逆転オセロ 1
「そろそろ入ってはどうですか?」
背後からから聞こえてくる、おそらく十回以上を数える同じ台詞に、俺は「ちょっと待ってください!」と苛立った声色で答えるしかない。
見事なまでに光り輝くハーレーダビッドソンから降り立つこと数十分、俺らはまだ実験施設の入り口にいた。
もちろん、原因の全ては俺にある。
この扉を開けたら、夏生がいる。この扉を開けてしまったら、夏生に会わなければならない。開けて再び逃げ出せば、それこそチキン。今度こそ本当に夏生に合わせる顔がない。だからこそ、重要なのは精神の安定、そして勢いタイミング。
俺は大きく深呼吸をすると、それこそ何度目か数えるのもめんどうになってきた質問をガスマスクに再度ぶつける。
「危なそうなものは何も近づいてないんですよね?」
「さっきから何度も申し上げている通り、少なくとも半径五キロ以内にわたり、レーダーに感知されるような物体はいないようです。それこそステルスで現れたのなら、このレーダーでは手も足も出せませんが。国防省も大日本帝国軍も、さすがにそこまではしないでしょう」
「じゃあ、まだいいですよね」
夏生の安全が最優先。だが、危険が迫っていない以上は、俺のメンタルケアが最重要事項となるのが当然だろう。
「……あ」
ふいに声を上げたガスマスクに対し、俺は思わずふり返る。さっきから、俺が尋ねたことに対して返答はするものの、一切自ら話し始めることはなかったからだ。
「何か来たんですか?」
俺の問いかけに、ガスマスクは何も答えず首をふる。
「じゃあ、もうちょっと待ってください」と俺は言ったはずなのだが、ガスマスクはちらりと再度画面を見ると、ガチャリとその扉を開けてしまった。
「な……っ!」
「演算終了時刻まで一時間を切りました。これ以上は待てません」
「え、ちょ、ちょっと……。まだ心の準備が……!」
演算終了時刻より、俺の心の準備のほうが大切だろうがあ! と俺は心底思うのだけど、ガスマスクの都合もやっぱり一応あるらしい。俺を無視してさっさと室内へ入っていこうとするガスマスクの体を押しのけて、俺は慌てて部屋へと入る。感動の再会とまではいかなくとも、俺より先にガスマスクが現れるのは、いくらなんでもマズすぎる。そもそも、どうして中までついてくるんだ。足早に歩くガスマスクを俺は肩口で牽制しながら、さらなる大股歩きで対抗する。ただ、コンパスの違いか、すでに俺は早歩きを通り越して小走り状態。
それでも、ほのかに漏れるリビングからの明かりを見た瞬間、俺の足は思わずその場で立ちすくむ。
「DDT……?」
「シッ」
わずかに声を漏らしたガスマスクに対し、俺は人差し指を口元に当てた。耳を澄まして聞こえてきたのは、思いきり鼻をすする音。
その瞬間、ドクリと自らの心臓があぶる。別れ際に見た、小さな背中を思い出す。
どうして泣いてる? 誰が泣かせた? 俺のせい?
……俺以外、いるはずもないけど。
いてもたってもいられず、俺は思わず走り出す。
「夏生、ごめん!」
ぎゅっとかたくなに目をつぶり、部屋に入った俺はそう叫んで頭を下げる。
「……慧ちゃん……」
弱々しい夏生の声に、俺はゆっくりと目蓋をあける。そこにいたのは、確かに夏生。目を腫らして、鼻をかみ過ぎたのか、鼻まで赤い。
だけど、そんな夏生を支えていたのは……。
「涼……兄?」
夏生の隣には、抱きしめるようにした涼兄の姿があった。
――なんでここに……?
消えたい。逃げたい。走り去りたい。全力全身で踵を返したがっている俺の全細胞を、俺は精神で叱咤して、何が何でも踏み止まる。
いつもの俺なら、間違いなくここで走り去る。迷わずここで踵を返して、そのままなかったことにする。
――だけど。だけど……!
もしここで逃げようものなら、それこそもう次はない。逃げだしたら、すべてが終わる。修復の一切が不可能。それは、自分が一番わかっている。
今日の俺は違うんだ。いつもの俺とはまったく違う。
自己暗示などすでに遥かに通り越して、これはもはや自己催眠。
――大丈夫だ、と。
俺は自分自身に言い聞かせる。今日の俺は違うのだ。今ここで逃げ出したら、それこそこの場から離れたら、夏生とのすべてが終わってしまう。
――それだけはどうしたって嫌だから。
だから俺は、今だけは逃げない。
「夏生……!」
引き下がりたい両足を無理やり一歩推し進めて、俺は夏生の傍へと近づく。
夏生が誰を好きかは知ってる。夏生が誰と付き合っているかは知らない。涼兄なのか。たぶん涼兄だろうけど。それでも、俺にまだ気持ちを伝えるだけのチャンスがあるというのなら……俺はそれに賭けるだけ。
男はきっと、顔じゃない、学歴じゃない、ましてや運動神経でも家柄だって違うだろ。そうでなければ困るのだ。そんなんばっか並べてたら、地球上で人間はこんなに栄えやしない。そこそこで、傍から見たらどうしようもない奴だって、どうしようもない俺だって、千載一遇のチャンスはある。
――そうだろ?
