地上1キロのラプンツェル 1
呆然と正面を見たままの後頭部、震える小さな肩……視界の端に、捉えることができたのはそれだけだ。
「馬鹿じゃねえの……」
小さく呟いて、俺はその場にうずくまる。はあ、はあ、と繰り返される荒い息遣い。ただ走ったからでは、たぶんない。さっきから脳裏に焼きついて離れない、夏生の姿、涙、そして……胸の感触。
――最低だ。
荒い息遣い、汗ばんだ体、そしてなぜだかいつもより卑猥に曲がった俺の指先。こんな俺の前をたまたま幼女が、しかもその前をたまたま警察官が通ったとすれば、職質逮捕コースであることはほぼ間違いあるまい。いや、そんな偶然がこんな場所で重なることなんてことはほぼありえないだろうけど。連行される自分の姿を瞬間的に想像して、今やっと、ここが人気のない森の奥でよかったと思った。
人気がないのをいいことに、俺はその場に倒れこむ。
見上げた上空には、木々の隙間から星が見える。見事なまでに漆黒の……空。
本能のまま、夏生を抱けたらどんなによかっただろう。だけど、あの時はどうしてもできなかった。その背後に、夏生の心情がちらつけばちらつくほど。
「俺ってやっぱ、ヘタレなのかな……」
言ってはいけない最後の一言を自分で発し、無駄に傷つくあたりが最悪。
「はあーっ。なにやってんだよ、俺」
俺は掌で両目を覆うと、大きく溜息をつくほかなかった。
とりあえず飛び出してみたはいいものの、所詮今の俺は夏生という鎖につながれた犬に過ぎないのだ。すでに、実験施設はもう見えない。五百メートルなんて、普通に走ればあっという間の距離なのだ。しかも、ここは東西南北すらわからない森の中。
「そういやここ、どこらへんなんだろ……」
地図もない。もちろん、標識だってない。ぐるりと頭を回転してみたところで、同じ風景が広がっているだけだ。木々の隙間から覗く空も、東西南北を示すには狭すぎる。
――まあ、どうだっていいけどさ……。
所詮ヘタレなのだ。ダメ童貞なのだ。このままここで朽ち果てるのも、結構悪くないかもしれない。
――誰か、殺してくれれば楽になれるのかもな。
首を一周する金属製の輪に、俺は静かに触れてみる。冷たい、つるりとした金属の手触り。一度も鏡を見ていないからどんな形状かはわからないが、さわり心地からして銀色のピカピカとしたものなのだろう。
――これだけ……。
が、今の夏生と俺をつなぐもの。
五百メートルでブザー。一キロを越えたところで――……ボン。そこに俺の首はない。
「それも、いいかもな……」
小さく一人漏らしてみる。深夜の森に、声はすぐさま吸収される。
海棠さんは、選べと言った。童貞を捨てるか、殺されるのを待つか、それとも……自ら、死を選ぶか。童貞を捨てるのなんて簡単だ。今だって、この瞬間にだってできる。夏生じゃなきゃダメなわけじゃない。
夏生がいいだけだ。ただ……それだけ。
「ああぁああぁああ……っ!」
訳なく叫ぶと、俺はその場で回転する。小石が背中に、腕に当たる。痛い。たぶん、肘かどこかを切った気もする。
大声を上げての奇行は、変質者以外の何者でもないだろう。だけど、こうでもしなければこのときの俺は精神が保てなかったのだ。自分指針の行動を、ダメっぷりを思い起こして、いてもたってもいられなかったのだ。
「……ったく、よぉお!」
何やってんだ、俺。何考えてんだ、俺。結局答えは出てるじゃないか。馬鹿じゃねえの、馬鹿だろうが。どう考えても……阿呆すぎる。
ピタリと動きを止め、俺は自らの耳を両手で覆う。がっちりと、その瞳を閉じる。浮かぶのは、たった一人の姿。
――結局のところ、俺は……!
叫びたい衝動に駆られた俺を、突如照らしたのは暗闇に煌々と光る二つのライト。俺は慌てて起き上がり、光の方向に顔を向ける。眼を凝らしてよく見ると、深い森には似合わない大型の車がそこにはあった。
「なんだ……?」
大型の車は、そこで急停止するとバタバタと人が駆け降りてくる。
「いたぞ! ――……だ!」
動揺ゆえにたたずむ俺を、その一言が奮い起こす。
「見つけた! DDTだ!」
――また俺かよ!
