逆転オセロ 2
俺が出て行ったときと同じ場所に、夏生は立ったままでいた。俺もまた、静かに部屋に入っていく。深呼吸をする。その呼吸音さえ響くように。今度こそ誰もいない。本当に部屋に二人きり。
だからまず、これだけは言わせてくれ。
「……ごめん」
「反省しているならいいよ。許してあげる」
案外あっさり夏生は言った。それでも、そういう夏生の目は真っ赤。いったいどれだけ泣いたというんだ。
「……そういえば、着替えたんだな」
「当たり前でしょ」
ここにいる夏生が着ていたのは、さっきまでのピンクパジャマではなく、それこそ高校の部活動で着るような色気皆無なTシャツとジャージ。今の夏生とあのときの夏生を思い比べ、俺は思わずまじまじと夏生の姿を見てしまう。
「ちょっと、慧ちゃん」
その視線に気づいたのか、夏生は居た堪れないといったふうにジャージの下をずり上げる。ちらりとへそが隙間に覗く。
「……何見てんの」
「い、いや……」
キャミソール風のパジャマはパジャマで扇情的だったが、チラリズムというのもそれはそれで扇情的だよな。なんて、いえるわけないだろ。
「……いやらしい」
「…………」
「何で何も言わないのよ」
「…………」
睨みつけるように見上げる眼差し。ヤバい――これは……かわいすぎる。
「男なんてみんな、そんなもんです」
「何でいきなり敬語なのよ……っ」
「……フラグ」
馬鹿すぎることを呟いて、俺は夏生を抱きしめる。
「ちょっ……?」
すっぽり納まった腕の中、最後の半音シャープが夏生の動揺を示している。
「ちょっと、慧ちゃん?」
「本当は意味なんてない」
「ちょっとってば……!」
抗う夏生を、俺は力で押さえ込む。本気になれば、夏生の反撃など一秒たりとも許しはしない。
「もうしばらく、このままでいいだろ?」
何もいわない夏生の行動を、俺はイエスと受け取った。
触れたそばから伝わってくる、夏生の体温。心音すら、聞こえそうなぎりぎりの距離。夏生が微動するたびに触れる髪が、肌が、全身に電流を走らせる。……ぞくぞくする。
「……夏生……」
俺は小さく名前を呼んだ。
――今なら、言える気がする。
こくりと俺は息をのむ。涼兄はなんでもないと言っていたけれど、結局俺は夏生から、何一つ聞いてはいないのだ。夏生が誰を好きだとか。誰と付き合っているだとか。俺のことなど、恋愛対象になんて思っていなくとも。
――それでも、俺は……。
だから俺は、それを伝えることにする。
真実を伝えて、そして玉砕ならそれもまた、ありってもんだと俺は思う。虚言はもちろん許さない。悪いけど、夏生の嘘ならなんだって、見抜ける自信が俺にはあるんだ。
「……あのな……」
「……なに? 慧ちゃん」
わずかに夏生がしゃべるだけでも、それだけで振動が伝わってくる。これだけで、全身から血液が噴出しそうな自分に思わず眩暈する。
「えっと……」
口ごもる俺に、夏生はそれ以上何も言わない。ただ、待ってくれている。いつもであれば、いったい何なのとか、早く言いなさいよとか、そういったことを絶対口にするはずなのに。
「一回しか、言わないからな」
大きく深呼吸すると、俺は夏生を抱いた指先に、もう少しばかり力を込める。
「俺は……」
口を開いた、そのときだった。
「……っ!」
背中に走る、鈍い痛み。トスッと何かが刺さる音。わずかに口を開けたまま、俺の神経はいやがおうにもある一点へと集中する。背中から全身に広がる、何か不可解な脱力感。それがいったい何のせいかなんてわからぬまま、俺の意識がぐらりと揺れる。
「慧ちゃ……」
目の前にいる、夏生の姿がぶれてくる。
――ちょっと待てよ……!
ここで言わなかったら、一生言えない気がする。ここで言えなかったら、それこそ生涯何も変わらない。
「夏生……っ!」
夏生を呼ぶ。とりあえず俺は、大声を出して呼んでみる。だけど、鈍い痛みはすばやく全身を駆け巡り、俺の意識を乗っ取っていく。
「……っ」
唇の端を噛み締める。口腔内に、じんわりと鉄の味が広がる。
「……きだ」
「……ちゃん?」
不安げに見つめる、夏生の顔。
俺は夏生の肩を両手でしっかり握り締めると、勢い任せにその唇にキスをする。大きく見開かれた夏生の目。カツンと歯の当たる音。
――仕方ないだろ。キスなんて、一度だってしたことないんだ。
「夏生が好きだ……」
それだけ言って、俺はそのまま夏生の体に倒れこむ。顔に触れる、夏生の人肌。柔らかい胸。
――すっげー、気持ちいい……。
眠気が増す。これ以上、どうにも目を開けていられない。
「慧ちゃん……!」
耳元で叫ぶ、夏生の声すら遠くなる。
だけど、俺が目を閉じてしまう寸前、揺らぐ視界にピンぼけの状態で見えたのは……。
「悪く思うな。状況が変わったんだ」
小さな声でそう呟く、海棠さんの堂々とした姿だった。