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 部屋を出ると、リベリオ王子は私の腕を離した。かくして私は自由の身を得たのだ。

 このままためらわずに逃げ出そうと思ったが、その前に王子が口を開いた。扉の閉まったショウコの部屋の前、巡回する警備の兵もいないが、王子は少し声を落とす。

「猿」

「犬です」

「……犬、お前でも長らく聖女帰還の儀式が成功していないことは知っているな?」

 私は黙って頷いた。現在の最懸案事項である。

「どうして失敗するかわかるか?」

 そんなもの、私にわかると思っているのなら、王子の審美眼もそれまでということだ。一年間の付き合いでありながら、いったい今まで私のどこを見て来たというのだ。

 なに臆することなく、私は胸を張って言おう。

「わかりません」

「だろうな」

 当然と言わんばかりに王子は応えた。私の返答を知っていて尋ねたのだ、いやらしい。

 王子は腕を組み、少しの間私を見下ろした。髪色とよく似た灰の瞳に私が映る。しかし彼の瞳の中には、この忠犬に対するねぎらいや親愛の念は見えなかった。

「…………神殿が、儀式を成功させないようにしている」

「はあ」と言いつつ私は首を傾げた。確かに神殿はあまり協力的とは言えないが、そもそも帰還の儀式に対する許可を出したのもあそこだ。成功させたくないのなら、なんで許可なんて出したのだ。

「儀式を失敗したという事実が欲しいからだ。神殿の権威を保つためにな」

「しかし私は、失敗したら憎しみをもって神殿の黒い噂を流すつもりです」

 あることないこと適当に吹聴して、神殿の権威など地に落としてやろうという魂胆だ。私の執念は海より深く果てしない。一度恨みを抱いたならば、生涯にわたって恨み続ける覚悟がある。覚悟だけは常に私の心にうず高く積まれ、山のようにある。ただし覚悟の使用頻度は、稀である。

 そんな私にこれほど恨まれると知って、儀式の失敗を目指す理由などあるだろうか。

 王子はうんざりしたように、眉間に微かなしわを寄せた。背の低い私を見下ろしているせいか、垂れてくる長い髪をうっとうしそうに掻き上げた。

「お前はそうだろう。だが、例えばショウコはどうだ?」

「ショウコも黒い噂をな」

「聖女の召喚、帰還にもっとも長けた魔術を持つのが神殿だ。そこが失敗したとなれば、元の世界に戻る方法がないと考えてもおかしくないだろう」

 私の適当な回答は聞かず、王子は自分で答えを述べてしまった。教師としては失格である。生徒自らが答えを導き出すところに、意義があるのだ。

「聖女の庇護者は王家ではなく神殿であるとは知っているな? 神殿の狙いは、帰還できないとを印象づけることで、聖女を囲い込むところにある。聖女は神殿を頼る他になく、神殿は聖女を掲げることができる。わかるか?」

「わかりません」

「だろうな」

 さきほどから、同じ会話の繰り返しである。王子もわかっているならば、あえて聞くのをやめてほしい。

「要するに、神殿は聖女を帰したくないわけだ。帰れないなら、真面目に聖女をやるしかないだろう? ここの世界で生きるしかないのだから」

「はい」と私は頷いた。わかるわかる。私が橋の下で生きる覚悟を決めたことと、似たようなものだ。

「神殿は聖女で稼いでいる。だから、聖女が真面目に仕事をすると助かる。わかるな?」

「はいはい」

 私はまたもや頷いた。年若い少女で生計を立てる組織とは、やはり腐っている。

「だから邪魔をする」

 なんだと!

「失敗したら帰れないだろう?」

「たしかに!」

「なら、あの手この手で失敗させようとする。たとえば――邪魔者を混ぜたりして」

 王子は不意に私から視線を外した。通路の奥に目をやり、なにか底意地悪そうに口を曲げた。それが目に入る一方、私は全身に満ちる憤りを感じていた。

「神殿は、はじめから帰還の儀式を失敗させるつもりなんだ。聖女に仕事をしてほしいからな」

 王子の言葉に、私は何度も首肯した。どうりで魔術師たちのやる気もないはずだ。失敗の見えた儀式など努力の甲斐もない。ならば新しい技術にこそ力を注ぐべきだと考えていたのだ。

 思い出すにつけ腹が立つ。あいつらみんな知っていたのだ。陰気な地下の住人ども、今に見ていろ。いずれは腐海を一掃してやる。キノコを全部刈り取って、清廉な風の元に晒してやる。恐らく奴らは腐海でしか生きられない。日の光を浴びるとともに消滅するだろう。

