狼少女 4
一人きりの部屋は、平穏そのものだった。
夏生に言ったとおり一番奥の部屋へと入ると、俺はそのままベッドの中へと倒れこむ。
「っとに……それはないだろ……」
無意識に出ていた声が、部屋に反響する。そして、後悔を示すようにベッドのスプリングが軋む。うつ伏せに倒れこんだ体をぐるりと反転し、俺は天井を見つめた。
「……わけわかんねえ」
ぼそりと一人呟きながら、俺は自らの手で顔を覆った。簡易的な暗闇が俺の目の前に訪れる。指の隙間から、蛍光灯の明かりが漏れる。目をつぶろうかとも思ったけれど、まだ暗闇に耐えられるだけの自信がなかった。それゆえの、手動消灯。
ここに俺をカンヅメにする予定は最初から立ててあったのだろう。部屋の古さと反比例して、ベッドにかけられたカバーなどは新品そのものだった。それに、掃除も隈なく行き届いている。
両手で目をおおい、仰向けになったまま、俺はただ深呼吸を繰り返す。すうはあ、すうはあ、と意識的な呼吸音。階下から聞こえていたテレビの音も、俺が上がってしばらくして消えてしまった。きっと夏生が消したのだろう。
――眠れば、いったんは忘れられるよな……。
覚悟を決して、俺はぎゅっと目をつぶる。その瞬間、頭の中ですべてのできごとが一気に氾濫する。
「眠れねえ!」
俺って意外とセンシティブ☆ とか、言ってる場合じゃないんだけど。
強姦にはあいそうになるわ、誘拐はされるわ、監禁されるわという、およそ日常には起こらない出来事が頻発した二日間だというのに、昨日涼兄の部屋で熟睡してしまったせいか、どれだけ努力してもちっとも眠気が襲ってこない。反比例するように、ますます目が冴えるばかりだ。
いつもだったら、眠る気がなくても気づいたら眠ってるっていうのに。最後の最後で、意外と気の小さい自分に、やっぱり俺は自己嫌悪する。
「でもなあ……」
目をつぶっても眠れそうになかったので、いったん目を開けた俺はふたたび天井を凝視する。
――いったい、どれが正解なんだ?
海棠さんのいうDDT、菊池教授が興味を示すDDT。そして、夏生の知るDDT。
――俺はいったい、何を選ぶべきなんだ?
海棠さんとヤる? おとなしく、菊池教授のモルモットになる? いや、それは個人的に嫌だな。それとも……。
――夏生と、ヤる?
慌てて、俺はふるふると大きく首を振る。そんな選択肢はあってないようなものだ。そもそも、それを俺が望んだところで夏生が承諾するはずもない。いくら夏生が海棠さんの部下だからといって、そんなことにまで従う義務はないはずだ。
「馬鹿だなあ、俺……」
遠く聞こえてきた水音に、夏生の入浴シーンを思わず想像してしまった自分自身が情けない。覗きなんてできるはずがない。せいぜい妄想。これが俺の最大限。
――こんなんだからダメなのか……?
二人っきりだぞ? 誰も邪魔はいないんだぞ?
