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三十六計逃げるにしかず。私が背を見せて逃走を開始すると、ショウコは赤い忠犬を差し向けた。
「待って! ジーノ、追って!」
「おう!」
なんということであろうか。間もなく夜に差し掛かろうという粛々とした王城に、男女の足音が響き渡る。
逃げる私はさておいて、貴族らしい正装をした赤毛と、イブニングドレスに身を包んだショウコが追いかけるさまは地獄絵図であった。華やかな出で立ちのぶん、必死の足取りが異質である。
夜会などもはやそっちのけ。存在すらも頭の外に追い出して、驚く侍女を蹴散らし逃げる。逃げながら言い訳を叫ぶ。「すまない、すまない、悪いとは思っているんです!」
だって仕方なかったじゃないか。私は帰りたいのだ。黙っていたことは悪いと思っている、今は反省している。しかしてこの帰巣本能は避けがたく、愛郷の想いは尽き果てぬ。ショウコも帰ると言ったならこの世界には聖女がいなくなってしまうし、私が帰れなくなるかもしれないではないか。いいではないか、私の方が長くこの世界にいたのだから。順番待ちだと思って許してくれ、無事に元の世界に帰れたら、ちゃんとショウコにも帰還の方法を教えようとは思っていたのだ。
「元の世界に帰ったら教えてもらいようがないじゃないですか!」
ごもっともです。
すでに夜の闇が迫りくる。夜会が始まるころあいだろう。魔術師との待ち合わせの時刻も近い。追いかけるショウコと赤毛の連合軍も近い。
それでも足の速い赤毛に、なんとか捕まらずにここまで逃げてこられたのは、体力のないショウコがときおり立ち止まるおかげだ。彼女が足を止めるたびに、赤毛は私を追うのを中断し、ショウコの体を気にかける。
実に美しい忠義心である。ショウコのためを思うなら、そのまま私の追跡を停止し、夜会に出席することを推奨する。
○
魔術師に言われたことが頭に残っていたのだろう。私は無意識に王宮を抜け出し、神殿へ向かって走っていた。
背後のショウコはあれやこれやと言い募る。「どうして逃げるんですか!」「ナツさん、信じていたのに」「あなたまで私を置いていくんですか!」
これに答える万能の言葉は一つである。神聖なる神殿に荒々しく乗り込み、暗く人気のない回廊に足音を響かせながら、私は声を張り上げた。
「ごめんなさい!」
しかしそう叫んだ瞬間に、私はついにショウコに捕まった。
背後から猛烈なタックルを食らい、床に伏したその場所は、奇しくも魔窟へと続く入口の前であった。
倒れた私の背にまたがったまま、ショウコはその場をどこうとはしなかった。軽く握った拳で、ぽこぽこと私の背中を叩く。
「ひどいです、ひどいです」
声を震わせ、ショウコは何度も私を叩いた。赤毛の護衛が珍しく空気を察して、少し離れた場所で様子を見ている。
叩かれる背中は痛くもないが、彼女の手に次第に力がなくなっていくのは、胸が痛んだ。
「ひどいです……ナツさんだけは信じていたんです…………」
言葉よりも嗚咽の方が増していく。もはや私に言い訳の余地などない。
ここで「ごめん、自分の身かわいさに裏切った!」などと言える人間がいるだろうか。そんなことが言えるのはあの王子くらい、つまりは悪魔くらいなものだ。
「私のことはどうでもよかったんですか? もう、誰も信じられないんですか……?」
私の口から出る言葉などありはしない。黙ってショウコの責め苦にさいなまれるばかりである。背中で聞こえる泣き声は、永遠に止まないような気がした。
○
などとしんみりとした空気に、場違いな足音が聞こえた。
うつぶせたまま見上げれば、あの憎き魔術師である。彼はローブを脱ぎ捨て、いつもの裸の方がましと思えるような薄汚い格好で私たちを見下ろしていた。
「ナツ様に……ショウコ様!? なにをしていらっしゃるんですか?」
驚いたように私とショウコを見比べて、それからさらに視線を移す。おそらくは赤毛の姿を見ているのだろう。不意の人物の登場に、ショウコはあわてて涙をぬぐって立ち上がる。気まずさを抱えつつ、私も同様に立ち上がった。
夜の神殿には、燭台のほのかな明かりが灯っている。炎に照らされたいかにも胡散臭い魔術師に、赤毛は警戒心をむき出しにしていた。早くも剣に手をかけ、ショウコの傍で身構える。危うく夜会に向かうところだったのに、剣の携帯を忘れないとはさすがである。物騒ここに極まれり。
「え、えーと、ショウコ様もいるとは思いませんでした。誰か護衛がついているかとは思っていましたけど……どうすれば」
「私に言われましても」
救いを求める魔術師の視線に、私はそう答える他にない。魔術師は困惑したようにまごまごしていたが、しばらくして強くうなずいた。まあ、どちらにしろ同じことだ、と一人つぶやく。
「ごめんなさい!」
と同時に深く頭を下げた。
「大人しく捕まってください! 暴れなければ殺されたりはしないそうです!」
あの菌類にしては、清々しいくらいにはっきりと言い切った。それを合図としたように、暗がりの中から物々しい男たちが現れる。
手にはそれぞれ剣を持ち、私でもわかるほどに良からぬ気配を発していた。
これはいったいなにごと!?