「捕まえろ!」
しわがれた大声を張り上げて、車から何人かの人が降りてくる。擦れる金属音と、足音。一人、二人……、三人か? だが、詳細な人数は確かめていない。理由は簡単だ。
――振り返ったら、追いつかれる!
慌てた俺は虚空を切るように腕を回転させ、とにかくその場から走り出す。
――なんだよ、あいつら!
声からして、間違いなく男だ。自分で言うのは嫌だが、俺はDDTだぞ? いつアウトブレイクするかわからない、レベル4なんだぞ? 俺がレベル5になったが最後、周りにいる男どもは全員DDTになるっていわれてんだぞ? 嫌だけど。本当は自分で、こんなこと絶対認めたくないんだけど! つまり、今の俺は世界中すべての男に、忌み嫌われる存在だと言ってもいいくらいなんだ。
――わかってんのか、あいつら?
だけど、後ろから追いかけてくる奴らには、迷いも惑いもなかった。ただ俺が逃げるのをひたすら追ってきている。幸いといえば、後ろの奴らの足があまり速くないことくらいだ。とはいえ、運動神経の芳しくない俺が、奴らをまけるわけもないんだけど。
――なんだろう、とてつもなくヤバい……感じがする。
背後からひしひしと感じる圧迫感に、俺は小さく身震いする。本能が、ヤバいと警鐘を鳴らしている。ヤバい奴らなんてごまんといる。ことにDDTに関しては、海棠さん然り、教授然り、だけど……! そんなレベルを遥かに超えて、とにかく俺の命が危険だと、全身がわなないているのだ。自慢できることでも決してないけど、昔から逃走に対する勘だけは異様にいいのだ。ここぞというときの勘だけは――まあ、敗北時の逃走に関してだけだけど、誰にも引けをとらないって豪語できる。
――だから今回はマジで……ヤバい!
こうなったら、夏生のいる実験施設に戻るしか道はない。夏生を危険にさらすのは嫌だったけど、木しかないこんな森の中、隠れたところで見つかったが最後、撃ち殺されるのは間違いなかった。ちらっとふり返ったとき見えた、奴らの人差し指。それは、きっちりトリガーに位置していたのだ。
だけど、ここがどこかもわからない。やみくもに走り出してきた罰なのか。夏生を傷つけた俺への戒めなのか。だけど、このままじゃ間違いなく体力尽きて殺られてしまう。
――どうすりゃいいんだよ……!
頭をかきむしる。呼吸をするのも苦しいくらいに息が荒い。考えてみれば、ここ数年まともに走ったことなんてないんだ。それが、今日になっていきなり全力疾走。
――このまま、捕まるのか……。
覚悟した、瞬間だった。
「……っ!」
俺を襲ったのは、森中に響き渡るような大音量。
「なんだよ、これ……っ!」
大音量に続いて、俺を襲ったのは右足の激痛。
――どうしてこんなときに!
思いきりつった。完全にイッた。足をつることに慣れている俺でも、一歩も歩き出せないくらいの痛みに、俺は思わずその場でうずくまる。
「……ってぇ……」
左手で耳を押さえ、右手で足をさする。それでも、いまだに首輪からはビイィーッと音が鳴り続けているし、足の痙攣もやみそうにない。暗い森の中に鳴り響く、これはもはやサイレンを超えている。
だが、追ってきたやつらはそんなこと気に留めることなく俺に近づいてくる。
「逃げ……なきゃ……」
気力で上半身は起こすことができても、下半身はいうことを利かない。右側の感覚は戻ってこない。
――ここで俺、死ぬってことか……?
恐怖に耐えかねて、俺はぎゅっと目をつぶる。
「お……き、て……サい!」
理解不能な言葉を叫んで、何者かが俺の腕を引っ張り上げる。急につかまれた腕に、びっくりして目を開けた俺が見たのは、大型バイクに颯爽とまたがる一人の女。そのバイクの形状は、誰しも一度は憧れるハーレーダビッドソン。
なのに、なのに……!
