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DDT  作者:
15/16

DT死すべし 1

「慧ちゃん!」

 目を開けた途端、視界いっぱいに俺を覗き込んだ夏生の顔。


「……つお?」

 とりあえず名前を読んでみる。本当は起き上がろうとしたのだけれど、体がいうことをまったくきかない。

「なに? 慧ちゃん」

「ここ……どこだ?」

 寝ている俺と、白い天井。聞こえてくる定期的なリズムは、おそらく心電図か何かなんだろう。左腕から伸びる点滴を見て、俺はだいたいのことが呑み込めていたけれど、それでも一度、聞いてみる。

「病院」

「……そっか」

 それだけ言って、俺は小さく溜息をつく。頭はまだぼーっとしているけれど、どうやら俺はまだ死んではいないらしい。

 ――ということは、さっきのは一体……?

 ふと脳裏をよぎる記憶に、俺は意識を蘇らせる。

 ――そういえば俺、さっき夏生に……。

 抱きしめて、告白しようとして。海棠さんに何か撃たれて、そして……。


「な、夏生?」

「あ、そうだ。今、看護師さん呼ぶね。慧ちゃんが気づいたら知らせてって言われてたんだ」

「ちょっと待て。それより前に……」

 返事、と俺が言い終わる前に、夏生はにこりと笑ってナースコールのボタンを押した。

「で、慧ちゃん。何だった?」

 くるりと俺にふり返り、夏生が白い歯を見せる。

「なんでもない」

 起き上がりかけた上体をやっぱりそのまま布団にうずめて、俺はふいとそっぽを向いた。

「……ふうん、変なの」

 夏生も、それ以上は何も言わない。

 お互い沈黙のまま、視線を交わすこともない。だけど、実験施設のときのそれとは何かが違う。二人きりの病室の中で、心電図の定期的なリズムだけが、やっぱりうるさく響いていた。



 そして数秒後、バンと大きな音を上げて病室のドアは放たれた。


「……げ」

 思わず声が漏れていた。

「げ、とは何だ」

「げ、とは何よ」

 同時にハモる、不協和音。

「い、いえ……なんでもありません……」

 当然恐縮。当たり前だ。扉を開けたそこに現れたのは、看護師さんでなく海棠さんと菊池教授。その身長差約二十五センチ。そのバスト差……。

「DDT、何を考えている?」

 ギロリと教授に睨まれたので、俺はその場で思考を止める。

 仲が悪いというのは事実なんだろう。部屋に入ってきたときからずっと、お互いがお互いを決して見ようとしないのだから。二人とも仁王立ちしたまま俺だけを見て、顔すら合わせず会話は進む。

「菊池、どういうことだ」

「知るわけないでしょ」

 腕組みしたまま、苛立った声色で教授は答える。

「でも、事実は事実なんだから仕方ないじゃない。だから言ったのよ、レベル4になった時点で、最初っから私に預けておけば……」

「実験動物にして、廃人にするのがオチだろうが」

「その犠牲が、いつか世界を救うのよ」

 ふん、と鼻を鳴らして菊池教授はそっぽを向いた。

「教授、そういう言い方は人格を疑われますよ」

「真実なんだからいいじゃない」

「それでも、うまく事を進めるためには、多少なりともオブラートに包むことが得策というときもあるものです」

 背後のドアをゆっくり開けて、静かに現れたのはガスマスク。

「ガッ……ガスマ……ッ!」

 思わず指を差していた。

「知り合いなのか?」

 俺とガスマスクを交互に見遣った海棠さんが、怪訝そうに俺に尋ねる。

「実験室で、ちょっと顔を合わせただけですよ」

 完全なる嘘を、それこそ顔色一つ変えずガスマスクはさらりと答えた。いや、顔色どころか表情だって何一つも知れないけれど。

「え、えと……」

 表情を淀ませた俺を、ガスマスクがロックオン。加えてその場で目からビーム……って、後半は完全に俺の被害妄想。だが、少なからずガスマスクが発するオーラは、俺を威圧するには十分だった。あの挙動不審な中身はいったいどこへ。涼兄助けて。

