美女と幼なじみ
これは夢だ。
過去にさかのぼること十数年、三十秒以上話したことのある女子が幼なじみと母親と高二の担任(五十六歳・独身)だけの俺の人生経験から考えて、これは間違いなく夢なんだ。
築三十年のおんぼろアパート。見慣れた天井。いつもの汚い俺の部屋。
「夢……だよな?」
そして、夢に夢と問いかけてしまう阿呆な俺。
いつも通り。いつもの現実通り。
「そう思いたければ、そう思うがいいさ」
違うとすればたった一点。俺に馬乗りになった、超絶綺麗なお姉さん。そしてそのお姉さんは、俺の質問ににやりと笑ってこう答えた。
――間違いない。夢。これは夢なんだ……!
だって、あるはずがないじゃないか! 話はおろか、女子になんて近づいたことだってありゃしないんだ。それなのに、たった今部屋に入ってきたお姉さんにいきなり押し倒される展開なんて。
寝転がった俺の視界いっぱいにのぞくのは、目算きっかりFカップ。鮮やかなショートカットに、意志の強そうな大きな瞳。誰がどう見たところで、完全無欠。レベルは極上。そんなお姉さんとはねじれの位置に存在する俺が、どうにかなるなんて、それこそ都合のよすぎる夢に違いない。
――ならこれも、アリだよな……。
ちらりと幼なじみの夏生の顔が俺の脳裏をよぎったけれど、それを俺はあえて無視する。だって、こんなおいしい機会、人生に二度もあるはずない。
お姉さんの細くて白い指先が、ゆっくりと俺の頸動脈を伝った瞬間、無情にも玄関のチャイムが鳴る。ピンポーン、と。安っぽい昭和の呼び出し音。
「誰だ……?」
あいにくうちに、ドアホンなんて文明の機器はない。反射的に起き上がろうとした俺の体を、お姉さんが押さえつける。
「無視しろ。時間がない」
「だけど……」
そういえば、一時間ほど前に夏生から桃を持ってくるというメールが入っていたのだ。その時はあまりにも眠たかったから、メールを返していなかったけど。
「ちょっと、慧ちゃん! いるのはわかってるんだからね!」
どんどんと、扉をたたく音に加えて叫び声。その声は、まぎれもなく夏生そのもの。
――どういう、ことなんだ?
ふいにリンクした虚構と現実。扉の向こうにいる夏生は間違いなく現実で、目の前のお姉さんがたぶん夢。……そんなこと、本当にあるのか?
「気にするな」
冷たい声で、お姉さんが言い放つ。
だけどそれは、どう考えても完全完璧無理な話。
「これ、夢ですよね……?」
「どう思おうが勝手だが、これは現実だ」
その一言に、俺は再び現実を、たった五分前に起こった現実を思い出す。
玄関先に現れた、見ず知らずのお姉さん。黒いスーツにハイヒール。そしてそのお姉さんは、いきなり俺の名前を呼びつける。
「杉並慧太だな」
「は、はあ……」
首を縦にふるより早く、細い指先でぐいと持ち上げられた俺の顔。否応なく、俺はお姉さんと視線を交わす。
「そうだな。間違いない」
俺の顔を一瞥して、お姉さんはにやりと笑う。瞬間的に、鍵はカシャンとかけられる。狭い部屋には、俺とお姉さんの二人きり。
「こっちも時間がないからな。とっととやらせてもらう」
「は、今何て……」
お姉さんの言葉に、瞬間耳を疑った。
「やらせてもらう、と言ったんだ」
繰り返されたその言葉と、真っ直ぐに俺を見つめる真摯な瞳。その刺すような眼差しに、俺はその場で固まった。本物の恐怖を前にした時、言葉なんて意味をなさない。その時俺は、初めてそれを知ったのだ。
「悪く思うな」
冷たく響くお姉さんの声に呼応して、こめかみの横をたらりと嫌な汗が伝う。
――やる。ヤる。……殺る?
マジで俺、こんなところで殺されちゃうわけ? 冗談じゃなく、ここでジ・エンド? 何にもおいしいとこがないまま、これですべてが終わりってか。平凡そのもの、あえて言うなら幸福率を二割カットのわが人生……?