ここだったら――……涼兄にだって、届かない。
ドクリと一瞬、心臓があぶる。無茶をすることが可能な環境、というのは自分だってわかっている。あくまで極秘、ここで起こったことは誰にもバラされることはない。俺が死んでも。俺が殺されても。
――あるいは、俺が何を……やろうとも。
ただ、問題はそこで何を失うかだ。
「あー……ムリムリ。ぜってー無理」
照れ隠しを含めた不気味なから笑いが一人きり、部屋に響いた――そのときだった。
俺の一人笑いをかき消すように、部屋に響いたのはギィと扉の開く音。
「あれ、夏生?」
俺は慌てて上体を起こすと、扉の前でたたずむ夏生の姿を見る。
「おまえ、どうしてここへ……」
「そこから動かないで」
キッパリと、夏生は言った。
背後の扉が、自動的に閉まっていく。さっきまで笑っていた俺の口元が、無意識のうちに半開きになる。ガチャリと。完全に扉が閉まって。そして俺は……六畳一間の簡素な部屋に、夏生と二人きり。しばらく夏生を凝視したまま、声すら出せずにその場で凍る。
扉の前にたたずむ夏生は、かわいいピンクのパジャマを着ていた。風呂上りで乾かしきれていない濡れた髪に、ほんのりピンクに上気した頬。
思わず、ごくりと大きく息を呑む。荒くなりかけた呼吸を、俺は深呼吸することで無理やり納める。無意識のうちに、右手は自身の脈を測っていた。……速い。わずかに触れるだけで十分にわかる、あぶるような鼓動。
――なんなんだよ、この展開……。
目の前の夏生は、いつも見るTシャツに短パンやジャージといった寝姿ではなく、拝んだこともないようなピンクのパジャマ。いや、あれはキャミソールとでも言うべきなのだろうか。服飾関連の語彙が極端に少ない俺にとってはなんと言い表すのが適当なのかよくわからないか、とにかくそう、扇情的な衣服――を、夏生が身に纏っているのは確かだ。
「……どうして……」
ここへ。そんな格好で。
続くセリフはいくらでもあるはずなのに、全てをこの空間が圧殺する。
「何も言わないで」
夏生の一言で、俺は微動すら許されなくなる。ぺたぺたと、引きずるような足音を響かせながら、夏生が一歩一歩、俺の傍へと近づいてくる。俺の傍……俺の今いる、ベッドの傍まで。
「慧ちゃん……」
呟くように声を漏らしながら、夏生がゆっくりと俺の頬へ手を伸ばす。冷たい指先が、俺の肌をなぞる。ゾクリと、空間を揺らがせるような変な電流が俺の体内を駆け巡る。
「どうして……」
ぽつりぽつりと、零すように夏生は。
「子供のままではいられないんだろうね」
静かな部屋に、声を落とす。
「慧ちゃん……どうして」
ギイとベッドのスプリングを軋ませて、夏生が俺と同じ場所へと上がる。夏生との距離、わずか数センチ。そんな夏生の大きな目が、俺の全身を映す。
「あのまま流されてくれなかったの?」
噛み締めるように、悔いるように。呟いた夏生はそのまま俯く。
夏生の表情は知れない。セミロングの髪が、顔を完全に隠してしまっているからだ。それでも、笑顔でないことは確か。ベッドの上で握りこまれた拳も、小さな両肩も震えている。
首元で左右に分かれた髪からすける、真っ白なうなじ。それに続く狭い肩幅。夏生がこんなに小さかったかと……改めて、思う。そういえば、夏生をこんなにまじまじと見たのは随分と久しぶりな気がする。
「慧ちゃん、ああいうの好きでしょう? 渋った海棠さんを無理やり説得してまで、作戦を立てたんだよ。何がいけなかったのかな? タイミングかな? ただ単に、海棠さんが趣味じゃなかったのかな? ……ううん、違うよね。選べるような立場じゃないもんね」
何気にひどいことを言っている。
「私、何を間違えちゃったのかな? 慧ちゃんの……何を理解していなかったのかな?」
全部だよ、と言いたかったけど止めておく。
どこが理解してるっていうんだよ、どこが合ってたっていうんだよ。本当に理解してるなら……おまえが来いよ。
なんていえる勇気など、俺が持ち合わせているはずもなく。俯いたまま、ただ肩を震わせる夏生を抱きしめる勇気もやっぱり今の俺にはなくて。
本当に俺が、どうしようもないって事に気づいてしまう。
「もういいじゃん、諦めちゃいなよ。減るもんじゃないんだしさ、もう……終わりにしようよ。そのために私はここに、来たんだよ」
いきなり顔を上げた夏生が、全体重をかけて俺を押し倒す。瞬時にぼふりと、枕の上に後頭部が重なる。完全にふいをつかれた俺は、夏生に押されるまま仰向けになってしまった。
「……それで、いいよね?」