「まあいい。なんにせよ菊池、病院では助手にそのガスマスクは外させることだな。患者が不安になったらどうする」

「そんなこと、私の知ったことじゃないわ。ね、荻野ちゃん?」

 ちらりと教授が背後のガスマスクに視線を送ると、ガスマスクはこくりと強くうなずく。

 ――この二人に、もはや常識は通用しない。

 俺が感じたのと同様、海棠さんも悟ったらしい。異様な二人をどうにかするのは諦めて、話の中心を俺へと戻す。


「杉並慧太」

「え、あ、はい」

 突然呼ばれたフルネームに、一瞬俺はどきりとする。

「そのままでいい。無理はするな」

 慌てて上体を起こしかけた俺に対し、海棠さんがわずかに手を上げて制止する。前に会ったよりずっと、その瞳はなぜか優しい。そして表情は穏やかだ。強さの中に不可解な憂いを含んだ海棠さんは、おぞましいほど今日も美人。だけど、その哀れむような眼差しが無性に俺を不安にさせる。

「杉並慧太。おまえ、何をした?」

 ベッドの真横に置かれた椅子に、座った海棠さんが問いかける。

「な。何って……?」

 長い足を膝で組む。タイトスカートから、見事なまでの美脚が覗く。そのままでいいといわれても、落ち着かないのが実は本音。

「正直に話せ。おまえ桜木と、ヤったのか?」

「は、はいぃ?」

 完全に裏返った奇声を発し、俺は勢いよく起き上がる。

 そして、真横に座る夏生を見る。ふるふると夏生が俺に向かって首をふる。

「や……ヤってませんよ。……何も」

 自己弁護するにも、なんだか虚しい内容だ。

「本当に? 何も?」

「やってませんって!」

 俺は思わず声を張り上げる。哀しい。泣きたい。下手な拷問より、これは精神的に痛い。

「……本当、なんだな」

 再度確認するように、海棠さんはずいと俺に顔を近づける。切れ長の瞳に付随した、射るような眼差しに俺は一瞬どきりとする。そんな目を向けられてしまえば、俺はうなずくより他はなく、とはいえ実際うなずくようなことしかしていないわけだけど、俺の反応に対し、海棠さんはハアと大きく溜息を吐く。

 夏生にもちらりと視線を送ってみたけど、やっぱり同じ反応だ。それどころか夏生は頬を赤く染めたまま、その場で俯いてしまったくらい。

「……そうか。やっぱりそうなんだな。わかった」

 それだけいうと、海棠さんはもう一回大きく溜息をついていた。


 なぜだか随分と疲弊している。そんな海棠さんを嘲笑うかのように、扉の向こうで俺たちのやり取りをおとなしく見守っていた菊池教授がずいとベッドに近づいてくる。

「海棠ちゃん~? さっさと言っちゃいなよ」

 背後から覗き込み、せせら笑うように教授は言った。

「わかっている! 口出しするな」

「はいはい。もー本当、怖いんだから」

 真っ赤な舌をぺろりと出して、教授が両手を挙げてみせる。テンパッている海棠さんを、完全おもちゃにしている感じだ。

「あの、だからだな……」

 いつもの口調とははっきり違う、抑揚のない声で海棠さんは言葉をつむぐ。視線はじっと床を見据えたまま、膝の上で組まれた指先がその迷いを示している。

「その……実はだな……」

 言い淀む言葉、泳ぐ瞳。今まで、こんな海棠さんを見たことはない。海棠さんの目が、天井と床とを何往復もし続けている。


 しばらくして、開いた言葉はこれだった。

「……すべて私の責任だ。許して欲しい」

「は?」

 いきなりの謝罪に対し、俺は思い切り阿呆面で返す。


「説明してやりたいのは山々なのだが、私自身も全く訳がわからないのだ」

「……え、えと……」

「冷静に聞いて欲しい」

「俺は十分に冷静ですけど」

 焦っているのはあなただけだ。

「あの、だからだな……」

「だから、なんなんです?」

 俺の問いかけに、海棠さんは半ば諦めたように大きく深呼吸するとこう言った。

「つまりだ、おまえのDDT反応がなくなったんだ」

 しんと一瞬病室内、すべての音がなくなった気がした。キンと、無音の中で耳が痛い。

しばらくすると、やっとのことで心音だけが俺の聴覚に回復した。定期的に刻まれる、心臓が拍出するリズム。無機質な音だけが鳴る世界で、おそらく僕は、間違いなく目を剥いていた。そして、隣に座る夏生も。あんぐりと口を開けたまま、二人で海棠さんを見つめている。