「ショウコ様もすみません! でもやっぱりアリかナシかで言ったら、すでに相手のいる人はナシなんです!」
新しく呼ぶ聖女様は、きっと今度こそ清純で純潔な幼女で、恋など知らずに自分のことを「お兄ちゃん」と慕ってくれる人なんです!
と弾ける妄想を聞いたが最後、私は赤毛に腕を引かれ、再び夜の闇を駆け回ることとなった。
○
半ばショウコを抱える形で、半ば私を引きずるように、赤毛は神殿を走った。
息を切らせて立ち止まったのは、男たちの足音が聞こえたころだ。
曲がり角から遠ざかる足音に耳を立て、柱の影で呼吸をひそめる。神殿の外を目指して走ってはいるものの、逃げながらではそうそう真っ直ぐに外に出ることもかなわなかった。
「誘い出されたんだな」
赤毛は押し殺した声で言った。
「あのひょろい男が出たときから、少し怪しい気配がしてた」
だったらとっとと逃げるように言っておくべきだ。
「いつ逃げたって、追ってくるのは変わらねえよ」
ううむ、と私は呻く。魔術師の登場時点で、すでに逃げる機会を失っていたのだろう。
「…………私のせいですか?」
私たちの中で一番体力がないらしく、荒い呼吸が整わないまま、ショウコはかすれた声で言った。
「また、私が狙われたんですか? それでナツさんを巻き込んで」
「いや」
否定したのは赤毛だった。
「誘い出されたのはお前だろ、ナツ」
「いかにも」
胸を張れることではないが、あえて胸を張って答えた。気張らなければ、現在の状況は心に重い。
「待ち合わせたのも私ですし、ショウコを連れて来いとは言われてませんし」
「心当たりはあるのか」
「いいやまったく」
微塵もない。あるとすればせいぜい、私の才能に嫉妬した程度のものだろうか。
私が言うと、あの駄犬にすら呆れられた。
「よくもまあ、こんな状況でそんなことが言えるな。お前、相当馬鹿だろ」
貴様にだけは言われたくない。
だいたい、神殿兵はどうしたのだ。この緊急事態に出動しないなどセキュリティの怠慢である。夜だからと遊び呆けているのならば、王宮の兵士たちとなんら変わりない。
神に仕える神聖な兵士ではないのか。そんな職務放棄を、神が許しても聖女が許さない。
と言うと、赤毛はさらに呆れた顔をする。
「神殿兵がいないと気づくなら、普通わかるだろう」
「なにをですか」
「共謀してんだよ。神殿全体が聖女を狙ってやがる」
私は瞬いた。
なるほど確かに、とは頭では思うものの、納得するのは難しかった。
神殿と言えば、だってそれは大組織である。この国ツートップの一翼を担う。それがどうして小娘を狙わなければならないのか。あれだ、王様が全国の佐藤さんを滅ぼそうとするくらいには理不尽だ。
ショウコの身に降りかかった理不尽。自分の身に置き換えて初めて理解できる気がした。
「呆けてないでそろそろ行くぞ。……ショウコ、平気か?」
私とショウコで声色を使い分け、赤毛が再度の逃走を促した。
○
しかし、歩き出してすぐに赤毛は立ち止まった。
後ろをついて歩いていた私とショウコに首だけ振り返ると、目で反対側を指し示す。
「逆に逃げろ」
なにか考える暇もなく、薄い闇の中から人の影が現れた。
むろん私は、迷うことなくショウコの手を取った。赤毛の言うとおりに彼とは反対方向へ逃げる。振り返りはしない。
固い石床に足音が響く。その背後では、剣を打ち合う音だろうか。金属の重たい音が聞こえてきた。