「だから、神殿の連中にはばれないように、上手く立ち回れ。奴らはもう失敗が決まったような気でいるが……おそらく、お前ならまだ成功させられるはずだ」

 なるほどわかった。深く理解した。私はこれから、儀式成功のために神殿の人間を警戒すればいいわけだ。四方八方から迫りくる妨害工作を潜り抜け、見事目的を果たせば任務達成。

 一年過ぎてようやくやってきた、ゲーム初のイベントがこれだ。そして最後のイベントだ。やはりクソゲーだった。

「わかったな?」

「はい!」

 力強く返事をした私の腕を、誰かが引いた。


 この身を貫く熱い情熱に、身を乗り出さんばかりであった私は、背後に引かれる力に思わずよろめいた。転びかけた私の体を、その誰かが支える。

 リベリオ王子が視線を私から、背後の誰かに移した。

「来たな、邪魔者」

「……殿下、これになにを話していたんですか?」

 またしても物扱いである。物品である。まことに遺憾である。

 憤りつつ振り向けば、カミロが苦い顔で立っていた。むくれる私をさて置いて、カミロは私と王子の間に体を滑り込ませた。

「なにを期待しているんですか、殿下」

「さて」

 王子は軽く肩をすくめた。

「想像できないことではないはずだ」

 王子とカミロは、しばし無言で睨み合っていた。私はカミロの影から、その様子をそっと見上げた。

 武人らしい鋭さを持つカミロと、どこか中性的な線の細さを持つ王子。二人の正面からの対峙は、かつて宮中を腐らせたというのも納得の図であった。人間は外見ではないと言うが、別に顔が悪くて損はしない。中身に正当な評価さえあればいいのだ。

「…………あまりこの馬鹿に妙なことを吹き込まないでください。なにをしでかすかわかりません」

「それを止めるのがお前の役目だろう?」

「殿下」

 カミロの視線を受け、王子はどことなく残忍に目を細めた。

 冷徹無表情を絵に描いたような王子が笑ったとあれば、それはもう新刊が出る。飛ぶように売れる。私は驚きのあまり、カミロの服の裾を握った。今目に映る王子の姿は、幻だろうか。

「カミロ、私はお前を信用しているよ」

 王子は微笑みながら言った。


 意味深な笑みを残して、リベリオ王子は去って行った。

 去り際、私に顔を向け、王子は「上手くやれるな?」と言った。私は間髪入れずに「わん」と答えた。私への調教は十分に済んだようだ。

 二人になった静かな通路に立ち、カミロは私を見下ろした。徹底的に呆れた表情を浮かべていた。要するにいつもと変わらない顔である。

「お前には誇りというものがないのか」

 その言葉、少し前にも聞いた覚えがある。


 まったくどうしてこの世の人間は、ことごとく私の高潔な精神に気がつかないのか。私の心の内に降る涙の雨を知り、深く反省するべきだ。


 ○


 しかし疑問であることには、どうしてカミロはあの王子を敬愛しているのかであろう。

 私がまだ聖女であったころ、不思議に思って宮中の人間に王子の評判を聞いたことがある。

 その評判はことごとく不快なものであったので割愛する。王子の良い噂など聞きたくもないのだ。


「……殿下は理想の高い方だ」

 カミロを連れだって部屋への戻り際、ぽつりとそんな言葉を聞いた。

「殿下の語られる理想には真実があり、公平さがある。それに口先だけではない、実際に理想を実現する力がある」

 私はカミロを見上げた。カミロは正面を向いたまま、感情の見えない渋い顔をしている。

 私も渋い顔をする。王子に理想の実行力があると言っても、それはきっと周りを顧みない、実に身勝手なものだろう。部下を切り捨て労働者を使い潰し、過労で倒れるものが出たとしても知らん顔だ。労働基準法をなんと心得る。人間は働くための家畜ではないのだ。

 王子、なんと悪辣非道なやつ。

 博愛精神に打ち震える横で、カミロがわずかに目を伏せ、私を一瞥した。一瞬、視線が交差したのち、「だが」とかすれた声で続ける。

「その力強さに、たまに少し迷うことがある」

「カミロが迷うことなんてあるんだ?」

 意外なことを聞いてしまい、私は思わず問い返した。

「お前は俺をなんだと思っている」

「サイボーグかなにか?」

 サイボーグが何かわからない、機械知らずの途上国民のために説明しよう。アンドロイドとロボットとの違いについてもだ。モビルスーツにも多少の心得がある。

 私がしばし熱弁をふるうと、カミロが面倒くさそうに口を曲げた。

「……お前との会話はすべてが馬鹿馬鹿しくなってくるな」

 それは褒め言葉として受け取ってよかろうか?

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