「吹き矢……?」
金髪セミロングの髪をなびかせながら、その女が手にしていたのは、間違いなく吹き矢だった。飾りも何もない細長い筒を、無心にくわえているのが何よりの証拠。
そしてその針は、どうやら俺を追いかけてきた奴らに命中したらしい。向こう三メートル先、三人の男がばったりと倒れている。
「助かっ、た……?」
あまりの急展開に、完全においてきぼりをくらった俺は、茫然とその場で立ちすくむ。驚きが二乗したせいなのか、右足の痙攣はやんでいた。
「……こち……です」
鳴り響くブザーの中、女は手にした筒で先を示す。
「え? 日本語?」
聞き返したが、女は一言も答えない。
――でも、ついて来いってことだよな……。
女はハーレーをゆっくりと走行させながら、俺の前を先導する。せっかく後部座席もあるんだし、乗せてくれればいいのにと思わないでもないけれど、ヤバそうな奴には近寄らない方が身のためだ。もちろん、安易についていくのは危険な気がしたけれど、だからといって逃げられるものでもたぶんない。だいたい、俺は徒歩なのに対し、相手はバイクを持っているのだ。逃げ出したところで捕まるか、もしくは轢き殺されるのがオチだろう。
――それにしても、何者なんだ?
暗闇の中でもはっきりとわかるくらい、女の髪は鮮やかなブロンドだった。イメージ先行で言わせてもらえば、金髪、碧眼。ただし、虹彩の色は分厚いゴーグルに阻まれて、残念ながら拝むことはできないのだが。
「……らで、ぃい……シょう」
突如女が立ち止まったとき、首元のブザーがピタリと止んだ。
「あれ……?」
思わず首元を見てしまう。そして、自分の視界には決して入らない金属の首輪を両手でさする。
「音が、止んだ……?」
「は、ィ。こ……くれば、……じょうぶ、で……す」
そして、女はゆっくりとハーレーから降りる。ふり返る。
「そうなんだ。ありがとうござ……」
片言の日本語に感謝して、焦点を合わせた俺が見たのは衝撃。
「……い……っ」
綺麗な外人さんだと思っていた女が装着していたものは、顔を半ば覆う巨大ゴーグルにN95マスク。夏、しかも夜だというのに着ている衣服は長袖手袋長ズボン。バイク乗車上の安全対策だとか、紫外線対策とか軽く通り越した完全防備。
思わず俺が一歩あとずさると、カッと目を見開いて女は俺の肩を鷲掴む。
「ちょ、ちょっとだけ……おおおおおお!」
叫びだした! マジで怖い!
「お話うぉう!」
「は、話……ですか……?」
俺は完全に腰が引けていた。
「どぅしても、お、おお話を聞ぃて頂たくて……!」
あわあわしている。目が完全に泳いでいる。なんなんだ、この挙動不審な女。
「すいませんすいません。だから、涼平君には言わないでええ! 私が涼平君を襲ったなんてこと、ホント言わないでくださいぃぃぃ! お願いしますからああああ!」
「……は?」
――涼兄?
「あ、あの……もうちょっと落ち着いてもらえませんか? さっきから、わけがわかんないんですけど」
「わ、けわかんないですか? ごめんなさいごめんなさい。本当にごめんなさいぃぃぃぃ。わたし……っ、本当に人見知りでぇぇ」
人見知りとかいうレベルじゃないだろ。
「あ、ぁの……これ、被っていぃです……か? これ、被れば落ち着くんで……」
――被って?
そう言って、女が取り出したのはガスマスク。
「…………」
「お、ねがぃ……」
「……ガスマスク?」
指差す俺に、こくりと女。
「……あーっ!」
思わず声を張り上げていた。
「あんた、あのときの!」
「気づぃて、なかった……ですか?」
不安そうに、ガスマスクは俺を上目遣いで見上げた。だが、その手にはしっかりとガスマスクが握られている。
「……は、はい。まったく気づいていませんでした」
ガスマスクの印象が強すぎて、それ以外何も思い出せない。というか、ガスマスクの下なんて全く知らないんだから、俺が思い出せるはずもない。
「で、これ……」
そう言って、女は再度俺に対し、ぐいとガスマスクを近づけた。
ガスマスクって……ここで? 一応ここ、公共の場所だよね? いや、大学だってそうなんだけど。なんていうか、大学って変態が許されちゃう場所じゃん? あくまでここ、そうじゃないよね? 誰もいないけど。今のところ、人っ子一人いないけど!
