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天下にとどろく王子とショウコの恋の噂。
二人は恋仲であり、ショウコも近いうちに聖女の座を下りるのではないか。
まことしやかに堂々とささやかれるこの噂、もはや宮中に知らぬ者なし。尾ひれと背びれとえらがつき、このごろは進化して足もはえた。噂は一人歩きし、方々に広まり、いまや伝言ゲームの様相を呈している。
ところが憎らしいことに、王子ははっきりと否定しているのだ。
ショウコと親しいことは事実。しかし、言われるような仲ではない。むろん、不純な交友もしていない。彼女には末永く聖女を務めてもらいたい。
などと供述しており、カミロにも見習わせたいものである。
今は元の世界に帰るため、不名誉な噂を甘んじて受けてはいるが、いずれ私が帰った暁には、きっちりと、きっちりと誤解を解いておくべし。私はこの世界を去る最後まで、聖女らしくあったのだと!
○
「お前は俺との噂がそれほどいやか」
昼下がり。神殿に向かう道すがらカミロに捕獲された。虫たちも活発な夏の時期。怪しい注射でも打たれ、採集キットに収まりそうな塩梅である。
捕まったのをいいことに、文句を告げたらこの通り、カミロはこれ以上ないと思われる不機嫌の限界を超え、なお一層の機嫌の悪さを見せた。
「なにが不満なんだ」
「乙女の純潔をなんと心得る!」
現状、捕えられた虫のように、カミロに襟首掴まれた哀れな姿ではあるが、私はれっきとした乙女である。貞節を重んじ、世間体を気にし、自分の名誉を第一に考える淑女の中の淑女である。
「そんなもの、いずれ失くすものだろう」
なんだとこの男。この青い空の下、突然の不健全な発言に私は虚をつかれた。思わず見上げてみるが、カミロの表情に特段の変化はない。
しかし純情な女子校生たる私には歴然とした変化が訪れた。
意図せず顔が赤くなる。と同時に暴れはじめたので、私の有り様はいっそう、捕えられた蝉のようであった。死にゆく蝉の最後のあがきである。
ベランダに落ちる蝉ほど見苦しく、かつ恐ろしいものはない。なぜ蝉はあれほど生き急ぐのか。その理由は今の私の心境と、もしかしたら似ているのかもしれない。
「それをすてるなんてとんでもない!」
積み重なる蝉の死体に思いをはせ、尊敬と冥福を祈りつつ私は叫んだ。純潔とは乙女にとって、いわば伝説の装備である。ある種呪いの装備でもある。
「恋人もいない身で、身持ちが軽いと思われたらどうなる」
それはもう、下半身だけ宙に浮くほど軽い男が寄ってくるしかあるまい、真剣に交際を申し込もうとしたら、それはちょっとと抜かすような腰が引けた男どもだ。清廉潔白に、誇り高く生き抜いてきた私につり合うと思うか。そもそも誰も寄ってこない、という至極まっとうな意見はすでに締め切られている。
「こんな誤解は堪えられない!」
私は情熱的に語った。ショウコへの羨望やプラモやアニメへの渇望で忘れていたが、元の世界に帰る理由も、もともとはこれだったのだ。うらやましいから帰るとか、遊びたいから帰るというよりもよほど言い訳が立つだろうし、これからは名誉のための帰還をお題目とする。
「……誤解じゃなければいいんだろう?」
そういう問題ではない! とカミロを睨みあげると、カミロも私を見下ろしていた。青い瞳が鋭く私を映している。不機嫌の真骨頂がここにあった。どことなく、苛立っているようにさえ思える。
「…………お前は帰りたい帰りたいというが、それほど帰りたいものなのか」
「当たり前だ!」
「こちらの世界に未練はないのか? 親しい人や、大切なものは」
「ない。なにもない!」
言いつつも、私はわずかに思考をめぐらせる。この世界における親しい人、大切なものとは。
すぐに浮かんだのはショウコだ。しかし彼女も元は同じ世界の住人。除外する。次に即席盟友の二人。ベニートと、名前も知らない赤毛の護衛であった。一年の生活の中で、この短い付き合いの彼らしか浮かばないあたりに、言外の事実がある。
なんだこれは。まるで誰も浮かばない。これでは私が友達のいない哀れな奴みたいではないか。いいや違う。これはわざとだ。あえてこの世界に大切な存在を残さないよう、影に隠れて生きてきた結果である。
胸中強がっては見たものの、口から出る言葉の力なさは誤魔化せない。私はしょんぼりとつぶやいた。
「……ない」
「それほど帰りたいのか。……なにを置いていっても?」
私は頷いた。置いていくものすらろくになかった。
立つ鳥あとをにごさず。そう、これは私がきれいな身の上で、どこにも迷惑をかけずに立ち去るため、周到に計画してきたことなのだ。召喚当初から、いずれ帰ることを見越して生活してきたのだ。だから、ショウコに比べて人々からの称賛がなくとも、私に惚れこんだ人間がいなくとも、友人と呼べるものすらろくにいなくとも仕方がない。私の真実の姿を知れば、元の世界に帰るときに人々は惜しみ、悲しむだろう。それを避けたからこうなった。
すべてはこの世界を思っての、深慮ある行動ゆえ。私はなんと謙虚な人間であることか。
「そうか」
カミロはふと、私から手を離した。すっかりカミロに捕えられていた私は、不意の自由に思わず転びかける。カミロはいつも通りの何気ない所作で、足をもつれさせた私を支えた。
「ナツ、俺はこれから神官長のところに用がある」
「うん? 私の監視は」
「どうせ大したことはしないだろう?」
だてに長らく私を見てきたわけではないようだ。
カミロは私から支える手を離すと、一度軽く目を伏せた。不機嫌ではなく、物憂げな表情は珍しい。
風に金の髪がなびいているのを見ると、まるで本当に王子様かなにかに見えた。たまには人間、内面ではなく外面を見るのも良いものだ。
不純な瞳で眺めていたら、カミロがゆるく頭を振った。
私を一瞥したあと、「じゃあな」と別れの挨拶を残し、去っていく。「おうよ!」と私は軽く受け、手を振った。
私もこれから魔術師たちの魔窟へ行き、不要な発破と応援の声をかけなくてはなるまい。多忙であることこの上なし!




