DT死すべし 2
「騒がしかったね」
「……そうだな」
当たり障りのない会話に、とりあえず俺は視線を窓際へと移す。いきなり二人きりになってしまったせいか、どんな顔をすればいいかわからない。
「そういえば、さっきなんだった?」
「……へ?」
「さっき、何か言いかけなかったっけ?」
「え。あ、ああ……」
突然蒸し返された数分前の出来事に、俺は慌てて返事する。さっきまでいた人たちがあまりにもうるさくて、忘れていたのも事実だったりするけれど。
――返事を、聞かせてくれないか。
いまさらそんなことを尋ねる勇気も、機会を失ってしまった俺にはない。
「……いや、別に」
それだけ言って、俯いた。昔からの悪い癖。わかってる。だけど、チャンスってのは、すなわち勢いっていうのも本当だ。
「そっか。それならいいんだけど。じゃ、私行くね」
ふっと笑って、夏生がパイプ椅子を引く。
「え、どこへ?」
「私もいったん家に帰るよ。人がずっといたりしたら、慧ちゃんだって疲れちゃうでしょ? 一応病み上がりなんだし」
「ちょっと……!」
静かに立ち上がろうとしたその腕を、俺は無意識のうちに握っていた。
「…………」
大きな目を見開いて、夏生が俺の顔を見る。
「もう少し、そばにいて欲しいんだけど」
チャンスとは、すなわち勢い。わかってる。十分すぎるほどわかってるって。
――だから……。
俺は問いかけるんだ。
「夏生。俺、DDTじゃなくなったらしいんだ」
「……みたいだね」
腕を握られ、中腰になった夏生は、さっきまでより幾分か俺との距離が近くなる。
俺の首に、夏生をつないでいたあれはもう存在しない。俺がDDTから解放されたと同時に、夏生も俺から解放されたというわけか。
「じゃあ、俺が目覚めたときには知ってたんだ」
小さくこくりとうなずいて、夏生は「うん」と静かに答える。
「夏生は海棠さんの部下、なんだっけ」
「一応、そういうことになってるよ」
「じゃあ……」
――もう俺は、用済みだろうか。
そんな、ネガティブな問いかけばかりが浮かんでくる。もう要らない? もう必要ない? DDTじゃなくなったら、死なない存在になった俺は、もうどうでもいい?
――違うだろ。
今、俺が聞くべきことは。
「夏生……」
小さく呟いて、俺は握った腕に力を込める。
「慧ちゃん? 痛い……」
腕をぐいと思い切り引っぱって、俺は夏生のバランスを崩した。夏生の足が宙に浮いたのをいいことに、俺は夏生の全身を、俺のほうへと引き寄せる。
「好きだ」
完全に前のめりになってしまった夏生をぎゅっと抱きしめて、その耳元で俺は言う。勢い余って、夏生が蹴り飛ばしたパイプ椅子が倒れた音がしたけれど、そんなの別にかまいやしない。あいにくここは最上階の個室だし。
「け……ちゃん?」
真っ赤な顔をわずかに上げた夏生に対し、俺は再度繰り返す。
「……好きだ。夏生が好きだ。夏生が誰を好きだろうと、DDTでなくなった俺に興味がなかろうと、とにかく夏生が好きなんだ」
まるで馬鹿の一つ覚えみたいに。
――ただ。
好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ……と。情けない俺はそれにとにかく理由をつけて、ありとあらゆる理由をつけて、夏生に好きだと伝え続ける。始めて会ったとき。距離を置いていた中学生のときも。修学旅行でも。大学受験の一日前だって。
そして、今も変わりなく。
「俺は、夏生が好きだ」
強く夏生を抱きしめて、俺は言った。
「……わかったよ」
「いや、わかってない」
訳もわからず強気に出た俺を、夏生がぎゅっと抱きしめる。
「そんなの、もう……ずっと前から、わかってるよ」
「なんだよ、それ」
「だってこれは、当然なんだよ」
にやりと悪戯っぽく、夏生が俺に向かって笑う。
「慧ちゃんは、私から逃げられない。そう仕向けたのは私。……知らなかった?」
呆気にとられた俺に、夏生がそっとキスをする。
「慧ちゃん」