「…………」
思わず周囲を見渡してしまった。
「これ、被らないと……ふつ、うに話せ、なくて……」
俺に注がれる、潤んだような瞳。なんかもう、嫌といえる雰囲気じゃなかった。
「……どうぞ」
俺は、視線を逸らしつつそっと手で促す。
まあ、大丈夫だろ。周りに人いないし。こんなシーン見られでもしたら、それこそ最低だけどな。
「どうもご迷惑をおかけしました」
数十秒後、爽やかな声と共にガスマスクがくるりと俺に振り向いた。
「やはり、これをすると落ち着きますね」
「…………」
こっちは落ち着かねえよ。
にっこり笑っている(であろう)ガスマスクに対し、俺は思わず肩をずるりと落としてしまった。なにこの流暢さ。さっきまでの人物と同一人物とは、到底考えられないんですけど。
いや、怪しさから考えれば、同等かそれ以上だけどな。
辺りを見回せば、森の中でガスマスク。ヤバイ、なんかこの光景、シュールすぎるわ。
「DDTもいかがですか?」
「いかがですかって……」
ガスマスクが奥の鞄から何かを取り出そうとした腕を、俺はそっと差し止めた。
「いえ、間に合ってますんで」
「そうですか?」
きょとんとした声を出して、ガスマスクは首を傾げてみせる。どうしよう、マジでシュールすぎる。
「……で、話を戻しますけど、あなた何しにきたんですか? さっき、涼兄を襲ったとか何とか言ってましたけど」
俺が言って一息ついて、ごくりと息を飲み込んだガスマスクは俺の両肩をがっしりわしづかむと「うああぁああああぁああ!」と叫びながらに、俺をゆする。
しかも全力。やめろ。マジ、気持ち悪くなる。
「ちょ、と……っ」
制止しようとする、俺の声も届かない。
「な、なんでそれを! なんで知ってるんですか? なんで私が涼平君の寝込みを襲ってやっちゃったこと、なんで知ってるんですかぁ!」
「……は?」
俺の反応に驚いたのか、ガスマスクはいったん俺を揺さぶるのを中止した。俺はぜえはあぜえはあと大きく深呼吸を何度かして、ぐらぐらに揺れてる思考を何とか立て直す。
「知りませんけど」
むしろそんなの初耳だ。
「だって今、言ったでしょう!」
「涼兄とあんたがやったって?」
「う……わあああ! 言わないでください。それだけは涼平君には言わないでください!」
耳がある(と思われる場所)を両手で塞ぎ、ガスマスクはその場でうずくまる。
「お願いですから、言わないでくださひぃぃぃ!」
「…………」
いや、言ったのあんただから。
「つーかそれ、マジ?」
俺が問いかけると、ガスマスクはわずかに顔を上げる。
「……なにがですか?」
「やったっていうの」
「…………」
「……?」
「……はぃ……」
虫の音より小さな声でうなずき、女はガスマスクで覆われた顔面をそれは必死で押さえている。はっきりいって意味ないけど。
「でも、よくのあの涼平と……」
「抜け駆けした私が悪いんです。でも、あんな誘惑が、媚薬が……そこら辺に落ちてたら、どうにかなってしまうのが真情ってものでしょう!」
両手で顔面を押さえながら、うずくまったままのヘッドバンギング。見てるこっちの方がマジ怖い。
「私なんてどうせ、都会の野獣なんです。売女なんです!」
「…………」
叫ぶガスマスクを、俺は目下冷静に見ていた。
……そう、だろうか。たぶん、違うと思う。ガスマスクは異様なほど涼兄を神聖視している。だけど、残念ながらガスマスクが思っているほど、涼兄は女子にモテはしない。
なぜなら、重度のキモオタだからだ。
顔はいい、それは認める。ただし、その顔が見えれば、だけど。
長く伸び過ぎた前髪は、その目を他者にさらすことを許さない。まあ、目が見えていない以上、仕方ないといえば仕方ないかもしれないが、基本、人と目を合わせられない。それに加えて、涼兄の趣味はエロゲー製作と攻略だし。自室で一週間誰とも会わずに過ごしても平然と、むしろ恍惚としてるような男なんだ。モテレベルにおいてはどうみたって最低、いや、それ以下だろうが。痴漢、誘拐、監禁は日常茶飯事でも、あいつを好きになるような人間はいなかったはずなんだけどな。