 そんな沈黙を、破ったのは一人の笑い声。


「きゃはははは! 全員、何固まってんの」

「菊池!」


 海棠さんのやや怒りを含んだ声にも負けず、甲高い笑い声は白い病室を支配する。

「海棠だって、散々その子に聞いてたじゃない。やったのはキスまで。しかも、最後の最後、ふれるかふれないかの微妙なやつ。……でしょ?」

 にやりと笑って、教授が俺に視線を向ける。こうなればもう、俺は素直にうなずくしかない。

「お姫様のキスで、王子様の童貞の呪いは解けました。これですべてはハッピーエンド……なんて」

 笑っていた教授の顔が、瞬間真顔になって。


「サイッテイの結末」


 吐き捨てるように、教授は言った。

「ま、マジで……?」

 思わず、海棠さんを見つめてしまう。

「マジだ。大マジなんだ」

「な、なんで……?」

「本当にわからないのだ」

 そう言って、海棠さんも静かに首をふるだけだ。

「わからないんなら、わかんないでいいじゃん?」

 深刻そうな海棠さんとは対照的に、教授は実にあっけらかんとしていた。ただ、実験サンプルを失ったのがよっぽどおもしろくなかったのか、すこぶる機嫌は悪かったけど。

「あのなあ、菊池。何度も言っているようだが、DDTは呪いでも心霊現象でもなんでもないんだ。環境破壊によって及ぼされた人体への悪影響……いわば病気だ。それがキスですべてが解決しましただなんて、一体私はどうやって上に報告すればいいんだ」

「そのまますれば?」

「そのままですむか! おとぎばなしじゃないんだぞ」

 眉間にしわを寄せてふり返った海棠さんに、教授は大きく溜息をつく。

「あーあ。だから、官って嫌なのよね」

「……放っておけ」

「原因不明。あるとすればキス。何が起こるかわからない、それが人体ってもんよ。昨日まで健康だった人が、突如不治の病にかかる。絶対歩けないっていわれてた人が、走れるようにだってなる。百年後の天気を予想するより、人体と病気の関係は複雑なの」

「…………」

 珍しくまっとうな教授の話に、海棠さんは口をつぐむ。

「あんただって医者の端くれ。脳味噌の中では納得してんでしょ?」

「あ、ああ……。それはそうなのだが……」

「だからさあ、さっさと私に引き渡して実験させておけばよかったのよ」

 結局それか! と、たぶんここにいる全員(ガスマスクを除く)が思っただろうけど、誰も口には出せやしない。

「そうすれば、今後のDDT研究が一足飛びに進んだかもしれないってのに。もうさあ、ブルキナファソの某研究所と連携結んじゃったのよ。それをいまさら白紙に戻せだなんて……。人口爆発地区における、DDTの抑制解放実験。すでにこれは国家プロジェクトレベルだったのよ? だからさあ、あんたもそれを了解して、こうして麻酔銃使ってまで捕獲したんじゃない。なのに、すべてが台無しよ。このサンプルはもう使えない。一体どうしてくれるっていうの?」

 捲くし立てるように責める教授に対し、海棠さんはとうとうキレて教授の頭を鷲掴みする。

「あのなあ、菊池……っ」

 マジギレ寸前の海棠さんを、下から、菊池教授が睨みつけるように見上げている。

「さっきから、言わせておけばキャンキャンと……っ。どうもこうもあるか! こっちだって混乱してるんだ」

「この際、レベル3あたりでも妥協するわ。さっさと情報渡しなさいよ」

「渡せるか! おまえみたいにチビマッドに」

 間違いなく、チビは関係ないだろう。パッと見、普段は絶対に海棠さんのほうが落ち着いていて大人っぽいわけだが、キレるとどうも違うらしい。五十歩百歩。同属嫌悪。まさにその言葉が似合う。

