海に行こう
青い海。白い砂浜。刺すような強い日差し。シーズンが少し過ぎたというのに未だ夏の暑さは残っている。僕は気だるい体を引っ張って大きな荷物を背負い、うだるような夏の陽気に滲む汗を拭いながら、数年ぶりにその海水浴場へ訪れた。
「わぁ。海だー。おっきぃ。ひろーい。ヤッホー!」
「待ってよ。カエデ」
車の扉を開け飛び出たカエデは目の前に広がる絶景を前にアホっぽく絶叫している。既に車の中に服は脱ぎ捨てたのか水着姿だ。
遅れてシノが車から出てくる。こちらも服は既に脱いだのか水着姿だが、それなりの常識はあるらしく、自らの服とカエデの服を折り畳んでから車を降りていた。
「やっぱり来て良かったですね」
シノは海を見てそう言って笑顔を浮かべる。こっちは連日の残業明けの上、徹夜で車を飛ばしたせいか肩はおろか全身が気だるく重いのだが、二人の楽しそうな声を聞くと不満を漏らすわけにも行かず、無言で荷物を運ぶ。
シーズンが少しずれたおかげで海水浴客はまばらだった。僕は砂浜にレジャーシートを敷き、大きなパラソルを挿して広げる。本当は来るつもりはなかった。長らく海水浴なんて行ってなかったし、連日の仕事の疲れもあったからだ。
「よーしトモユキ、泳ごうぜー」
「楽しみましょ。トモユキさん」
でも二人の楽しそうな笑顔を見ると、僕はため息を漏らしつつも来てよかったと感じた。
「流石に連日の残業続きな上に徹夜で車飛ばして体力がもたねぇよ。僕はここで見張り番してるから二人で泳いでこいよ」
「なんだよつれねーなー。体力落ちたんじゃねーの。昔ならもっとヨユーあっただろ」
「連日の会社勤めで体力もガタ落ちだよ」
もう学生じゃねーんだし……と、言葉を続けようとしたが僕はそこで言葉を閉ざした。
今はそんな野暮はやめよう。二人を連れて久しぶりに海に来たのだから、今を楽しむのが一番大事な事だ。
そんな事を考えていると、カエデはシノを抱き寄せニヤ〜っといやらしい笑みを僕に向けてくる。
「ところでどうだ。私達の水着姿は〜? 思わず欲情しちゃうだろ〜?」
「ちょっとカエデ!? 恥ずかしいです」
快活な性格のカエデはスリムな体型の活かした黄色のビキニ。大人しい性格のシノは合わせたような白いビキニを着ているが胸の大きさが段違いだ。恥ずかしいのか腰巻のパレオで胸元を必死に隠そうとしている。
眩しい水着姿に思わず見とれてしまう。二人共あの頃と全く変わっていなかった。
カエデの成長の乏しさは悲しき現実だったが、シノがあの頃と変わらなかった事に僕は少し甘酸っぱい思いを感じた。
「じゃあさ〜。海の家で食べ物買いに行こうぜ〜。私お腹減っちゃった」
「まだ昼前だぞ」
「海の家で買う食べ物は別腹なんだよ。ほら行くぞー」
カエデは僕の意思を無視してさっさと海の家に向かっている。
「私は見張り番をしておきますね」
「じゃあ僕は財布かな」
シノが残る事を決めたので、僕は渋々財布をポケットに突っ込んでカエデの後を追った。
「トモユキ、シノの事はどう思ってんだよ」
道すがら、カエデはそんな事を尋ねてきた。
「どうって?」
「好きなのかって聞いてんだよ」
カエデのストレートな物言いに僕は思わず閉口する。確かにシノに対する気持ちはあった。だがそれは昔の事だ。結局自分の気持ちを告白する事なく、僕達は別れた。
今はどうだろうか……。今僕のシノに対する気持ちはどうなのだろうか。
あの頃と変わらず。あの頃と同じ気持ちのままなのだろうか。
あの頃のまま……。僕の時間は止まっているのだろうか。
「好きだよ……。でもそれは昔の好きとは違うかな」
「どう違うんだよ」
「状況と環境が変わった。年も取った。立場も変わった。そんな中で昔と同じような気持ちで人を好きになるって事は難しいって事だよ」
「人が人を好きになるのに、理由なんているのかよ」
そう語るカエデの表情は少し悲しげなものに満ちていた。
会話はそこで途切れ、僕達は海の家についた。
カエデもその頃にはすっかり機嫌を直し、鉄板の上で焼かれている焼きそばを見るなりキラキラと目を輝かせている。
「なにがいい?」
「え〜っとねぇ、焼きそばにイカ焼きにチャーハンに焼き蛤だろ。あとラムネと、かき氷は練乳いちごかな」
「そんなに食べんのかよ!」
鉄板焼きをしている店員は怪訝な表情を浮かべている。徹夜明けでそんなに腹に入るようには思えないのだが、カエデがキラキラ目を輝かせているので仕方なく全部購入することにした。
「おかえりなさい」
荷物をすべて僕に持たせて戻ると、シノがそう言って出迎えてくれた。
「いっぱい買ってきたぜ」
「財布を出したのは僕だけどな」