――なら、せめて……!
走馬灯でくらいイイ思いをさせてくれとばかりに、わけもわからないまま、俺はぎゅっと目をつぶる。すべてを視界からシャットアウトする。本当は、大声を上げてでもここから逃げるべきなのに。逃げなきゃいけないとこなのに。全身がまったく、いうことをきかない。
そしてその三十秒後、俺を襲ったのは後頭部を打ちつける鈍い音。
「いってえ!」
痛みに目を開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れたいつもの天井と、上着を脱いだせいでシャツ一枚となったお姉さんの艶姿。
「…………」
俺はあんぐりと口を開けたまま、無意識のうちにシャツから透ける輪郭を目で追っていた。
「俺、死んでない……?」
「別に、おまえを殺す気はない」
「でもさっき、やるって……」
俺の問いかけに対し、ためらうようにしてお姉さんは視線を外す。
「だから、やるといっているんだ」
「それって……」
俺の言葉を遮断するように、お姉さんは俺の口元を手のひらで押さえた。
「御託はそこまでだ。……覚悟はいいな」
尾てい骨直下型ボイスが、俺の脳髄にずきりと響く。
見ず知らずの美人なおねーさんに、ワンルームアパートで押し倒される……なんて。男なら誰しも、一度は夢見るシチュエーション。
だけど。
……だけど!
「何するんですか!」
とりあえず、言うべき言葉を、俺は言う。
「さっきから言っているだろう? それがわからないほど子供じゃあるまい」
いや、わかるよ。嫌ってほどわかりますよ? どれだけ妄想したことか……って、そうじゃなくて! ためらいもなく、女の指先が手にかけたのは俺のシャツの第二ボタン。俺のささやかな抵抗に対して、呆れるように髪をかきあげる、そのしぐさすら悩ましい。
――本当に、一体何が起こっているんだ?
自分で自分がわからない。整理できない。できるわけない。
俺の部屋。俺の上には、見ず知らずのおねーさん。しかも美人でFカップ。
……って、ちょっとまて。
こんな都合のいい現実が、あるはずなんてきっとないんだ。下手すりゃ夢だってできすぎだろう。夢でなければ、もはや病気。名づけるならば妄想病。そんな病気、あるかどうかは知らないが、そこまで俺はイッたのか。
――いや。
イきつくとこまでイっちゃえば、それはそれでいいんじゃない?
なんて、俺の理性が囁いている。
いや、違う。そんな理性があってたまるか。仮にそれが理性だったら、本能とかもうどうなっちゃうんだよ。俺は人として最低だよ。
「ひ、人違いとかじゃないんですか!」
なけなしの理性を振り絞り、とにもかくにも俺は叫ぶ。
そもそもこんな美人の知り合いはいないし、何でこんな展開になっているのかも、まったくわけがわからないし。
「人違い? まさか」
嘲笑うように、お姉さんは端正な顔をわずかに歪める。
「だって俺……じゃなくて僕、あなたに会ったことすらないですし」
「当然だ」
女はキッパリ言い放つと、上まで留めていたはずのシャツのボタンを三つ外した。目にも止まらぬ鮮やかな手つき。三という数字が放たれたと同時に、白いシャツの隙間からちらりとあれが覗くのだ。
これはマジでやばいって。これはどう見たって反則だって。
――だって、だって……!