両脇を柱に囲まれた回廊は、思いのほか狭くて長い。おまけに薄暗くて視界も悪く、どこもかしこも同じような場所に見えた。
「ナツさん……」
ショウコが不安そうに私の名前を呼ぶ。
「大丈夫でしょうか、私たち……」
「大丈夫です。大丈夫じゃなかったら死にます」
「駄目じゃないですか」
いやしかし、真実はその通り。大丈夫でなかったらこれは死ぬ。
改めて考えると、胸は萎んで半分以下のサイズにまで落ち込み、恐怖で指の先は冷たくなり、先ほどから変な汗がとめどなくあふれ出る。
怨敵である老木よりも先に神と対面する可能性に涙が出そうだった。もしも幼児趣味の変態に出会うこととなったのならば、まずはキャンプファイヤーの依頼をしよう。
○
しばらく二人で進んでいると、どこからともなく足音が聞こえてきた。まさか追手が来たのだろうか。あの赤毛、格好つけて一人で残った割には役に立たないではないか。腕が立つとの話はいったいなんだったのか。
と思ったら、その赤毛だった。走ってやってくる彼を見て、私の隣に立つショウコが大きく息を吐いた。安心したのだろう。
しかし、赤毛は私たちから少し離れた場所で立ち止まると、鋭い視線を隠すように目を伏せた。
「見るな」
そう言って剣を収める。だが少し、それを言うのが遅かった。見るなと言われても、すでに見てしまった後である。
燭台の淡い灯りの中に映る赤毛の姿は、さすがの私でも、血もしたたるいい男などと揶揄することはできなかった。
ショウコが思わず私の手を取り、不安を押し付けるように強く握りしめる。生臭さが、どこからともなく漂ってくるような気がした。この時代に電気が普及していなかったことを、私は生れてはじめて感謝した。
それでも吐きそうだった。腰も抜けそうである。悲鳴だって上げかねない。SAN値は当然のごとく直葬だ。
唇をかみしめ、それらすべてを堪えた私を、無事に生き延びたあかつきには盛大に褒めていただきたい。
○
赤毛がさらに体毛を赤く染め上げようと、恐怖を体現したような姿であろうと、男手が増えた安堵はあった。豪胆として勇名を馳せたさしもの私も、思わず力が抜けてしまうこともあるだろう。
赤毛の護衛を眺めつつ、脱力してよろめいてしまった私は、なにやら見知らぬ壁に助けられた。
私の肩を掴み、慣れた様子で支える壁、もとい肉壁。
一瞬で血の気が引いた。
さてはあの物々しい男の一人か! ついに捕えられて万事休す。ざんねん! わたしのぼうけんはここでおわってしまった!
恐れと怯えを一身に、震えながら顔を上げれば、今度は安堵の息をつく。忙しいものである。
しかし仕方あるまい。見知った顔がそこにあったのだ。
「カミロ」
毎日顔を合わせているはずなのに、なぜか今は懐かしい。
思わず頬を緩めて慣れ親しんだ顔を見つめれば、カミロもまた微笑んだ。青い瞳が痛々しく細められ、金の髪が燭台の炎に煌めく。
「お前は本当に危なっかしいやつだな」
私を支える腕は相も変わらずどこか不器用で、優しかった。
「言っただろう。俺は神殿の人間なんだ」
聞いた瞬間、私は傍にいたショウコを思い切り突き飛ばした。前のめりによろめくショウコを赤毛が受け取り、そのまま担ぐように走り出す。なかなかヒーローらしい絵面である。
カミロの背後から、神殿兵が数人飛び出して、逃げた二人を追って行った
私の体は、なおもカミロの腕の中にある。




