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 万遍なく暗い夜道を、宮廷魔術師の小さなランプ頼りで探り探り、北回廊の裏手に回る。それから彼女に導かれ、手入れ不足で不摂生な茂みの中にある、隠された地下への階段を下りた。


 下りた先は、神殿の魔窟とは比較するのもおこがましいほどにきれいだった。

 地下への石段は磨かれていて、清潔な白さを保っていた。壁は焼いた煉瓦を組み合わせ、等間隔に燭台が壁から突き出している。階段を下りきると、ややアーチ状の天井をした、長い廊下が伸びていた。目を凝らすと、いくつか横穴が見える。あれらもすべて、他の出入り口につながっているのだろうか。

「迷いやすいから気を付けてくださいね」

 と言って踏み出した魔術師の女の後ろを、私とショウコと赤毛は、ぞろぞろとついていく。

 廊下は細いが湿度は薄く、キノコの繁殖する余地はない。人の気配もないが、嘆く男の気配もない。

 歩くたびに比較してしまい、思わず哀れを感じてしまうのは、ひとえに私が無残な男の巣窟を知っているからである。あるいは他の三人は黙々と歩いていることから、どうにも落ち着かない心が再び現実逃避を始めたせいかもしれない。

 足は地につかず、実にふわふわとした歩みであった。

 ようやく帰還を目前にして、気持ちがさっぱり落ち着かない。内心の喜びは湧き上がらず、なにやら空虚な心地がした。


 いや、喜びがまったくないわけではないのだ。悲願であるこの帰還、喜ばずしてどうする。まずは帰って我が家の無事をこの目で確認し、親兄弟友人犬猫隣人その他に至るまで、すべてに愛を語りかけるところから始めねばなるまい。一年以上遅れた高校にはまだ在学できるのか、などという現実味のある悩みものしかかる。

 元の世界でやることは山のようにある。こんな世界からは早期の脱出を目指し、一刻も早いレール通りの人生に立ち返らねばなるまい。たとえすでに大幅な脱線事故を起こしていても、そこは強制的な連結作業でどうにかこうにか生きながらえるのだ。

 今はただ、早急な帰還を目指すのみ。それ以外に考える必要などなし、こんな世界など!