思わずある一点を注視てしまう単純な俺に、女は優しい声色で問いかける。
「間違っていないことを証明すればいいんだな? ひとつでも違っていれば言え。考慮する」
「……は?」
「名前は杉並慧太。DDTレベル4。七月二十一日生まれの二十一歳。家族構成は父、母、兄が一人。現在M大学の二年生、担当教官の名前は長谷部康一……」
「な、なんでそんなこと……」
次々に出てくる俺のカッチリ正確なプロフィールに、思わず俺は身をこわばらせてしまう。つーか、担当教官のフルネームなんて、俺だって覚えてないっていうのに。
「証拠が必要なんだろう?」
「…………」
「他には何が聞きたい? 高校名か? それとも英語の成績か?」
「だ、大丈夫です。わかりました」
思わず声が震えている。
「遠慮はするな。後々のためにも、納得しておいたほうがいい」
「俺です。それ、間違いなく俺ですから!」
「……そうか」
叫んで降伏した俺に、お姉さんはくすりと笑いを漏らす。
「わかったのなら、文句はないな」
確かに、この人の目的は俺自身で間違いない。それは俺だって十分にわかった。だけど、問題はそれでどうしてこんな状況になっているかということ、それなのだ。冷たい床を俺は背に、見上げるそこには豊満なバスト。ちょっとでも体勢を変えたりすれば、さわれちゃうほどの至近距離に夢がある。
「で、そもそもあなたは誰なんですか!」
そう、問題はそれなんだ。
「別に誰だってかまいはしないだろう」
「そういう問題じゃないでしょうが!」
これじゃほとんど強姦だろ。いや、ほとんどじゃなく間違いなく強姦だって。
いや、こんな美人なお姉さんとヤれる機会なんて、モテない俺には一生ないだろうけれど。冗談じゃなく、土下座してでもお願いしたいところなんだろうけど。
だけど、そうじゃないだろ! この場合!
一瞬、先日見た『雪女』っつーAVが脳裏をチラッとかすめたけど、それを一瞬でかき消して、俺は全力で反撃に出ることにする。俺のことより雪女ってAVのが気になるって? あれ結構面白くてね、寒さに凍えた主人公が雪女になすがままに……って、だからそれはどうでもいいって言ってんだろ!
「無駄な抵抗は止めるんだな」
腕で押し返そうとした俺に気がついたのか、お姉さんはクッと笑って俺の全身をねじ伏せる。決して太くはないのだが、筋肉質の締まった体。豊満なバスト。いや、いい加減そろそろそこから離れろ、俺。
玄関からは、いまだ鳴りやまぬ連続ピンポン。いい加減諦めろと思わなくもないけれど、それだけが今の俺を現実につないでいる。
「ちょっと慧ちゃん! いい加減起きなさいよ!」
近所迷惑をかえりみず、夏生が叫ぶ。明日絶対、俺は大家に怒られる。
――夏生、覚えてろよ。
なんてことを思いながら、俺はぐるりとあたりを見回す。本当なこのまま流されちゃってもいいかもだけど、それはそれで男の沽券に関わる気がする。
――あれしか、ないか。
個人的に、この方法を遂行するのはためらいがあるけれど。他に手段がないなら仕方がない。さっきの抵抗から考えても、どうやら俺の方が圧倒的に分が悪いし。
――やるしか、ないよな。
お姉さんの腕と体の隙間から、俺はちらりとターゲットに視線を送る。つりやすい俺の足のことを考えると、結構危険な賭けとは思うが、今はこれをやるしかない。
「……うるさいな」
三分を超えるピンポンにさすがのお姉さんも苛立ったのか、チッと小さく舌打ちをする。そしてその瞬間、視線が俺から玄関へと移ったのを、俺は決して見逃さなかった。
――今だ……!
俺は右足のつま先を最大限に伸ばすと、右側四十五度方向においてあったゴミ箱という名の超立体型オブジェを思いっきり蹴り飛ばす。満杯となったゴミ箱の上、さらにゴミを立体造形して早三週間、少し力を加えただけでゴミ箱は意図も簡単に転がって、運良くそれらは俺とお姉さんの頭の上へと落下する。
「なに、す……っ!」
背後から降ってきたゴミに、お姉さんがひるんだ一瞬の隙を見逃すことなく、俺はその下から這い出した。
「……ってえ!」
立ち上がった俺を襲う、足元から伝わる電気刺激。案の定、やっぱり足をつっていた。だけど大丈夫だ。慣れている。ここは全速力で猛ダッシュでもすれば、そこらに乳酸が蓄積して、いい具合に疲労困憊完全相殺。
俺はそのままお姉さんを突き飛ばす形で玄関へとひた走り、半開どころかほぼ全開となっている胸元すら一切気にせず重い扉を外へと開ける。
「遅い!」
俺が玄関を飛び出すと同時に、怒り心頭の夏生の鉄拳が俺を襲う。
「ってえ!」
「慧ちゃん、遅いよ。どれだけピンポン鳴らしたと思ってんの」
「今は、それどころじゃないんだって」
背中越しに抑える扉の向こうから聞こえてくる、ドンドンという扉を叩く音。
「桃、持ってくってさっきメールしたじゃん。って慧ちゃん、聞いてる?」
「あ、えっと。今、取り込み中で……」
なんか生々しいな!