比べるのなら、愛の深さ……なんて。恋愛に妄想以外受け付けない、童貞だからこそ言える戯言かもだけど。
「俺は……っ」
しかし、叫ぶように駆け寄った俺に待ち受けていたのは、みぞおちに沈むフライ級パンチ。
「ぐぅ……ぉっ!」
うめくようにみぞおちを押さえ込んだ俺に、立ち上がった夏生が強く頭にもう一発。
「バッカじゃないの!」
「な……」
うずくまり、俺の目の前に仁王立ちする夏生を俺は仰ぎ見る。
「馬鹿だよ馬鹿だよ。もう、馬鹿以外の何者でもないよ。バカバカバカバカ……っとに本当、バッカじゃないの!」
「夏生……」
何もそこまでいわなくても。
「私が……私がどれだけ……っ」
いったん止まっていた涙をふたたび両目からぼろぼろこぼすようにして、鼻をすすった夏生は叫ぶ。
「どれだけ心配したと思ってんの」
「…………」
「ブザーちっとも鳴り止まないし。距離はどんどん離れていっちゃうし。慧ちゃんの居場所はわかんないし。探しに行こうとしても、もし反対のほうに行っちゃったりしたら、それこそ取り返しがつかないと思って一歩も動けなくなるし。本当、あと数十メートルのところまで行ってたんだからね。もう少しで、本当に死んじゃうところだったんだからね」
ぼろぼろと涙をこぼす夏生を前に、俺はそっと冷たい金属の首輪に触れる。
――そんなに、ヤバかったのか……。
そう思うと、ぞっと背筋が凍る思いがする。それこそ、ガスマスクが来てくれなかったら。夏生との再開はきっとなかった。
「外は暗いし、怖いし。私、本当にどうしようかと……っ」
「……わかった」
泣き叫ぶ夏生をこれ以上見ていられなくて、俺は涼兄から夏生を引きはがすように自らの腕に抱き寄せる。
「もう十分に、わかったから。俺が悪かった」
「悪いと思ってない」
「……思ってるって」
「…………」
言葉を返さない夏生を、俺はもう少し強く抱きしめると、耳元でそっと呟いた。
「本当に……ごめん」
俺のその一言に対し、返ってきたのは夏生の声ではなく涼兄。
「お取り込み中悪いんだけど」
「う、あ。りょ、涼兄。そういえば……っ」
思わず俺は抱きしめていた夏生から距離を置く。バッと両手を突き放す。普通に考えてみたら、彼女に他の男が抱きついて、黙ってじっと見ている男なんているわけがない。
「あの、涼兄……これは……っ」
必死に言い訳を探すけど、何一つ出てきはしなかった。悪いけど、夏生は俺がもらう……そんな台詞、俺が言えるわけがない。
「え、えっと……」
完璧に忘れてしまうくらい背景に、下手すれば空気に徹していた涼兄が珍しくその場で口を開く。
「演算処理の終了まであと四十分を切ったから」
「……は?」
恐る恐る背後を振り向くと、ガスマスクが自らの腕時計を示して立っている。
ふと気づけば、部屋には俺と夏生、涼兄と加えてガスマスク。
「そういえば涼兄、何でここに?」
夏生の頭を優しく撫でる涼兄の姿を見て、何も考えずあんな行動に出てしまったけれど、そういえばどうしてここにいるんだ。涼兄はおそらく政府や大学の関係者ではないはずだし、それにもう、DDTでもないはずなのだが。
「……これ」
微塵も表情を変えず、涼兄はポケットから何かを取り出し、俺の前へとぶら下げる。
「って、あーっ!」
涼兄の手にぶら下がっていたものは、紛れもなく俺の携帯電話。プラス、ストラップとして家の鍵。
「忘れ物」
「……ど、どこにあった?」
思わず声がどもってしまう。
「俺の家」
ということは、俺は涼兄の家から飛び出して、そのまま鍵も携帯も持たずに家へ帰ろうとしたってことか。そこに海棠さんが現れたせいでこんな展開になってしまっているものの、もし現れなかったら、俺はもう一度涼兄の家に戻らなきゃならなかったってことか。
……それは、あまりにもマヌケすぎ。
「携帯に家の鍵をつけるのはどうかと思う。意味がない」
携帯には涼兄からの着信が二件入っていた。気づいてて、なんでかけるか俺の兄。そして、どうしてそれ以外に全くメールも電話もないんだ俺自身。
「……ありがと」
でも、持ってきてくれたことには素直に感謝して、俺はとりあえずお礼を言う。こんな山奥の、しかも監禁されている場所まで来るのはいかがなものかと思うけどな。
「鍵につけるキーホルダーがないって言うのなら、ひとつくらい俺が見繕ってやるけど」
「遠慮しとく」
「……そうか?」
申し出を、即座に断る理由はひとつ。当たり前だ。涼兄の選んだキーホルダーやストラップをつけたが最後、俺は非モテより下位に位置する不可視圏へと堕ちる気がする。
「それならいいけど」
「あ、ああ。悪いな。遠いところをありがと」