……夏生以外は。
「そんなこと……ないと思いますけど。たぶん」
小声で俺がそう言うと、はっとしたようにガスマスクはヘッドバンギングを中断した。
こいつが変態というカテゴリーに含まれる以上、涼兄を好きになるのは致し方ない、そんな気がしたけど、あえてそこは言わないでおく。
「あの、涼兄の話はもういいんで。で、あなた何しに来たんですか?」
「絶対いいませんよね?」
「言いませんよ」
言ったところでどうしろと。
「絶対絶対言わないでくださいよ?」
「あー、はいはい。絶対言いませんって」
言ったところで虚しくなるだけだしな。
「少しでも漏らそうものなら……」
そう言って、ガスマスクは置いてあった吹き矢の筒を手に取った。
「か、覚悟は……」
「だから、言わないってんでしょうが!」
瞬時に俺は叫ぶと、さっと吹き矢を取り上げた。
「あ、そ、そうでしたね。すいません。私、涼平君のこととなると、どうも周りが見えなくなるみたいで。このせいで、何人屠りそうになったことか……」
何気に怖いこと言い出したよ。
「本当にもうこの話はどうでもいいんで。さっきの人たちって、いったい何者なんですか? 知り合い?」
「いえ。組織としては知っていますが、それ以上は」
冷静さを取り戻して、ガスマスクが答える。
「組織って? なんか、銃とか持ってましたよね?」
「ええ。彼らは軍ですから」
さらりと飛び出してきた軍という言葉に、思わず俺はかたずをのむ。
「軍って……自衛隊ってことですか? そんなところまで関連……」
「いえ、彼らは自衛隊ではありません」
「でも、さっき軍って……。それにあの人たち、日本語喋ってたから日本人でしょ?」
「彼らは、大日本帝国軍の軍人なのです」
予想だにしなかった言葉に、俺はあんぐりと口をあける。
「……は? ちょっと待ってくださいよ? 大日本帝国って……世界大戦とか、教科書で出てきた、あれ?」
こめかみを押さえて記憶を手繰る俺に、ガスマスクの返答は無情だった。
「あれです」
「は? え? ちょっと、わけわかんないんですけど。今って平成ですよね?」
「当り前です」
「で、なんでそこで大日本帝国とか……。あ、わかった。右翼とかネオナチとか、そんな感じですよね?」
「違います」
きっぱりと答えるガスマスクを、不審げな眼差しで俺は見る。
「DDT、気づきませんでしたか? 彼らの年齢」
「年齢って……」
ハッキリ言えば、顔なんて見る余裕はなかった。多少しわがれた声かな、と思ったくらいで。そういえば、軍に入っている男の割に足が随分と遅いような気がしたけど。
「お年寄りだったでしょう?」
「……え?」
「彼らは、第二次世界大戦以降も、ずっと戦い続けている軍なのです」
――だから、か。
すべてが合致する。カチリとはまる。第二次世界大戦で徴収されたということは、若く見積もっても八十半ば。
「ということは……」
ふと、思い出す。吹き矢によって倒された彼らが、その人たちだとすれば。
「おまえさっき、何したあ!」
反射的に思わず叫ぶ。
「何って……。少々の間、薬で眠ってもらっただけですよ」
「少々って! 一体いつ、目覚めるんだよ!」
「まあ、ほんの数時間……ほんの数日……ほんの……」
「それ以上言うなあ!」
宙を仰ぐようなガスマスクの返答に、俺は即座に耳をふさぐ。ばったりと倒れた老人たち。しかも深い森の中。
「あのまま目覚めなかったらどうするんだよ!」
「それは大丈夫ですよ。いずれ彼らの仲間が回収しに来てくれるでしょうし」
「今、回収って言った! 回収って言っただろ!」
指をさして避難する俺に対し、ガスマスクの表情はやはり読めない。
「たぶん老衰ですって」
「完全死んだことにするなあ!」
さわやかに言い切るガスマスクを、思わず殴りとばしそうになってしまった。作りかけた俺の拳を、戒めるようにガスマスクは手首を握り、冷ややかな声で俺に問う。
「じゃあ、戻りますか?」
「…………」