見上げた夏生の目には、うっすらと涙がたまっていた。大きく何秒か目を開けて、瞬きすれば間違いなくこぼれだしそうなほど、涙は完全に虹彩を覆っている。
――いいわけがない、けど。
何度夢に見ただろう。いや、夢よりもっとリアルな妄想だ。それが今現実に、生身の夏生として俺の腹上にある。
眩暈が、しそうだ。
がっちりと押さえ込まれた両肩、腹の上に完全に全体重を乗せられているせいで、逃れられない。ううん、逃げられないんじゃない、この場所から、離れたくないだけだ。
「……大丈夫、だよ。怖いことなんて、何もない……よ」
真っ赤な顔をして、夏生が俺を見つめている。恥らうように、泳ぐ瞳。
力なく垂らしていた俺の右腕、その手首を夏生はつかむと、自らの胸元へと持ち上げる。抵抗することなどでできるわけなく、するはずもなく、俺の右掌は、そのまま夏生の左胸に収まる。
「知ってた? 胸って、左胸のほうが大きい女の人が多いんだって。右利きの人のほうが多いせいなんだろうね」
そんなマメ知識どこで手に入れた。
「……そんなの、どうでもいいか」
照れ隠しに、夏生は笑う。
一方、俺は俺で自らの右手を見つめたまま、そこから目を逸らすことができない。伝わる感触。噂に聞くより、弾力がありそうだ。こんなことはすぐにでも止めさせるべきなんだ。わかっていても、若干握った状態から動こうとしない、自らの指先が憎い。
「どうしたの? 慧ちゃん」
そう言って、夏生は俺の手を自らの胸に押し当てた。ぎゅ、と、胸に俺の指先が触れるたび、真っ赤になった夏生が顔を歪めている。わずかに吐息が口から漏れる。
できるかよ……! こんな顔、させておいて。
「もっとしっかり、触っていいんだよ?」
そういった夏生の指先は、熱く、それでも震えていた。
「……ね?」
わずかに笑った顔はいつもの夏生の笑顔じゃなかったから。
「無理すんな」
「え……」
全身が、ぞくぞくしている。火照っている。このまま、押し倒して、キスをして、俺ができる限り夏生をむちゃくちゃにしてしまいたい……そんな衝動を、理性で、押さえ込む。
理性か本能か、そんなの俺の知ったところじゃないけれど。俺にとってはそのどちらも、実際のところあまり大きく変わらない。悪いが、ヘタレの童貞なんて、どいつもみんなそんなもんだ。唯一何か起こせるとすれば、たぶん勢いとタイミング、それくらい。
「……なん、で?」
大きく目を見開いて、夏生が俺に問いかける。たまっていた涙が、目からポロリと零れ落ちる。
「私はもう、誰にも死んで欲しくないんだよ」
理性と本能の間で揺らぐ俺を、このひとことが一瞬で現実に押し返す。
夏生の、最大の理由はそれだ。だから俺とやる。だから、こんな俺とでもやってくれる。俺のDDTが進行しないために、俺が死なないために……自分が、犠牲になるというのだ。
このまま流されることが、たぶん本望。
――だけど、それじゃ本当にダメだろ。
夏生のこの行動は、どうみても自分の意志じゃない。いや、仮に意志だとしても、相手が俺である理由はない。それはもちろん涼兄でもいいわけで、もしかしたら、死んだお兄さんでもいいかもしれないわけで……。
過去のトラウマ。残酷な優しさ。ただ、それだけが夏生を突き動かしているに違いないんだ。
「俺のために、夏生が犠牲になることなんてない」
小さく呟いて、俺は夏生の体を押し返す。
夏生を傷つけたくなんてない。
――いや……違うな。
俺はたぶん、怖いんだ。俺のせいで犠牲になって、傷ついた夏生を見て……結局のところ、自分が傷つくのが。自分のせいになるのが、怖くてたまらないんだ。
「……ごめん」
最悪だ。俺、最低。女の子の、それも好きな女の子の誘いを、こんな言葉で断るしかできないなんて。
絶望に彩られた夏生が、じっと俺を見つめている。わずかに口元を開けたまま、何も言おうとしない。ただ、大きな目からぼろぼろと涙をこぼして、俺の顔を見続けている。そんな夏生の表情に居た堪れなくなって、俺はふいに視線を逸らした。
本当なら、最初から簡単にこうできたんだ。こうするべきだったんだ。だけど、しなかったのは俺のわがまま。一秒でも一瞬でも、もう少し、このままでいたかった。夏生にそれを、許して欲しかった。たとえそれが、同情に過ぎなかったとしても。
「ごめん、無理だ」
小さく呟いて、俺は夏生を避けるようにしてベッドから降りる。
「俺は夏生が……」
好きだから。
だけど、俺の声帯はそこまで声を発することなく。そのまま、何も言わずに部屋から逃げた。