レジャーシートの上に買った焼きそばなどを並べていくと、カエデはいただきますも無い内からイカ焼きに手を出し始めた。
「あの……。温かいお茶ってありませんでしたか?」
並べられたものを見てシノはそんな言葉を漏らす。購入した飲み物はラムネやかき氷など冷たいものばかりだ。そういえばシノは冷え性で食事の際はどんなに暑い日でも冷たい飲み物は摂らず温かいものを飲んでいたきがする。
「海の家には売ってなかったな。悪い。近くの自販機探してくるよ」
「あ、私も行きます」
「いってらー」
食事に夢中のカエデはついてくるつもりはないらしい。
僕はシノを連れて近くの自販機に温かいお茶を買いに行く事にした。
「カエデとどんな話をしてたんですか?」
道すがら、シノはそんな事を尋ねてきた。
「どんなって……」
「トモユキさん。今は誰か好きな人はいるんですか?」
シノのストレートな物言いに僕は再び閉口する。シノはカエデと性格も違いおとなしく控えめな性格だ。だがそれはカエデと比べてであってシノも感情には比較的ストレートだし、しっかりと自分の思いは口にするタイプなのだ。
そうなるとこの中で一番優柔不断なのは僕なのではないだろうか。
「今はいないよ」
僕はその答えを即座に述べた。僕の人を好きだと思う感情はあの時から変わらない。
あの時のまま、あの時間、あの場所に置き去りにしているのだ。
「カエデの気持ちは知っていますか?」
僕はシノの言葉に返答出来ずにいた。
ビーチの近くに自販機はあった。夏なのでその殆どの種類は【つめた〜い】に置かれているが、一定のニーズはあるのか【あったか〜い】にも僅かだがコーヒーとお茶が残されていた。
「一種類だけだけどあったな」
「あ、これでいいです」
硬貨を入れてボタンを押すと、ガコンと音がしてあったかいお茶の缶が落ちてくる。
僕がそれを取り出し口から出してシノに渡すと、シノはほんのりと笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
僕は簡素に答えながら、シノの言葉に返答を模索した。
カエデの気持ち……。知らないといえばそれは嘘になる。彼女が僕に気持ちがある事は彼女の口から語らずとも理解していた。理解していたけど、僕は彼女と付き合う気持ちにはなれなかった。僕にとってカエデは気の合う友人でしかなかったからだ。
「好きだよ。でもそれは昔の好きとは違うかな」
「どう違うのですか?」
僕の返答に彼女は僅かに眉根をひそめる。だから僕はカエデと同じ返答をした。
「状況と環境が変わった。年も取った。立場も変わった。そんな中で昔と同じような気持ちで人を好きになるって事は難しいって事だよ」
「トモユキさんの時間は、あの時のまま止まっているつもりですか?」
シノの辛辣な言葉に僕の胸は苦しくなった。
確かにそうだ。僕の時間はあの時で止まっている。シノを想う気持ちもカエデに対する気持ちもあの時のまま置き去りにしている。
今の僕の気持ちなんて、無いに等しいのだ。
「トモユキさん……。トモユキさんはどうなりたいのですか?」
シノの言葉に僕は再び閉口せざるを得なかった。
「あー食べたー。美味しかったー」
「お前、基本全部一口しか食べてねぇじゃねーか」
「海の家の味を覚えておきたかったのさ〜」
残りを全部処理したのは自分である。海の家に味に満足したカエデはポンポンと腹鼓を打つ。これから泳ぐつもりもないらしい。海に来て水着を着ているのに、コイツは一体ここに何をしに来たのだろうか。
僕がそう思っていると、ゴロゴロと不穏な音が響く。空は先程までのピーカンが嘘のように重く黒い雲の層がビーチを覆おうとしていた。
車の中で聞いたラジオでは午後から急な雷雨に見舞われると言っていた。砂浜にお出かけの際は落雷にご注意をと言っていたのは、正にこれのことだろう。
「海水浴も終わりだな……」
ポツポツと降り落ちる天雫に僕は言葉を漏らす。僅かに残っていた海水浴客もこれには諦めたようで一斉に帰宅の準備を始めている。
「帰るか」
「その前にトモユキさんの気持ちを聞かせてもらえませんか」
帰宅の旨を口にする僕に対し、シノは凛とした表情でそう口にする。
「トモユキさんの本当の気持ちを私とカエデに聞かせてください。あの時に置き去りにしたあの時の気持ち、そして今の気持ちを……」
「シノ……」
カエデは複雑な表情でシノを見遣っている。
「じゃなければ、私達は成仏する事はできません」
シノのその言葉に僕は小さく息を呑んだ。
大学時代の話だ。僕には二人の女友達がいた。一人はカエデ。もう一人はシノ。
僕達はよく三人で遊んでいた。夏の海に行ったのもその流れだ。
