11
※流血描写があります。
研究所では、すでに魔術師たちが待ち構えていた。
さすが蟻の巣の最終到達点だけあって、円形の部屋にはいたるところに扉がついている。あれら全てがどこかの地下道につながっているのだと思うと、一人では遭難もやむなしと言えよう。よくも無事にたどり着けたものである。
安堵する私を一斉に見つめるのは、部屋にあふれかえった魔術師たちである。明らかに、部屋に対する人口密度が高すぎる。魔法陣を中心に、スタイリッシュな宮廷魔術師と、見るも無残な神殿魔術師が入り乱れ。おそらく神殿魔術師の引き抜きが、施設の手狭さを引き出したのだ。
しかし現状、見るも無残は私も同様である。地下通路を転げまわり走りまわり追いかけまわされて、童貞魔術師も目を逸らすほどの惨状を呈していた。
「ナツ様!」
と魔術師の誰かが言った。言葉の端に若干の失望が見られるのは、おそらく登場したのがショウコではなく私であったからだろう。彼らにとってはすでに私は退役聖女。しかし身分は退いても、その実心と体の健やかなる、清く正しい現役聖女であるのだ。
「ナツ様、他の方々は!?」
「もしかしてここにも追手がきてしまうんですか!」
「ひいいいいい」
見た目ばかりはスタイリッシュであっても、魔術師はどこの世界も変わらないらしい。あの諜報こそが異常だったのだ。
「と、とにかく早いこと済ませてしまいましょう。そうしたら全員で逃げられます」
「終わらなくても敵が来たら逃げちゃいますからね!」
古今東西、魔術師という人間はどうしようもない!
魔術師は魔法陣の中心に私を導き、陣を取り囲むろうそくに順に火を灯していく。胡散臭さを練り固めた上、凝縮したような有様に、私は首を傾げた。神殿で召喚されたときは、もっと白い風吹く厳かな雰囲気があったはず。これはどう考えても悪魔召喚の儀式である。明らかに生贄の立ち位置にいる。
「あれは神殿の神官の方々が用意してくれたものなんで」
やりやすい方法にすると、こうなっちゃうんですよねえ、と言って魔術師たちは笑った。さすが、地下に根付くだけのことはある。
私が魔法陣の中心で腕を組み、仁王立ちをすること数分。魔術師たちは輪になって、いつかこの世界に来た時のような、そうでないような怪しげな歌を歌い始めた。魔術の詠唱である。
魔女裁判も確定的なこの状況、実に落ち着かない。心の中では不安と期待が五対四でせめぎ合い、不安の方がやや優勢である。本当に、前のように白い光があふれだし、瞬間移動がなされるのだろうか。
しばらく待っていると、不意に魔術師が歌をやめた。輪になって私を取り囲む魔術師は、それぞれ顔を見合わせあい、肩をすくめてみせたりする。
「失敗したみたいです」
「なんですと!」
「魔力は残っているから、失敗というよりは動きすらもしなかった感じですねえ。誰か歌でも間違えたんでしょうか」
まあ、もう一回やってみましょうか。と誰ともなしに言い始めたときだ。
扉の一つが無遠慮に開かれる。
どやどやと乱暴に入ってきた男たちの姿を見て、軟弱を代表する魔術師たちは飛び上がった。「ひいいいい」と衣を引き裂く男の悲鳴が響き渡る。
「ナツ様、もう一回やりましょう」
急いたように魔術師の一人が言った。意外にしっかりとした声音に、私は思わずうなずき返す。
「次こそは成功させます。詠唱を」
敵が来たら逃げるというのは、魔術師たちの笑えない冗談だったのだろうか。魔術師の言葉に従い、数人がその場を離れず詠唱を始める。
数人は詠唱の輪から抜け、部屋の中心に踏み込む男たちを足止めしようとする。言葉などは初めから交わすつもりがないらしい。別れた魔術師の女が見せたような、光の魔法を問答無用で放つ。
目がくらんで、私は一度目を閉じた。
次の瞬間には惨状に変わっていた。
魔術師が切り伏せられ、赤い血を床に広げながら倒れている。数人の敵兵が目を押さえて転げまわっているが、そんなものは死体と同じだ。あとから入ってくる兵たちに押され、踏まれ、そのうち動かなくなった。
何度か光が明滅する。そのたびに剣が振り上げられ、誰かが倒れている。剣劇の音が聞こえないのは、魔術師が剣を持たないからだ。人を殺す手段を持たない魔術師は、次第に数を減らしていく。
詠唱の声は止まない。稀に悲鳴が混じる。倒れる数人の敵兵と、それ以上の魔術師。喉の奥から悲鳴が上がりそうになる。
足が震えて、立っていられなかった。気がつかないうちに崩れ落ち、私はしたたか膝を打った。痛みはなく、力も入らず、足が麻痺していた。私の眼前で詠唱していた魔術師が切られ、地面に落ちた。兵士の一人が向かってくる。
逃げなければと思うのに、立ち上がることもままならなかった。帰還の魔術は、まだ完成しないのか。詠唱の声は止まらない、だけど何かが起こる気配もない。どうして成功しない?
