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蛇行しながら横道を抜けると、魔術師は一度足を止めた。私は荒い息を吐く。ショウコが苦しげに咳き込み、私以上に呼吸を乱していた。赤毛は彼女を心配そうに見つめながらも、周囲への警戒は怠らない。
足音はまだ響いていた。乱れに乱れて、もはや近づいているのか遠ざかっているのかも定かではない。
「……ごめんなさい」
呼気に紛れさせ、私はささやいた。
「私が騒いだからですよね」
「……いえ」
答えたのは魔術師だった。
「たぶん、これが正解です。騒ぐことで見張りを引き付けられたんですから」
赤毛を見やれば、彼も固い顔でうなずいた。
「どっちにしろ、見つからずにすむはずはねーからな。お前が馬鹿みたいに騒いで、随分と敵を呼び寄せられた」
「馬鹿だとう!」
「ゆっくりしている時間はねーぞ。ショウコ、行けるか?」
馬鹿に馬鹿にされた上に無視された。屈辱的なことこの上なし!
「ショウコ、もう少しで帰れるんだ。がんばれよ」
「…………うん、ありがとう」
ショウコは黙って咳をすると、唇を強くかみしめた。
○
また別の辻へ出ようというとき、ついに私たちは追い詰められた。
狭い地下道の片側からは、数人の兵が向かってきている。進む先の辻では、足音が明瞭に響いていた。敵が近いことをまざまざと感じさせられる。
「囲まれましたわ」
ランプを片手に、魔術師が苦々しく言った。赤毛はショウコを背後に剣を抜き、少し離れた先にある横穴を確かめた。
「また横道を行くしかありませんわね。大回りして、らちがあきませんわ」
魔術師は言いながら、赤毛の背中を見やる。
「倒せそうですか?」
「……お前たち全員を守る自信はねーぞ」
「私たちだけで逃げられる気もしませんわ」
舌で唇を舐め、魔術師は荒々しく髪を掻いた。彼女自身も相当疲れているのだろう。額に随分と汗をかいている。むろん、私も人のことを言えた義理ではない。邪魔なハイヒールの靴を投げ捨て、ドレスの裾を無理やり破り、逃げやすさに特化した今の姿でも、声を出すのも苦しいほどに疲弊している。
中でも一番苦しそうなのはショウコだった。先ほどから声をかけてもずっと無言で、黙って浅い呼吸を繰り返している。
「ショウコちゃん、大丈夫です?」
私の呼びかけに、ショウコは首を横に振った。目に流れる汗をぬぐい、言葉を絞り出そうとうめく。そうして声にならない息を何度か吐き出したところで、彼女はようやく一言、かすれた声を上げた。
「……駄目です」
声はかすれているが、語調はやけに強かった。その一言で言葉を思い出したように、ショウコは息苦しさを滲ませながら続ける。
「このままでは、駄目です。みんな捕まっちゃいます」
「……ショウコちゃん?」
「二手に別れましょう。ナツさん、あなたは魔術師さんと、先に行って」
私は瞬いた。言葉の意味を理解できず、ショウコの顔を場にそぐわないぼんやりとした頭で見つめた。頭の中身がすべて蒸発したような心地だ。
「私、ジーノと残ります。大丈夫、私がいれば、きっと目を引くはず。相手の一番の狙いは、帰還の条件を満たした……処女である私だから」
「わ、私はまだ処女ですよ!」
「なくしたんです!」
ショウコが声を荒げた。私は思わず肩を強張らせる。
「そういうことになっているんです。ナツさんは、カミロさんのところで失くしたんです。だから、ナツさんと私なら、私を追いかけるはず」
「でも、それじゃ、ショウコちゃんは」
「私は残ります。……残らないといけないんだと思うんです。私はまだ、この国や、王子様のために、やらないといけないことがあるんです。これから荒れていくこの国に、きっと聖女が必要だから」
「ショウコ、ちゃん」
「大丈夫です。きっと帰るチャンスは、まだこの先もあるはず。私、それを待ちますから」
「……ショウコ」
私は首を振った。それはだめだ、と思った。頭がひどく揺れた。目の前が一瞬、見えなくなったような心地がした。
だめだ。
残るという選択をすることがだめだ。帰れるときに帰らないとだめだ。
そうでないと、きっともう二度と帰れなくなる。手段の問題ではない。気持ちが置いて行かれるのだ。
呆然とする私に、驚きとわずかの喜びが混ざった赤毛の顔が映る。「ショウコが危なくなったら逃げるぞ」と言う。魔術師が応えて、「逃げた後は援軍を呼んでほしい」と伝える。それから私の手を引く。それらすべて、体をすり抜けていく。現実味を帯びない。
「行きますわよ」
「ショウコ」
「さあ、ナツ様!」
「ショウコ、ばか」
手を引かれる。私はそれでも無意識に、彼女に引かれて歩き出す。横穴を再び潜ろうとする。ショウコの姿が見えなくなる直前、彼女はかすかに微笑んだ。
「裏切り者! ショウコ、ばか! ばかやろう!!」
残ってやらないことなんてない。責任も義務もない。
そんなものはただの思い込みだ。錯覚だ。情に絆されただけの勘違いだ!