 そう思い直して、私は腹に現実を詰め込んだ。


 しかし、浮足立った私が現実の自重によって、ようやく地に足つき始めたところで、先頭を行く魔術師が立ち止まった。

 ちょうど別方向からの細道と合流する点。曲がり角の影に立ち、彼女は私たちに顔をしかめてみせた。

「見張られていますわ」

 驚きに足を止め、息もひそめて、私は耳を澄ませた。

 足音が聞こえる。細い筒状の地下通路に、山彦のように響いて消えていく。私はかつての神殿での逃走劇を思い出し、唾をのんだ。早くも足が震えてきている。

 他人の足音がこれだけ聞こえているのだ。私たちの足音だって、響き渡っているに違いない。

「やっぱり、裏切り者がいたみたいですわ。ジーノさんについてきていただいて、正解でした」

 そう言って魔術師がジーノを見やれば、彼はすでに剣の柄を握り、ショウコを背後にかばっている。私や魔術師はもちろん無防備のままだ。差別的であること甚だしい。

「回り道をいたしましょう。裏切り者はおそらく神殿の魔術師でしょうし、私の方が地下には詳しいはずですわ」


 ○


 地下はまさしく複雑怪奇な迷宮であった。細い道は四方八方伸び広がり、合流点は数多あり、少し歩けば右も左もわからない有様である。

 私を一日閉じ込めておけば、脱出できずに発狂すること請け合いであるが、魔術師の女は迷うことなく足を進める。私は置いて行かれないように必死である。

 私の背後からは、ためらいがちなショウコと、警戒心をにじませた赤毛がついてくる。


 いくつかの横穴を通り過ぎ、再び四つ辻となった別の道との合流点手前に差し掛かったとき、赤毛が不意に「止まれ」と言った。

 思わず足を止めたあたりは、これもまた横穴のある場所だ。何気なく覗き見れば、燭台の火が点々と、遠くまで伸びているのがわかる。

「そっちは待ち伏せされている」

「……なんでわかりますの?」

 魔術師がランプを掲げて護衛を見た。耳を澄ますが、どこからか遠い足音しか聞こえない。

「辻になっているところを通らないと、魔術師の研究所には行けないんだろ? そう聞いた。だからそこを中心に張っているはずだ」

 赤毛は四つ辻を一瞥し、私たちに対して順々に視線をめぐらせた。

「誰から聞いたんですの?」

「……神殿のジジイどもだ。あいつら、俺にも協力しろと言ってきやがった」

 魔術師が瞳を鋭く細めて、赤毛を睨んだ。ショウコが一歩後ずさり、「ジーノ」とつぶやく。

 ショウコのその様子を、赤毛はうつむきがちに見やった。

「俺は馬鹿だから、なにもしなくていいと言われた。地下の地理には詳しくないから、足音を追って辻の前で挟み打つ。そのときに邪魔さえしなければいいんだと。俺がなにもしなければ、女どもを捕まえるなんて難しくねーからな。…………それだけでショウコをくれてやると言われた」

「わ、私……?」

「殿下に奪われたくないだろう、と言われた」

 視線を落としたまま、赤毛はショウコを気にしたように言う。

「とられたくは、ない」

 恨みがましい声である。駄犬ここに極まれり。

 ショウコが息をのむ。魔術師が怪しい微笑をかき消し、赤毛を睨んでいる。遠くに響く足音と、呼吸音が耳に痛い静寂の地下道で、声を放つものはいなかった。


 いやしかし、これで赤毛にも葛藤があったのだと納得できるのであれば、それはもはや聖人君子すら凌駕する。

 土壇場での裏切りは万死に値する。キリストは積極的に石を投げ、ガンジーも助走をつけて殴ること請け合いだ。


 古今東西並ぶものなき空気の読めなさを誇るこの私。沈黙の重圧に耐え切れず、思わず声を上げた。

「裏切り者!」

「なんだと」

「そんな強制執行で、淑女の愛が得られると思うのですか!」

 力ずくでどうこうしようなどは卑怯者のふるまいである。

 そんなことではつややかで瑞々しい少女の心は決して傾かず、むしろ頑なになるばかり。いいか、愛がほしいのであれば、ときに優しく、ときに厳しく、相手のことを思って接してやるべし。無愛想でもぶっきらぼうでも、親切にしていればきっと思いは通じるはずである。

 そんなことを言い募る間、赤毛はなにやら反論しつつも周囲の警戒を怠らない。「あまり騒ぐな」と私の正論を止めようとするが、いやはやもっともである。私の正論を上回る正論である。

 騒ぎすぎた口を押さえ、私はうなだれた。頭に血が上って我を忘れるなど、いつもの冷静沈着な私らしくもない。上った血はすぐさま逆流し、今度は青ざめた。忙しいものである。


「ジーノ」

 そんな私に代わって、前に出たのはショウコであった。

 彼女は胸に手を当てて、少しのためらいを含ませながら赤毛の正面に立つ。と、その彼の顔をまっすぐに見上げた。

「大丈夫。私はジーノがそんなことをしないと知ってる」

「ショウコ」

「信じてる。今まで、一番傍で守ってくれたのはジーノだから」

 赤い雑種は口を曲げ、ショウコの瞳を見つめ返した。ショウコの天使然とした視線にあてられて、赤毛は純情に頬を染めた。

 彼も多少は報われただろうか。


 などと思う暇もない。染めた頬をすぐに塗り直し、赤毛は私と魔術師を横穴に突き飛ばした。

 無粋な神殿の悪漢たちが、この主役イベントを黙って見過ごすはずがない。突然の暴力に驚き、横穴から顔をのぞかせれば、険しい顔の赤毛が立っている。

 四つ辻に視線を送ると、数人の神殿兵の姿が目に入った。反対方向からもいくつもの足音が聞こえる。次第に大きくなっていく音から、私たちの方へ向かってきていることがわかった。

「走れ!」

 言われなくとも、魔術師を先導に私たちは走り出した。その後ろを、足の遅いショウコを抱えて赤毛が追ってくる。

 点々と灯る燭台を追い越し、足をもつれさせながら私は必死に走った。

 この道は、どこへつながっているのだろうか?

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