 狭い病室の中、全く意味のない小競り合いが延々と続く。ロリ婆だとか、老け顔だとか。これはもう、完全に子供の喧嘩だよ。この人たち、俺が病人だってことたぶん完璧に忘れてる。

「ちょっと、そろそろ……」

 小さく声を上げた瞬間、ギロリと二人同時に睨まれた。

「なんだ?」

「なによ?」

 完全に俺を威嚇態勢。こういうときだけ、息が合うから困ったもんだ。

「さっき、麻酔銃とかって聞こえてきたんですけど……」

 おずおずと、さっきからずっと疑問に思ってきたことを尋ねてみると、教授はふんと鼻で笑った。

「使ったわよ? それが何か?」

 腰辺りの鈍い痛みは、やっぱりそのせいなのか?

「ま、撃ったのは海棠だけどね。ね? 海棠ちゃん」

「…………」

 教授に流し目で見られて、しばらく途惑った様子を見せた海棠さんだが、大きく溜息をついたあと「ああ、そうだ」とそれだけ答える。

「私は一応反対したんだが、菊池に撃たせたら外れる可能性が高かったからな。仕方なく私が撃ったんだ」

 撃った事実には変わりがないと。

「あのとき打たれて眠くなったでしょ。それよ」

 麻酔銃って、よく知らないけど猛獣とかに打つやつだろ? 当たり所が悪かったら、マジでヤバいやつなんだろ? それを、いとも簡単に民間人の俺に撃つって。

「か、海棠さん……?」

「悪いが、使用させてもらった。申し訳ないが、あの時は緊急事態だったんだ」

 嘘だと言って欲しかったけど、立ち上がってまで頭を下げた海棠さんの、その態度こそが真実であることを実感させる。

「でも、大丈夫だ。おそらく人体に影響はない。やや、結構……いや、かなり強力な麻酔を打ったことは打ったが、たぶん中毒性はないし、それに今検査をしたところ完全に抜けているらしいし」

 らしいってなんだよ。それに、途中で何度も出てきた、おそらくとかたぶんとか、不確定要素は一体なんだ。はっきりいって、思いっきりヤバそうな麻酔薬を俺にぶち込んでんじゃねえか。

「そ、そうですか。は、はは……」

 なんかもう、笑うしかない。

「退院するまでこちらですべて面倒を見るから、おまえが心配することは何もない。それに……」

 突如海棠さんが真面目な顔になったので、俺は思わず作り笑いを止めていた。


「これで、おまえは自由だ」

 よく響く、女性にしてはやや低い声。


 耳慣れない言葉に、俺は思わず呆然とする。

 自由――その、あまりにも何気なく手にしているものをあえて突きつけられたせいなのか、いまいち実感がわかないというのが俺の本音。自分ひとりでは整理がつかず、思わず俺は夏生の方を見る。そして夏生は、視線を合わせた俺に対し、こくりと大きく頷いた。

「対策特別部会が関与するのはレベル4以上と決まっている。さっき菊池に測定してもらったところ、多く見積もってレベル1……いや、基準値以下だった。もちろんこれからもフォローアップはさせてもらうが、これ以上私たちが現時点の杉並慧太、おまえを拘束することはなくなる」

 突然の解放宣言に、俺はただボーっと宙を見つめたままだ。

「なんだ? 嬉しくないのか?」

「い、いや……、そうじゃないんですけど。なんか、実感がわかなくて……」

 自由なんて、当たり前のものだったから。ないことのほうが、珍しいくらいのものだから。

 ――これで晴れて、自由だって……?

 両手をじっと見詰めてみたけど、昨日までの俺となんら変わりはしなかった。だから実感といっても何もない。DDTが治った? まだ童貞だっていうのに? もしかしたら、俺が知らないだけで、誰かとヤっちゃってるとか……いや、それはないな。たぶん。

 そこにはなぜか確信がある。だいたい、そうだとしたら勿体なさ過ぎる話だし。どっちかといえば、疑うべきはそっちじゃない。

 ――俺は本当にDDTだったのか……?

