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 夜会は騒然となった。


 私とイレーネの不毛の大地に根を張る会話も、もはや意味をなさない。いや元からまったく意味のあるものではなかったのだが。

 夜会中の人々がリベリオ王子とショウコに注目する。王子の侍従が飛び出し、守るように彼の前を固める。会場の外を警備する兵たちが飛び込んでくる。

 赤毛の護衛がショウコを守るため、二人の間に割り込もうとした。しかしそれをカミロが引き留める。その隙に、私はイレーネの傍を離れ、ショウコに飛びついた。

 ショウコの腕を掴むと、私は無理やり彼女を跪かせた。抵抗するショウコも無視して、ひたすら平謝りである。言い訳やら温情を乞うような口上やら天気の話やら。途中で主題が迷子になり、ネギトロの話もしたような気がする。それでも謝り倒した。

 私に頭を抑えつけられたショウコは不満げであった。恐らく王子の方から挑発でもされたのだろう。ショウコの憤りには理由もあろうが、こればっかりはそうもいかないのだ。

 他に誰もいなかった、以前のような部屋の中での不敬とはわけが違う。周りを囲む貴族、給仕や侍従、楽隊。人の目がある。

 たとえ王子が許したとしても、周りの目は許さない。王家に手を上げることは大罪であり、聖女補正をもってしても帳消しにできるものではないだろう。

 凶悪パンダが人を傷つけたら、屠殺もやむなし。だからパンダは尻を見せ続けるのだ。

 見上げるほどのプライドは早々に灰にして、富士山の頂上からでもばらまいておけ!


 ○


 その夜、私は吐いた。

 小学生の頃、遠足のバスで吐いて以来、「マーライオン」のあだ名を得たかつてのクラスメイトを思い出す。あの時は私も平気で「マーライオン君」と呼んでいたが、もし再び出会えるのならば、徹底して謝罪する所存である。元の世界で謝るべきことがどんどん積み重なっていく。


「もう大丈夫か?」

 少し落ち着き、侍女たちの介抱も不要となったあたりで、私の部屋にカミロが入ってきた。繊細すぎる私の顔色の悪さには及ばないが、カミロもだいぶ疲れた顔をしていた。

「これが大丈夫に見えるか」

 私はベッドの上でうつぶせになったまま、侍女の残していったグラス一杯の水を飲んだ。少しも気が軽くならない。

「ショウコちゃんは?」

「別室だ。話し合いも終わって、彼女もそろそろ解放されたころだろう」

 カミロはそう言いながら、私のもとへやってくると、ためらうことなくベッドの端に腰を掛けた。

「まずいことになったな」

 無機質な瞳でカミロは私を見た。なにやら含みのある言い方だ。私はもう一口水を舐めると、呻いた。

「謝ったんだから許せよう」

「……それがまずいんだ」

 意図が読めずに顔を上げると、燭台に照らされたカミロの横顔が見えた。瞳には私を据えたまま、眉間にしわを寄せている。齢二十半ばの若造のくせして、すっかり苦労のしみついた表情であった。

「聖女が膝をついたことがまずい。神殿の沽券に係わるんだ。王家に対する劣等性を知らしめる形になった」

「……王家の方が、偉いんじゃないの?」

「実際的なものと、形式的なものは違う」

 私は残りの水を一息にあおると、グラスを投げ出して頭を抱えた。そんな難しいことを言われてわかると思うな。

「じゃあ、私は謝らない方が良かった?」

「……いや。あそこではああする他になかっただろう。」

「うぐぬぬぬぬ」と、私の喉からもはや人とも思えぬ音がもれる。発狂寸前である。再び吐き気が込み上げる。

 謝っては駄目。謝らなかったら駄目。いうなれば手詰まりだ。投了だ。センター五割の医学部進学希望者になった気分である。

「殿下はある程度意図してやっていただろうが……それにしても大人げなかった。――とにかく、この後なにか沙汰があるだろうから、今は待つしかないな」

「…………カミロ」

 私はベッドのシーツを握りしめ、カミロの名を呼んだ。「なんだ?」と低い返事がある。だが、私は顔を上げられなかった。

「私、余計なことしたかなあ?」

 鼻をすすって誤魔化しても、震える声は隠しきれない。今夜はどれほど枕を濡らすだろうかと考えた。私のグラスハートはめっきり粉々である。現代社会の傷つきやすい若者なのである。心得ておくべし。