「いや、取り込み中とか、そうじゃなくて……」
「は? 誰かいるの?」
不可解なまなざしで夏生が俺を見る。背中に伝わる振動が、さらに大きくなっていく。
「仕方ない。夏生、行くぞ!」
「は?」
ポカンとした表情を浮かべる夏生の手を引っぱると、俺はその場から猛ダッシュする。俺が扉から離れたとほぼ同時に、お姉さんが玄関から飛び出してくる。
「やばい。夏生、早く!」
俺はさらに力を入れて、夏生の腕をぐいと引っぱる。
「ちょっと、慧ちゃん。手、痛いんだけど」
「じゃあ走れ!」
俺の剣幕にさすがの夏生もビビったのか、俺と一緒に走りだす。さすがに手首を握ったまま全力疾走できるほど運動神経がいいわけじゃないので、俺は握りしめていた夏生の腕をさっと離した。まあ、ちょっと勿体ないなとは思ったけど。
「ねえ、慧ちゃん」
「…………」
夏生を完全に無視して、俺はちらりと背後を振り返る。はだけていたはずの胸元をきっちりと元に戻したお姉さんが、ハイヒールで全力疾走。
――何だよ、あのスピード。
ハイヒールも地の利も全く無視して、このままじゃ俺は確実につかまる。
「ちょっと、慧ちゃんってば!」
俺の全力疾走に対し、まだ余裕のある夏生は桃を提げていない方の手で俺の肩を叩いた。
「さっきから聞いてるんだけど」
「なんだよ」
今の俺はそれどころじゃないんだってば。
「さっきから、どこに行く気なの?」
「わからん!」
「わからんって」
「仕方ないだろ。わかんないもんはわかんないんだから」
わかることは、後ろとの距離が明らかに縮まってきているというだけだ。
「ところで慧ちゃん」
「なんだ?」
返事と同時に夏生の方を振り向くと、夏生は明らかに俺の胸元を注視していた。
「何なの? その格好」
完璧不審者を見る目。言いたいことは確かにわかる。
「……変態じゃないぞ?」
「じゃあ、なんなのよ」
絶対零度の返答に、俺は思わず息をのむ。
「暑かったから……」
「そういう言い訳が、露出狂の始まりらしいよ」
放っといてくれよ! なんて、言うことが俺にできるはずもなく。
「急いでたんだよ!」
「そんな格好で?」
面倒くさくなった俺は、夏生の質問を振り切る形でさらに速度を上げようとしたのだが。
「……あ」
瞬間、横を通りかかった自転車に夏生のビニール袋が引っ掛かる。些細な傷で簡単に破れたビニール袋から、桃がコロコロとこぼれ落ちる。
「慧ちゃん、ちょっと待って!」
背後に転がった桃を見て、夏生がその場で立ち止まる。
「夏生、そんなのあとでいいから!」
「だけど……」
本当、待ってられる状況じゃないんだって。このままここにいたら、本気で俺の童貞が危ういんだって! ……なんて、口が避けても言えるわけがないんだけど。
「なら俺、先行くから」
「え、でも……」
走り出そうとした俺のシャツを、今度は夏生がひっつかむ。
「だからさあ、俺、本当に急いでて……」
だけど、立ち止まり、振り返った瞬間の俺を背後から羽交い絞めにしたのは、目の前にいた夏生でも、さっきからずっと俺を追っかけてきていたFカップなお姉さんでも誰でもなく。
「慧ちゃん……!」
目の前にいるはずの夏生の声が、体が遠くなる。確かに夏生は、俺に向かって手を伸ばしているのに。
だけど、その手が取れない。体が言うことをまったくきかない。
顔全体を覆うようにかぶせられた白い布と、そこから発する独特のアルコール臭。もしかしてこれが、誘拐の必須アイテム、クロロホルム……? とかなんとか馬鹿なことを考えているうちに、俺はそのまま意識を失った。
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