血にまみれた剣を持ち、兵が私の前にくる。そのまま無言で腕を振り上げる姿を最後に、私は目を閉じた。
痛みはない。鉄さびのにおいがした。
目を開けると、やはり眼前に兵がいる。彼は腕を振り上げたまま、しゃっくりのような声を上げて剣を取り落した。彼の腹には赤く濡れた、誰かの剣が突き刺さっていた。
目を見開く私の前で、腹の剣がぬるりと不気味なほど滑らかに引き抜かれた。兵が崩れ落ちる。その後ろに立つ人物を見て、私は目を見開いた。
「……カミロ」
見覚えのある近衛兵の姿に、赤い返り血を浴びて立っていた。私は目をこすり、もう一度見た。
「……なんで」
「殿下に聞いた。地上からここに、最も近い入口だ。地下の道は神殿から聞いて知っている。だから、俺だけ先に来た」
「そういうことを聞きたいんじゃなくて!」
「ジーノが救援を呼んだ。じきに助けが来るだろうが、それまで俺一人で持たせられるかはわからない」
「カミロ」
「早く帰れ」
私の言葉を聞くつもりはないらしい。カミロは私を背にすると、血がついたままの剣を構えた。
カミロの姿に、一度敵の兵士たちがざわめいた。部屋にいるのは十数人だろうか。一斉にカミロの姿に目をやる。
「カミロ様……我々を裏切るつもりですか!」
「裏切る?」
ぞっとするほど低い声でカミロは言った。
「俺は最初から、お前たちの味方になった覚えはない」
威圧され、兵たちが強張る様子が見えた。魔法の詠唱が一度途切れ、再び流れ始める。
私は微動だにしないカミロの後ろ姿を見上げた。
「俺はずっと、殿下の命で動いていた。ただ、ナツを帰すために!」
私は、カミロの後ろ姿を見上げていた。
○
思えばずいぶんと、王子の思い通りに事が運んでいた気がする。
王子の望んでいた神殿の弱体化。神殿の魔術は王子の手に渡り、聖女の召喚の方法を得た。魔力の集約を効率化して、聖女召喚を安易にすれば、聖女利権で保っていた神殿の権威など地に落ちる。
神殿の失態を誘って、王子の策略はめぐりめぐる。
何度もあったという聖女の身の危機。その仔細は知らないが、どうして今日までショウコは無事のままなのだろう。怪我もなく、傷もなく、王子の望むとおり、危機だけが事実として残るよう、安全な危険にさらされ続けてきた。
誰かが手引きをしていたのだ。
王子の言う、カミロの決断とはなんのことだったのか?