唇が離れた瞬間、夏生がくすりと声を漏らす。柔らかな吐息が、俺の唇を温める。
「ものすごい阿呆面」
「それは言いすぎだろ!」
確かにちょっと、いやかなり驚いたのは事実だけどな。キスだってまだ二回目だしな。
「海棠さんを仕向けたところで、慧ちゃんがやれないのはわかってたんだ。だって、慧ちゃんが好きなのは私でしょう? 海棠さんとの一件でもあれば、本音を見せてくれるかなって。そう思った。だけど、もしかしたらって不安になって……、結局邪魔しに行っちゃったけど」
ふふっと、夏生は声を殺して笑ってみせる。
「でね、ここでひとつ、慧ちゃんに残念なお知らせ」
「…………?」
「海棠さんが言ってたんだけど、DDT、本当のところいつ反応が戻ってもおかしくないんだって。今、たまたま反応がなくなっただけかもしれないんだって。菊池教授がいる手前、言わなかったみたいだけど」
クスクスと笑い声を漏らしながら、夏生はさも嬉しそうに俺に言う。
「……マジかよ、それ」
「さあ。どうだろ」
悪戯っぽく夏生が笑う。
「どうだろ、じゃないだろ。死活問題だろ、俺にとっては! 夏生ももうちょっとくらい心配してくれたって……」
「そんな必要、ある?」
不敵な笑みを浮かべた夏生が、俺にもう一度キスをする。さっきから俺、やられっぱなし。
「夏生……?」
きょとんとする俺の耳裏に、夏生が冷たい指先をそっと絡める。
「もしかして、前みたいなの、またやってくれんの?」
なんて、問いかけた俺が馬鹿だった。夏生はそれこそ全力で俺を突き飛ばすと、顔を真っ赤にしてキッと俺を睨みつける。
「や、やらないよっ! やるわけないじゃん。あれはホント切羽詰ってて、ギリギリだったから勢いでやれただけで」
「えー……」
不満の声を出した俺に、グーで思い切り正義の鉄拳。
「あんな恥ずかしいこと、二度とやらないから! 私、初めてだったんだよ? あんなこと、やったこともないし、やられたことももちろんないし! こっちはいっぱいいっぱいだったっていうのに、慧ちゃんは断ってくるしさ」
「……うっ」
痛いところをつかれてしまえば、もう何も言い返せない。
「……ごめん」
「本当に反省してる?」
眉間にしわを寄せた夏生が、俺の頬をぐいと引っぱる。むぎゅうと頬を、容赦なく左右に引き伸ばす。
「ふぉめ……」
「わかってるよ」
俺の両側の頬が最大限に引き伸ばされたところで、夏生はぱっと指を放した。
「私のため……でしょ?」
「…………」
「そういうとこ、無駄に優しすぎ。でもそんなところも……私は好き」
「え……」
あまりにさらりと言われたせいか、俺の鼓膜は音を拾えなかったらしい。
「夏生?」
きょとんとして問い返す俺に対し、夏生は真っ赤に頬を染めている。
「もう絶対、当分言わないからね!」
「おい、ちょっと待て。もう一回! 俺、あんだけ言っただろ」
「数言えばいいってもんじゃないよ!」
「言えって……!」
夏生の腕をぐいと引き寄せて、その目をじっと俺は捕らえる。セミロングの髪が揺れる。
「……今回だけだからね」
「わかってる」
わずかに視線を逸らして。小さく溜息を吐いて。そしてふたたび視線を戻し、まっすぐな眼差しで俺を捕らえると、そのまま夏生の唇は静かに俺の耳元へ。
「慧ちゃん、大好きだよ」
わずかに見える、夏生はすでに耳まで真っ赤で。俺もたぶん、夏生以上に赤いと思う。だってさっきから、心臓の音が尋常じゃない。
「……俺も」
結局、それだけ言うのが精一杯。
さっきは何であんなに言えたのだろうと思うけど、ヘタレな俺には今はこれで限界だ。勢いとたぶんタイミング、それを失った俺は紙よりぺらい存在だ。それでも、本気を少しでも伝えるために、俺はもう一度両腕に力を込めて、夏生の全身を抱き寄せる。
大好きな、夏生がいる。それも俺の腕の中。
だからたぶん、俺が再びDDTになる日は来ない。来ないはずだ。来ないといいと思う。
それだけを、俺は心の底から切実に願っているのだ。