「ここから数百メートル先ですからね。すぐに戻れますよ? 案内して差し上げましょうか? そこに、何が待っているかなんて私は知りませんけど」
「…………」
突き刺さるような言葉言葉に、俺はぎゅっと大地を踏む。
「……どうしますか?」
「いえ……結構です」
俺はふるふると首をふる。
「だいたい……彼らは何をしに来たっていうんですか」
正論をかざされた不満も相俟って、俺は口を尖らせる。だけど、返ってきた言葉は、俺をさらに奈落の底へ。
「あなたを殺すためです」
「……え?」
思わず、耳が言葉を拒絶する。
「神の国日本にDDT、あなたのような男はいてはいけない存在。戦える、強く、逞しい男こそが日本男児のあるべき姿。いうなれば彼らにとって、あなたのような存在は恥そのものです。ひどい言い方をするようですけれどね。そんな不穏因子を生み出してしまったことを嘆き、彼らは自らの手でDDTを粛清しようとしているのです」
「……!」
「DDT抹殺には、経験豊かな精鋭たちが集まっているそうですよ。それに、彼らはとうにその時期を終えた。恋愛で足掻く時期、とでもいえばいいのでしょうか。だから、彼らにDDTへの恐怖はありません」
「そんな……」
よろめく俺を、ガスマスクが支えてくれるはずもなく。
「俺は、どうすればいいんですか? 一体、俺は……」
「そんなの、自分で考えるしかないでしょう。個人的には、教授の研究室に戻ってきていただくのが一番とは思いますけどね。DDTは早急に誰かが解明しなければならない難病です。今それができる能力と勇気があるのは、世界中で菊池教授だけでしょうから」
「モルモットになれってことですか……」
思わず、落胆の声が漏れていた。
飛び出せば殺され、研究室に行けば実験動物になるしか道はない。一番簡単なことは、海棠さんの……夏生の元に戻ることだろうけど、それは俺の理性が許さない。
「無理ですよ……そんな……いきなり、選べったって……」
夏生への思いが恋だなんてのも、ここ数年でやっと気づいた俺なんだぞ。十年越しの片想いのはずなのに、いまさら気づくような鈍感で奥手の俺なんだぞ。
「それが甘い、といっているのです」
さらに冷たい声色とともに、ずいとガスマスクが俺に詰め寄る。
「このままあなたが存在するならば、私がここで抹殺しなければならなくなる」
「あなたが……なんで? 今、助けてくれたじゃないですか」
救いを求めるように、俺はわずかに顔をあげた。
「助けたわけではありません。他の手中に渡ってはいけない、それだけです」
「なんでですか? またあの教授が絡んでるんですか?」
「いえ、今回のことに教授は全く関係ありません。私の独断的な行動です」
ゆっくりとガスマスクが首をふる。無機質なガスマスクが左右に回転する様は、不可解な悪夢を見るのと似ている。
「まあ、言ってしまってもいいでしょう。その方がことの重大さもわかる。本来は、明かすようなことではありませんが……」
「一体、なんだっていうんです……」
もったいぶった言い方に、俺は少しばかりイライラする。
「そもそも私は、あそこの研究室の人間ではありません。わかりやすくいうなれば、アメリカのスパイ、とでもいったところでしょうか。もちろん、教授は尊敬していますけどね」
「スパイって……」
そんな八十年、冷戦時代みたいなものがいまだに存在するなんて。
「古びた存在とは思いますけどね。そして私が……ほぼ最後であろうことも、自分自身認識していますけど。……まあ、これはいいでしょう。すいません、話が逸れました」
ガスマスクが、コホンと小さく咳払いを一つする。
「で、そんな人が一体何の用で……」
「DDTの日本での発症は、アメリカにとっても誤算だったということですよ。DDTの存在はわかっていても、日本で発症することはないと思っていたんです。実際、戦後何十年もそういった報告はなされなかった。それがここ数年、突如として数を増したのです」
「なんで……」
「それがわかればこちらも苦労はしません。でもまあ、日米の友好関係はこれからもそれなりに保持していきたいというのが、上からの意向でしてね。それには過去の遺物であるDDT、これは大変邪魔なんですよ」