ひとしきり叫び終えると、私は黙って顔をぬぐった。ひどく汗をかいた。
それから頭を振り、息をのんでから魔術師を追いかけた。
○
辻を抜け、いくつかの入り組んだ道を過ぎたところで、魔術師が立ち止まった。
「まあ、思ったよりは長く足止めしていただけましたわ。ショウコ様とジーノ様は無事に逃げたと思いましょう」
私の背を押し、彼女は先に行くようにと促す。耳には幻惑のように、誰かの足音が響いていた。もう、これが本当の音か、私の恐怖が聞かせる音かわからない。
「あとはまっすぐ行くだけですわ。扉がありますから、その先で魔術の完成を待っていますわ」
私に背を向け、彼女はランプを握りしめている。視線の先には薄暗い燭台の地下道。耳鳴りのように足音が聞こえる。
「私、足止めくらいならできると思いますの。あまり戦いは得意ではありませんが」
「あ……」
「行ってください。帰りたいのでしょう」
「うう……」
私はうなずいた。もちろんである。それだけを頼りに生きてきた。彼女の背中を見ながら、自分自身に繰り返す。私は帰る。
「さあ、早く!」
「うん。……あの」
「なんです?」
「無事で……」
魔術師は私の顔を見て、いつものように不敵に笑んだ。「もちろんですわ!」
私は唇をかみしめると、彼女に背を向けて走り出した。無意識に口元を押さえる。名前を呼ぼうと思ったのに出てこない。当たり前だ、聞いていないのだから。
この国の名前も、神様の名前も、あの赤毛の護衛の名前も、知らないままだ。
頭がぼやけていた。まっすぐ、まっすぐ走ろうと思うのに、足がもつれて上手くいかない。
○
ふわふわと走っていたらふわふわと転んだ。あまりに現実味がなくて、痛みすら感じなかった。
頭に耳鳴りが残っている。今にも背後からなにかやってきそうで、思わず振り返ったが誰もいなかった。私一人だ。
私は地面に膝をつき、立ち上がろうと腕を突っ張った。疲労のせいか、地に足つかないせいか、うまく力を入れられず、もう一度地面に崩れ落ちた。
「お父さん」
私は誰にともなくつぶやいた。
「お母さん」
膝小僧をすりむいていた。皮がめくれて血がにじみ出している。何気なく触れると、砂でも混ざっているのか、ざらりとした手触りが返ってきた。
ぼんやりとしていると、視界がぼやけた。
曖昧になった私の視界に、ショウコの姿が思い出される。
裏切り者だと思った。大嫌いだ。こんな世界に残ろうとするなんて。
こんな世界。
私はもう一度腕に力をこめ、今度こそよろよろと立ち上がった。浅い呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けようと思うが、落ち着かない。
大嫌いだ。頭の中で無意識に同じ言葉を繰り返す。
大嫌いだ、こんな世界。
ずっと、大嫌いだった。
この世界、この国、ここの人々。全部嫌いだ。誰も好きになりたくなかった。世話になんてなりたくなかった。一生、誰かに飼われて暮らすくらいなら、橋の下の方がずっとましだ。橋の下で世界を嫌いなまま生きていけるのなら、それでいい。
鼻をすすると、私は頭を振る。私の中の一番やわらかくてあいまいな部分が、取り留めもなく浮かんでくる。
大嫌いな世界を、嫌いでなくなることがなにより怖かった。
だから優しい人は嫌いだ。私を見ようとする人は嫌いだ。同じようにさらわれてきたのに、この世界を選んだショウコが大嫌いだ。
私が帰りたいと思っていることを知って、あんなことを言ってきたカミロは、卑怯者だ。
「嫌いだ」
私は口の中でつぶやいた。
口に出すことで、感情を塗り固める。好きになりそうなものほど、好きなものほど大嫌いだ。
「私は帰るんだ」
腕で目元をぬぐうと、私は大きく息を吐き出した。今度こそ、ようやく呼吸が整い始めた。
「帰るんだ」