ぼんやりと考えながら、私は矛盾だらけの男の背を見つめる。
○
頭を抱える私を前に、カミロは三人目の男を切り倒した。
「……カミロ」
「帰れ」
「…………いやだ」
「俺はお前を守りながら戦えるほど強くない」
多勢に無勢。カミロはすでに半ば囲まれている。私を背後に、劣勢は明らかだった。魔術師たちがときおり援護に加わってなんとかもっている状態だ。
「じゃあ、なんで来た」
私はうめくように言った。血を見たくなくて目を閉じてみたが、怖くてすぐに開いた。足元は血に濡れて、死にきれない苦しげな声がどこからともなく聞こえる。
「お前を帰すためだ」
「私を帰したくなかったんじゃないのか!」
「帰したくない」
別の兵がにじり寄ってきて、カミロは私に離れるように促した。
「だが、帰れ」
そうは言われても、帰ろうにも帰れないのだ。勇敢な魔術師は時折逃げつつ、持ち場を離れつつ、詠唱の声を休めない。だけど一向に帰還の魔術が発動する気配はない。誰かが先ほど「もう一度だ!」と荒く叫んでいたのを聞いた。
「いやだ」
私は立ち上がろうと、腰の抜けた体に力を込めた。震える足が地面を踏みしめた瞬間、どろりと重たげな血を踏んで、再び無様に転んだ。
顔を上げると、すでに兵の一人がカミロに襲いかかってきているところだった。振り下ろされた剣を弾き返し、耳に痛い剣戟の音がした。
だが、息をつく間もない。背後から空を切るように鋭く、剣のしなる音がする。頭を狙って大きく振られた剣を、カミロは振り向きざまに危うく受け止めた。
「帰れ」
「やだ」
「長くはもたない」
「いやだ!」
魔術師の光が明滅し、一瞬の暗転の後に見えたのは、また一つ増えた死体だった。息を荒くし、カミロはどろどろに汚れた剣を持ち直す。それから残りの男に向き直り、一歩後ずさった。
だけど後ずさった足もまた、すぐに止める。また別の敵兵が、足止めしていた魔術師を切り伏せ、向かってきていたのだ。
「カミロ」
カミロは答えない。乱した呼吸を飲み込み、剣を受ける。
「カミロ!」
腕で体を持ち上げようとして、血に滑って頭を打ち付けた。視界がにじんで、前がよく見えない。カミロがいて、守ってくれているはずだった。そうでなければ、きっと私は今頃死んでいた。
たぶんそれは、私にとっての最後の一押しだった。知らない世界で、昼夜ともに過ごして、無愛想で意外に親切で――そんな男に絆されるまで。
「どうして!」
吠えるように私は叫んだ。
「どうして来たんだ! どうして守ろうとするんだ! これから帰る人間を!」
声を荒げても、カミロは振り返らない。私の声は悲鳴と剣戟にかき消され、自らの耳にさえ聞こえてこない。目の奥が熱くて、涙がどうしようもなく堪えられなかった。
「卑怯者! なんで優しくするんだ! どうして私になんて、命を懸けようとする! 最初からっ! 最後まで……!!」
王子みたいに徹底してくれれば、憎み続けていられたものを。この世界は誘拐犯で、極悪非道で、中途半端に優しくて、ひどく残酷だ。
「大嫌いだ……」
私はうめいた。カミロの姿を睨んだ。世界で一番嫌いな男の姿がある。
「帰れないんだ、魔術が動かない。だからカミロ、私も残る……ここに残る!」
男たちに囲まれたカミロが、一瞬だけ私を見た。言葉は出さず、無言で首を振る。幻のようなその視線に、私は瞬く。その後に見えたのは、こちらには意識を向けずに必死で剣をふるうカミロであった。
「卑怯者! 大嫌いだ、嫌いだ!」
私は叫んだ。頭の中が揺れる。気持ち悪いくらいに思考がゆがむ。
こんなものはただの吊り橋効果だ。心細さを愛情と勘違いしているだけだ。ストックホルム症候群とかそう言ったたぐいのものだ。刷り込みで、思い込みで、きっとプラシーボ効果とドップラー効果的なものまであるに違いない。
頭の中で言い訳がめぐる。好きじゃない。帰るんだ。帰りたい、その思いは嘘ではない。
だけど口は勝手に叫ぶ。落ち着くことを許さない。まるで死ににいくようなカミロを、置いていきたくはない。
「帰りたくない! カミロ、やだ、いやだ! 私も残る、カミロ! カミロ!!」
目の前が涙にぬれて、瞬間、なにも見えなくなった。声が聞こえず、悲鳴も金属の重たい響きも、私の無様な慟哭も入らない。魔術師の歌うような詠唱だけが頭に響く。
「カミロ! いやだ、死んでほしくない! 離れたくない!! 本当は一緒にいたいんだ!!」
――――カミロ。
喉の奥から、焼けつくような声を張り上げた。泣いて、哭いて、鳴いた。
獣じみた咆哮だった。それは私の、心の特殊装甲の奥の、さらに一番奥にある。愛しさと切なさと心細さの迷宮に隠された、ふわふわとやわらかくて、繊細ななにかから発せられる。これは魂の叫びだ。
それを最後に、目の前が白くなった。詠唱が止み、かすかな安堵の声とざわめきが聞こえた。
魔術が発動したのだ、と誰に言われるでもなく気がついた。この世界へ来た時と同じだ。
「ナツ」と名前が呼ばれた気がした。だけど私の視界には、もう世界の姿はない。白いだけだ。
○
歌だ。
処女神は、渡り鳥の歌声とともに世界を越えた。
――――神は歌声に惹かれて、妻を見つけたのだ。
私の鳴き声は、鳥の鳴き声の代わりになっただろうか。
世界が反転する。