免許を持つ僕がレンタカーを運転し、助手席にシノを乗せ、後ろにカエデを乗せ、新しい水着を買っただの、道を間違えただの後部座席のカエデとギャーギャー言い合いながら僕達はこの海水浴場へ向かっていた。その途中で事故に遭った。居眠り運転のトラックが対向車線から飛び出してきたのだ。
僕だけが運良く生き残ったと聞いたのは、怪我が治って退院してからだ。
あの事故で助手席にいたシノは即死。カエデは運転席で失神する僕を助け出した所で力尽きたらしい。悔恨に震える僕だったが、毎年この季節になると彼女達は僕の前に現れるのだ。最初は怨霊だろうと無視を決め込んでいたのだが、毎年海に行こうとしつこくせがまれ今年は根負けして海へと行く事にした。彼女達にとって五年ぶりに買った水着を披露したことになる。
だが彼女達の目的は海に来る事……ではなかった。
「私達、あの日トモユキさんの気持ちを確認しようと思ってました」
「トモユキがシノの事が好きだってのは知ってた。でも私だってトモユキの事が好きだし、この気持ちを押さえたままの関係でいる事は我慢ならなかった。報われなくったっていい。今後同じように友達の関係のままでもいい。でもトモユキの気持ちだけはしっかり聞いておこうって思ったんだ」
「すまない……。知らなかった。それなのに僕は……」
「謝らないでください。私達はトモユキさんが悪いなんて思ってませんから」
シノは涙を浮かべながら小さく首を振る。
「あれからの僕は後悔ばかりの人生だった。あの時ああしていれば……なんて意味のない悔恨ばかり繰り返して、気持ちも感情もあの時に置き去りにしたんだ」
「……もう、終わりにしませんか。私達との海水浴を」
涙混じりにそう語る言葉に僕らは無言で頷いた。
僕達の止まった五年間が、その時動き始めた。
「私からでいいか?」
「あぁ」
僕が簡素に答えると、カエデは小さな胸に手を添えて深呼吸を繰り返す。
「トモユキ……。私はずっとお前の事が好きだった」
シンプルな告白。僕は涙をこらえ小さく頷く。
「素直な気持ちをありがとう。僕もカエデの事が好きだ。でもそれは一緒にいて、友達としてのキミが好きという気持ちであって、恋人としては見れない。それが僕の気持ちだ」
僕の返答にカエデは少しずつ笑顔になった。
涙がポロポロと零れ落ちる。それでもカエデは笑顔を崩さなかった。
「ちぇ〜フラレたか〜」
残念そうにそう語るカエデの体が徐々に消えていく。だがその表情は未練が晴れたかのようであり、温かいものに満ちていた。
「幸せになれよ。バーカ」
最後に悪態を吐き、カエデの体は消失した。
僕は胸が苦しくなり、シノを見遣る。シノは無言ながらも涙を必死に堪え、僕を見据えた。今度は僕の番だと言わんばかりの態度に心が僅かに臆する。
トンッと。誰かに胸を叩かれた気がした。
まるで気合いを入れるかのような衝撃に彼女の姿を探すが、そこにカエデの姿はない。
「僕はずっとシノの事が好きだった。だからあの日、僕は海に行って僕の気持ちをシノに告白するつもりだったんだ。……僕はキミの事が好きだ。愛していると」
涙が一筋流れ落ちる。シノは五年越しの僕の告白を聞き、静かに涙を流した。
「そして今の気持ちを告白するよ。状況と環境が変わった。年も取った。立場も変わった。そんな中で昔と同じように人を好きになる事は難しい。……だから僕は今の気持ちを素直に言うよ。シノ、僕は今でも君の事を愛している」
「へ、へへ……。自分の気持ちを告白しろなんて言っておきながら、いざ自分に気持ちが向けられるとやっぱ恥ずかしいものですね。嬉しかった……。すごく、すごく嬉しかった。私もトモユキさんの事が好きだから、トモユキさんを愛しているから、その気持ちが聞けてすごく嬉しかった。でも……、悔しいです。どうして私死んじゃったんだろ」
「シノ……」
「だから――。私はトモユキさんの気持ちには応えられません。告白は嬉しかった。私も好きだから。でも私はもう死んでいる。貴方の側にいる事は叶わない。だから――、大好きなトモユキさんに幸せになって欲しいから、私は貴方の告白を断ります」
「そっか」
「そうです」
もう互いに視線を合わせなかった。俯き嗚咽を堪え、別れの時を待った。
「トモユキさん。最期の海水浴。楽しかったです」
「これで最後なのか?」
「はい」
シノはきっぱりと答えた。これで最後。彼女達はもう二度と僕の夏にはやって来ないのだろう。
「最後にキスしていいか?」
返答はさせなかった。
唇を重ねて、その感触が消え行くのを実感する。
再び目を開けると、そこにはもう誰もいなかった。
僕の、僕達の海水浴はようやく終わりを告げたのだ。