ことの重大さに、ぞくりと俺は身震いする。
「それに、一部の急進派はこれ幸いと、DDTを手中に収めるという計画もなされているくらいですから」
くぐもったガスマスクの声は、じわりじわりと俺の脳髄を侵していく。
「でも、なんでわざわざ日本の、しかも俺なんですか……。アメリカにもDDTの一人や二人、いるんでしょう? 少なくとも、DDTを使っていたわけだし。あ、農薬のほうですよ」
「アメリカは自国で、そんな危険なことをしませんよ」
くすりと笑ってガスマスクは言う。
「DDTは諸刃の剣です。環境、才能、適応性、あらゆる偶然が重なりあって、始めてDDTのレベルは上がる。それを自国で作成するということが、どれだけのリスクかおわかりですか?」
さっぱりわからないとばかりに、俺はふるふると首をふる。
「……そうでしょうね。たとえば、核みたいなものだと考えてください。核を、実験といっても自分の国で爆発させたくはないでしょう? 切羽詰っていない限り、大概が海の真ん中など自国から危険の少ないところでやるものです。DDTもそれと同じ。自国でアウトブレイクされてはたまらない。それこそ、核以上に……何が起こるかなんてわからないのですから」
ゾクリと、このときばかりはDDTの重さを知る。いうなればただの童貞に、核と同様の力がある。三十過ぎたら妖精になれるっていう都市伝説なら聞いたことあるけど……。
それよりはるかに、重い話。
「ということは、アメリカではDDTが出ていないってことですか?」
「そんなはずありません。もちろん出ていますよ。それこそ万単位で。実際のところ、その数は日本より圧倒的に多い」
「なのに、どうやって……」
始末をしているのですか、と聞きそうになり俺は思わず口をつぐむ。ガス室とか拷問部屋とか、ふと脳裏によぎるのはそんな不吉なものばかり。
「アメリカではレベル2以上のDDTは全員、合法的に殺していますから」
さらりと述べたガスマスクに対し、俺は思わず顔をしかめる。
「合法って……?」
「わかりませんか?」
くすりと。くぐもった声で。
「……戦争ですよ」
小さく呟くと、わずかにガスマスクの顔が右へと逸れる。瞬間垣間見えた、ガスマスクの小さな動揺。その瞳は見えないが、きっと俺から視線を外した。
「大量の人間を暗殺することは不可能ですが、合法的に殺すことなら可能です。アメリカ政府がね、世界大戦以後、戦争を止められない理由はそれなんです。DDTの……完全抹殺。レベル2以上を前線へと送り出し、確実に殺す。もしくは、事故死に見せかける。戦争は人が死ぬ場所ですからね、死んでも誰も疑いません。悲惨な戦争だった、というだけです。それにね、DDTは戦場となった地域で随分と評判がいいんですよ。女性を襲いませんから。だからあえて、軍も激しいところにDDTを送るんでしょう。いわゆるアメリカのイメージアップというやつです。戦争はしても、紳士的な国アメリカ、という。完全に自家撞着だと私は思いますけどね」
「…………」
ガスマスクは淡々と語るが、俺はそれを安直には飲み込めない。
「DDTが大量発生したベトナム戦争のころは、本当にひどかったらしいですよ。必要のないゲリラ戦をあえて繰り返したそうですし……それでも、あのころはまだよかったみたいです。一応ね、戦って死ねたのですから。最近は敵国も弱体化が進みましてね。簡単には大量に死者が出ないんですよ。だから、わざわざ被害が多くなりそうなルートを通るように指示したり、ひどいときには仲間に殺させたり……」
「もう……いいです」
俺の声に、ガスマスクは話を止める。逸らした顔を元に戻して、俺の視界の中心に据える。
「そうですか。では、さっさと戻りましょう」
「戻るって……どこへ?」
ガスマスクはまっすぐに、俺の首元を指差した。
「もちろん、あなたが逃げ出してきた場所に、ですよ。あそこにあなたを待っている人がいます」
「…………」
俺は思わず目を逸らす。口をつぐむ。
――夏生……か?