 カミロは私の瞳を覗きこんだ。粉末状の私の心を探るような視線に、思わず俯いた。うつぶせで俯いた先はベッドしかない。そのまま、枕に顔をうずめる。

「お前のしたことは間違っていない」

 ふと、頭に妙な圧力があった。枕に私の頭が深く沈む。少しして、頭を撫でられているのだと気がついた。私の髪が掻き乱される。

「とっさの判断としては正しかった。そう思っておけ」

 カミロの手は大きくて、撫でられるというよりはむしろ、鷲掴みされている気分になった。

 私の心が、少し固形に戻ったような気がする。


 ○


 一晩おいた枕からは、実にグラス一杯分の水がしぼれたはずだ。

 その、私の心の凝縮とも言える雫こそ、繊細さの証である。

 もっとも朝には乾いてしまい、私の真に繊細な心に気付くものはいなかった。つくづく、人を見る目のない世界である。


 ○


 目が覚めると朝の光がまぶしかったので、とりあえず私は心の中で毒づいた。

 気の利かない朝だ。私の心はこれほどまでに萎れているのに。世のすべてのものは、ことごとく私の心の機微に気づかない。

 昨晩の憂鬱を引きずったままの私は、徹底的に朝を呪った。心労から朝食も喉を通らないと思っていたが、見かねた侍女の手によって無理やり口にパンをねじ込まれると、これがまた意外と美味しいのだ。苛々していたのはどうやら空腹のせいだったらしい。

 今少し落ち込む心を持て余しながらも、私はとりあえず満たされた。主に腹が。


 ○


 食後、私は一人ショウコの部屋を訪ねた。

 ノックをしても返事がないが、許可なく開けてみると、果たしてショウコはそこにいた。豪奢なベッドの片隅に腰を掛け、両手を組んでぼんやりしている。私の訪問にも気がついていないようだった。

「ショウコちゃん」

 どうにも場違いな印象を受けつつ、私はショウコの前まで行くと、軽く肩を叩いた。そこで初めて、ショウコが顔を上げた。

「……あ、ナツさん」

 ショウコの顔色は悪い。その表情は不安の色濃く、ショウコが私に匹敵するほどの繊細さを持っていることがうかがえた。

「すみません。私、またナツさんに迷惑をかけましたね。……こんな大変なことになるなんて」

「それはいいけど……よくないけど、ショウコちゃん、大丈夫です? 気分悪そうだけど、ご飯食べました?」

 私の言葉に、ショウコは痛々しく微笑んだ。いかにも無理をしている。

「なんだか、不安で喉を通らなくて……。昨日、あれからすごくたくさんの偉い人に囲まれて、いろいろ言われて。わかることも、わからないことも」

 ショウコの侍女は口にパンを押し付けないらしい。これは現役聖女と退役聖女に対する扱いの違いと考えていいのだろうか。

「私、なんもわかってなかったんだなあって思いました。知らない世界でも、すごく理不尽でも、この世界でやっていいことと、悪いことを知らないといけなかったんですね」

 言いながらショウコは瞳を潤ませた。泣くまいと唇を噛んでいるが、それは無駄な努力のようである。

「……でも」

 喉の奥から、ショウコは必死に声を絞り出した。こうして見ていると、まるで私が泣かせたような気分になる。おろおろとしつつも慰めの言葉を探す私に、ショウコは再び強い口調を取り戻していった。

「でも、駄目なんです。私、王子様になにか言われると悔しくて。頭に血が上っちゃって」

「……うーん?」


 聞くところによると、リベリオ王子の挑発は、日常的に私が受けているものとそう変わりはなかった。人格否定と聖女否定、その他心をえぐるような嫌味である。

 腹は立つ。確かに立つ。これまでの聖女生活ですっかり煮詰まったはらわたも、まだまだ水を足して煮込もうという魂胆である。

 しかし私には疑問を抱かずにはいられない。

「ショウコちゃん、手を上げるのは王子に対してだけですよね?」

私に対してもしばしばぽこぽこと叩くことはあるが、あれと王子に対するものは質が違う。実際、私はすでにショウコを怒らせたことがあった。だがそれで彼女に叩かれても痛いと思ったことはないし、水をかけられるような、本格的ないやがらせを受けたこともない。彼女は加減のできる人間のはずだ。

「そう……かもしれません。そうですね、こんな風にカッとなることって、なかったかも……」

 涙を拭い、神妙に頷くショウコを見下ろして、私は腕を組んだ。

 王子の前では平静を保てないショウコ。言い換えれば、「彼の前ではついつい意地を張っちゃうの」「そんなつもりないのに」「どうして?」これこそまさに心の機微である。

「…………それって恋?」

「いきなり核心をつくのやめてください!」

 ショウコが顔を上げて叫んだ。彼女は目を見開き、涙に濡れた赤い目で私を見ている。その顔は真っ赤だった。

 私もショウコを見返す。


 ショウコはびっくりしている。私もびっくりしている。

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