 考えてみれば、俺がDDTだという証明は何一つ示されてはいないのだ。血中濃度? DDT反応? どこでどうすればそれを目で見ることができるんだ?

「海棠さん、ひとついいですか?」

「……なんだ?」

「俺、本当にDDTだったんでしょうか……」

 俺の質問に対し、海棠さんはくすりと笑う。

「間違いない。データブックに記載されているし、それに少なくとも、以前のおまえは簡易テスターですら明らかな陽性反応を示していた。そんな事を思うなら、実際に証拠として検査結果を見せてやろうか?」

 そういった海棠さんの申し出を、俺はすぐさま断った。もし実際に自分の目で見てしまったが最後、それこそDDTが現実のものとなって俺に襲い掛かってくる気がしたからだ。


 DDT――通称……これ以上は、残酷すぎて俺には言えない。

 奇病か。はたまた、環境破壊ゆえの現象なのか。散布され、土中に残留したDDTが様々な生物に吸収されて。長い年月をかけて生物濃縮が起こり……そして、DDTは誕生する。


 そんな目に見えないようなもの、信じろっていうほうが難しすぎる。

「なあ、夏生。俺、夢でも見てたのかな?」

「それなら殴ってあげようか?」

 にこっと笑って夏生がナチュラルに拳を握り締めたので、俺は慌てて首を大きく左右にふった。

「どうしたの? 確かめたいんでしょ?」

「いや、いい。遠慮しておく」

「……そう」

 初めから、こうなることがわかっていたとかいうように、夏生はあっさり引き下がると、呆れたように笑ってみせる。

「ナンバー……いや、杉並慧太。他に聞きたいことはあるか?」

 俺が静かに首をふると、海棠さんもまた「そうか」とだけ答えて、自らが座っていたパイプ椅子を折りたたむ。

「そういうことだ。それでは、私たちは出て行くことにするよ。体に差し障ってもなんだしな。養生してくれ」

「……はい」

 小さく俺がうなずくと、海棠さんはにこりと俺に笑って見せた。強さの覗く極上の笑顔。その上、わずかに会釈をしたせいで胸の谷間が強調される。

「ほら行くぞ、菊池」

 くるりと踵を返しながら、海棠さんは教授の首元を引っつかむ。

「ちょっと、海棠。離しなさいよ! それに、言われなくっても出てくに決まってるでしょ。こんなただの童貞、何の興味もないんだから」

「ちょっ、それは違う!」

 叫んでみて、しまったと思った。

 ただの童貞という一言に、哀しいかな反応してしまったのが事の顛末。全員が、一点のぶれなく俺を見ている。しかも、かなり哀れそうな集中視線。


 ――なんだってんだよ……!


 童貞だけどね。確かにまだ童貞だけどね。昨日、やっとのことでキス童貞から抜け出ただけだけどね!

「ただの童貞じゃなくて……」

 ぐっと拳を握ったまま、俺はただ次の言葉を捜して彷徨う。

「えっと、童貞じゃ……なくて……」

 じゃなくて、じゃなくて……。じゃ、なくて!


「シャイなだけだ!」


 ああ! 俺の馬鹿! 苦しいよ! すべてが苦しいよ! この居た堪れない空気を誰かどうにかしてくれよ! 

「だよな、夏生!」

「……童貞でしょ?」

 ばっさり。すべてを夏生が切り裂いて、全員はほっと肩をなでおろす。居た堪れなかったのは全員だってことは俺だってまあ認めるけど、夏生くらい、せめて俺をフォローしろ。

 だけどまあ、これが真実で現実だ。そればかりは諦める。

 絶望を浮かべた俺に向かい、海棠さんはふっと鼻で笑い飛ばした。

「……くだらん」

 大きく溜息を吐くと、海棠さんはドアの取っ手に手をかける。

「まあ、これ以上騒いでも病人の体に障るしな。謝罪は後日、しっかりとさせてもらうことにするよ。じゃあ桜木、あとはよろしく頼む」

 それだけ言うと、海棠さんはそのまま教授とガスマスクを追い出すようにして病室を出て行く。ガチャリと金属の音がして、扉が完全に閉まったことを俺は知った。


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