でも夏生は、もう俺を待ってはいないかもしれない。どうでもいいと思っているのかもしれない。それを、今確かめるのは怖すぎる。
「本当はここで問題の種は消してしまいたいんですけどね。連れてくると約束したんです。早く乗ってください」
「約束って……夏生と、ですか?」
ガスマスクは答えない。だけどそれは、夏生が俺を待っていてくれている、という解釈でいいのだろうか。
――そうかもしれなくても……。
それでも俺は、二の足を踏む。
「……早く。時間がありません」
言うなりガスマスクは、颯爽とハーレーにまたがってしまった。促すガスマスクに、俺は思わず躊躇する。別に、ガスマスクとタンデムすることに途惑ったわけではもちろんなくて。
「大丈夫ですよ。ほら、ゴム手袋。私の体には、あまり触らないでくださいね」
差し出された、それは分厚いゴム手袋。ガスマスクは空気の読めないタイプだった。それはまあ、わかってはいたことだが。
「だから……。そういうことじゃなくてですね……」
ためらうとすれば、夏生の傍にもう一度戻ることが許されているかどうか、ということ。
「まだわかっていないんですか」
「え……?」
厳しい声色に、俺は思わず顔を上げる。
「DDTの価値と危険性が。考えてもごらんなさい。DDTを手中に収めることができれば、それこそ戦争などすることなく簡単に敵国を全滅させることができる。……そう、言ったでしょう?」
「…………」
わかっている。だけど、それがなんだというんだ。
「そして、そのDDTがあなたなんです。そして、狙われているのはもはやあなただけではない。……パンツ娘も、ですよ」
「パンツ娘……?」
「一緒に研究室に来ていたでしょう。思いっきりパンツを見せたまま転がされていた娘」
「……夏生!?」
思わず、ガスマスクの胸元を掴んでいた。
「どうして夏生が? なんで夏生が狙われる?」
夏生をパンツ娘と呼ぶこととか、あのときの夏生のパンツの柄だとか、気になることは多々あるけれど。そんなこと、今は本気でどうでもよくて。
「……俺だけじゃないのかよ!」
「だから甘い、といっているのです」
焦った俺に対し、ガスマスクの反応は冷ややかだった。いつだってその表情は冷ややかではあるけれど、それ以上に、俺を見放したような声色。
「パンツ娘がDDTの幼なじみということは、すでに関係者の仲では常識です。そして、DDTが彼女を特別な存在として認識していることも」
「な……っ」
思い切り図星をつかれて、俺は思わず言葉をなくす。
「パンツ娘が政府の関係者、ということもわかってはいますけどね。もはやそんなこと、どうだっていいのです。事態はすでに最終段階に突入しています」
「どういうことだよ……」
「もし私が、であればですが」
一呼吸置いて、ひゅうとガスマスクが息を吸う。
「間違いなく、彼女を狙う」
「……っ」
「結論は簡単です。おそらく、今DDTを失わせる存在があるとすれば、おそらくパンツ娘だけ。彼女を亡き者にすれば、そのときDDTは完成します。そして、彼女を失い、絶望したDDTを操ることなど赤子の首をひねるも同然……」
ガスマスクが話し終えるより早く、俺はふたたびその胸倉に掴みかかっていた。
「乗せていってくれ!」
「やっと理解していただけたようですね」
「早く! 夏生のところへ!」
俺はゴム手袋をつけさせられると、促されるままにハーレーに二人乗りする。
「……とばしますよ? あまり引っついて欲しくはありませんが、吹き飛ばされない程度になら耐えましょう」
「……わかったよ」
相変わらず扱いは虫ケラ以下。まあ、別に気にもしないけど。
できる限り腰は掴まない方向でいこうと思ったが、如何せんそれは無理な話だった。なぜならガスマスクは、海棠さん以上のスピード狂だったのだ。