キーホルダー云々の話は早々に打ち切って、とりあえず俺がそう言うと、涼兄はわずかに口角を上げて笑ってみせる。珍しい。そして怖い。背後で尋常じゃなく震えるアレが。
「じゃあ俺、帰るから」
「そういえば、涼兄。どうやってここへ?」
俺の質問に対し、ゆっくりと涼兄はただ一点を指差した。
「乗せてきてもらった。慧太の居場所を知ってるっていうから」
こくりと頷くガスマスク。マジで全身が震っているぞ。それにしても、DDTは国家機密とかいってるわりには、随分とおつかいちっくだな、おい。
「えっと、それはど……」
うもありがとうございましたと言おうかと思ったけど止めといた。右目後方わずかに俺の視界に入る、たたずむガスマスクの震えがさらに激しくなったのがその理由。正直、下手なホラーより怖すぎる。
「俺は行くけど、慧太、これ以上迷子になって困らせるなよ」
「……わかってるよ」
どうやら涼兄の中では、俺が迷子認定されているらしかった。まあ、真実を全部話されても困るけど。
「そうだ、涼ちゃん。本当にありがとうね」
やっと泣き止んだ夏生が、涼兄が部屋を出る間際に声をかける。夏生の声に、涼兄が緩やかにふり返る。
「忘れ物のついでだったから」
「ううん。それでも」
お互い優しくはにかみあう。やっぱり心は、ずきんと痛む。
「ああ、そうだ」
ふと思い返したように涼兄は言う。
「なっちゃん。俺まだ、死ぬ予定はないから」
「そっか。ならいいんだ」
涼兄の言葉に、夏生はにっこりと笑ってみせる。最初に交わした、「死なないで」――あの呪いのような言葉は、今もたぶん二人の間に残っているのだ。
そして涼兄は、そう確認することで夏生が安心することを知っている。不可侵領域、目の前に広がるのはそんな名前の空間な気がして、俺はやっぱり自らの無力さを実感する。実際、似合っているから何もいえない。
「じゃあ、また。お盆までには帰ってこいよ」
「……わかった」
正直確信はなかったけれど、俺は一応頷いた。
そして、涼兄とガスマスクはそのまま静かに部屋を出る。
「あ、慧太」
「まだ何かあったのか?」
廊下から呼ばれた声に、俺は慌てて涼兄の傍へ。
「前から思ってたんだけど、おまえ、何か誤解してるだろ」
「へ……?」
突然の物言いに、俺はあんぐりと口を開ける。
「俺となっちゃんとはなんでもない」
「は……?」
どうして今、ここでそんなことを?
「それだけだ」
「それだけって、ちょっと、おい……っ」
その、応援メッセージみたいなのはなんなんだよ。意味なくめちゃくちぇ照れるじゃないか。それに、それに……。
――やっぱり俺の気持ちはバレバレだったっていうことか?
それだけ言って、さっさと玄関から出て行ってしまった涼兄のあとを、俺は思わず追いかけた。
「ちょっと、涼……」
閉まりかける戸を手で押さえ、叫ぼうかとも思ったけれど、そこに見えた二人の様子に俺は思わず口元を結ぶ。
「……マジかよ……」
ガスマスクの手を握る、涼兄の姿。まあ、実際のところは手じゃなくて指先わずかのところを握るみたいな感じで、いってしまえば宇宙人連行っぽいといったほうが正しい気がしなくもないけど、それでもこれはすごい進歩だ。少なくとも涼兄が前髪を上げて、人と目を見て話している。涼兄の本気。殺傷能力無限大。
――普通に会話できるんじゃねえか。
そこだけが唯一の涼兄に対するアドバンテージだと思っていたので、それはなんだか悔しくもある。一般女子と会話が可能というスキルが涼兄に身についたが最後、俺はあらゆる面において完敗を帰することになるからだ。
――まあ、あれが一般女子かというと謎だけどな。
ガスマスクだし。完全防備だし。考えてみれば、そもそもガスマスク自体が目を見せてないわけだし。だが、マスクの下は金髪碧眼セミロング、しかもクーデレ(発狂型)。
――涼兄のツボそのものじゃねえか……!
ストラップについていたキャラともろかぶりなのは、できれば俺の気のせいで。
でも、今になってやっと気づいたのだが、思えば涼兄はここに俺がいる理由も、夏生がいる理由も一切聞いてこなかった。怪しすぎる空間で淡々と……というのは、真実を知っても知らなくても、涼兄ならなんら変わりないような気がしなくもないが。そして、人に物を聞くような涼兄でもない気はするが。
それでも、最後の最後に俺にかけた台詞は、もしかしたら事情を知っているからこそ出た台詞なのかもしれない。
――俺は弟としてあんな女、認めないぞ……。
とかなんとかいったって、あの二人に所詮俺がかなうわけでもないけれど。わけのわからない負け惜しみを並べたてながら、俺はふたたび意を決して夏生のいる部屋へ戻ることにした。