の男の子がいたの」と女性は沈んだ声色で言った。そして、彼から目を離して、寂しそうに庭の緑を見つめた。「毎朝学校に行くときに、いつも私に挨拶をしてくれた。とてもいい子だったの。ちょっと気になるところもあって、たとえば朝、顔が腫れていたり、今にも泣いてしまいそうな調子だったりしたのだけれど、私に対してはいつも元気な態度を崩さなかった。私はそれで、すっかり安心してしまった。こんな結果になってしまって、ようやく私は、彼に何もしてやることができなかったことを悔やんでいるの」


 女性の話には、彼の介入を許さないようなものが含まれていた。それで彼は終始黙っていた。


「でも私は、心のどこかで、こうなることがわかっていたのかもしれない。いつかきっと、それも近いうちに崩壊が起こって、何もかもがばらばらになるということ。それを私はあらかじめ了解していて、しかもそれに賛成してもいた。今になって、とめられなかった後悔ばかりが募っているけれど、その後悔も、私が本当に思っていることなのかどうかがわからない。実は私は何も悲しんでなんかいないのかもしれない。私にはそれが気に入らない」


 女性は目をつぶり、静かに手を組んだ。


「だから私は、朝起きてからずっと、ここに立って祈っていたの。せめてあの子が幸せであることを願って。嫌なことをすべて忘れて、これからは幸福の国で自由気ままに生きていけますようにって」


 彼はだんだんこの場にいるのがつらくなってきた。隣にいる女性の美しさは変わらない。だが今では、その美しさは彼を魅了しはしなかった。かえって恐怖の感情を呼び起こすくらいだった。


「私の独り言を聞いてくれて、ありがとう。というか、私がほとんど強制的に、あなたをここにつれてきてしまったのよね。あらためて、ごめんなさい」


 女性は彼に向かって頭を下げた。彼も慌てて頭を下げる。「いいや、謝ることなんて何もないですよ。話の内容はあまりわからなかったですけれど、貴重な話を聞けたようで、良かったです」


「ふふ。あなたは良い人ね」


 それから彼は、名前の知らない女性を庭に残して、一人自転車で駆けていった。彼女の話していたことがほとんどわからなかったというのは本当だ。一体この人は何をしゃべっているのかと、彼女の頭を疑いもしたくらいだ。しかし、彼女のもとを去って、あらためて彼女の話していたことを思いだしたとき、彼は心に刺さるものを感じた。あの家のかつての住人がいなくなってしまったことを、女性は気にかけている。だが彼女は、自分が悲しんでいるのかどうかがわからないのだという。毎日挨拶しにきてくれた人がどこかに行ってしまったのに、悲しくない? 彼にはその部分が引っ掛かった。どうしてそのようなことになるのだろう。彼はますますあの女性のことが気にかかった。今度また会ったときに、詳しい話を聞いてみようと思った。


 けれど、それが叶うことはもう二度となかった。学校から帰ってきて、あの家の前を通りかかったときに、また異様な臭いが漂っているのがわかった。彼はそこで自転車を停めて、家の庭へと入りこんだ。そこでは、あの美しい女性が、体から血を流しながら、うつぶせになって倒れていたのだ。

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