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新聖女着任を目前にして、忙しさの余波は私にも及んだ。
すなわち部屋の移動である。
現在、私の使用している部屋は、本来聖女のための部屋である。行くところがないからとりあえず使わせていただいていたが、そろそろ退散しなくてはなるまい。
謙虚な間借り人として、私は王家の命令どおり、貴賓室を引っ越した。
次なる部屋は、元いた部屋の下の階にあるあまり使われていない客間である。元の部屋より少し手狭で簡素なその様子に、私は世の現金さを身に染みて感じた。いったい私が聖女として、国にどれほど貢献したと思っているのだ。
特別これと言ったことはしてこなかったが、そこは聖女補正である。ただそこにいるだけで世の中を平和にすると言うのだから、徳の高さもうかがえるというものだろう。
この部屋の移動に、およそ数日。そもそもあまり使われていない部屋であるからには、掃除に模様替えに、私の荷物の移動と慌ただしい。その合間を縫って、私は神殿に顔を出してはちょっかいを出すのだから、忙しさも頂点を極めた。
おかげでようやく引っ越しが終わり、新聖女の着任式を明日に控えた今日まで、私はショウコと顔を合わせることがなかった。教育係とは、いったいなんのことだったのか。
この謎はおそらく、生涯にわたって解決しないであろう。
○
ついに引っ越しも終え、煩わしい聖女業も本日限り。あとは聖女帰還のためのプロジェクトを遂行させるのみ。
猛烈な解放感に浮足立つ私が訪ねたのは、神殿の地下であった。
神殿の奥の間へ続く回廊の片隅に、隠れるようにして存在する地下への階段。それを下りると、神殿の開放的な空気とは真逆の、じめりと湿った風を感じられる。白と黒の石造りの階段を下り、まばらな燭台に照らされた先に行くと、魔術師たちの秘密の研究室があるのだ。
そこにいるのは、神聖さなどどこ吹く風。悪魔も接近すらご遠慮願うほどの、陰惨を絵に描いたような男どもであった。
地下にはいくつもの小部屋と、大きな共同研究室がある。
地下道沿いに等間隔で据えられた小部屋は、窓ひとつなく、燭台の火はおぼろげで、天井には空気穴が一つあるだけだ。
空気の循環もろくにない部屋にいるのは、まさにこの部屋を体現している生物である。
外界との交流を断って幾星霜、人間関係の循環がないこの男たちは、精神にキノコを生やし、外見から毒胞子をばらまく。傍にいるだけで腐海に沈みそうな存在であるが、周囲をとりまく男どもも似たようなものなので問題はない。着々と胞子の森を地下に築き、いずれは神殿を根元から腐らせようとしているのだ。
大きな共同研究室は、地下道の果てにある。ここは魔力の集約と称して、数少ない交流の場を得るために男どもが集まる。会話の内容は主に、常人には理解できないマニアックな魔術談義である。桃色魔術の尻尾が可愛いだとか、巨大な魔術の毒々しさが苦手であるとか。お前はいったいなにを言っているのだと言いたいが、これで男どもには通じるのだ。
空気の端からにじみ出る魔力の欠片は、金髪幼女のおみ足のようだと言う発言で、どっと笑いが起こるこの異常さに、誰も疑問を抱かない。
これが魔術師の生態である。
世間一般の認識では、魔術師は生まれ持っての才能により選ばれた、エリート中のエリートだそうだ。魔力の才あればスカウトが来て、神殿または王宮勤めが約束される。幼いころにスカウトを受けた面々は、魔術の秘匿性のために世間から隔離され、秘密の学校で教育を施されるのだ。
そうしてできたエリートが彼らだった。
○
毒胞子をまき散らす魔術師たちの生息域に立つのは、私とカミロであった。腐海においてはその存在だけで嫉妬と憎しみの対象になるようなこの男、相変わらず私の護衛として傍に控えつつも、宣言通りにちょくちょく邪魔をする。
魔力集約量のちょろまかしや、桃色魔術とやらの秘密の行使は、すべてカミロによって阻止される。人員の補強、技術のマニュアル化、予算の値上げ交渉に至るまで、神官長にすら届かずカミロの前で棄却されるのだ。
腹立たしいことこの上ないが、魔術師たちはこのカミロの前にあまり大きな口はきけないらしい。身分と言うのもあるだろうが、傍から見る分には、中学校あたりでのクラスの人気ヒエラルキーに似ていた。サッカーが得意な人気者に、読書が趣味のがり勉どもが口出しできるはずはなかったのだ。
しかしそれも間もなく終わる。
私は自由の身になるのだ!
「そうしたらまずは、なにかためしに無機物でも召喚してみましょう、ナツ様」
カミロに隠れて、私は複数の魔術師たちと密やかに話をしていた。カミロは用心深い表情で、すでに数度訪れた魔術師たちの研究室を点検している。あの瞳が、どうも監視くさくてたまらなかった。
「異界から物を寄せられるならこれはすごいことですよ。異界渡りは聖女だけの能力だと言われていますが……確かに、服が渡るなら、物も可能と考えられますからね」
不健康そうな魔術師たちが顔を見合わせ、不健康そうに笑い合う。
「なにを召喚しましょうか」
魔術師の一人が言った。
ここはためしにガンプラであろう。そう言う私の言葉を無視して、別の魔術師が言う。
「やはり桃色魔術の完成を目指すべきでしょう」
「まずは書物。桃色の密書です」
「異界では絵画技術が発達して、禁断の書物に溢れかえっているのですよね、ナツ様?」
「毎年夏には禁書を集めた秘祭が開かれるのだとか。ナツ様の世界も好き物ですねえ」
年頃の少女にとってはあまりに不健康すぎる。なんだこの会話は。今まで知らなんだ、桃色魔術の意味とは?
魔術師たちはもはや本来の目的を忘れ、いったい何を召喚するべきか話し合っている。彼らは私の帰還のために魔術を集めていると思っていたが、勘違いだったのだろうか。それとも仕事量を倍に増やされたいのだろうか。
私の憤りを知らず、話はなおも盛り上がる。
「無機物に成功したら、次は有機物ですね」
「ああ、いっそのことショウコ様のような幼女を召喚してみたいですねえ」
「なんですかそれはまさに女神!」
「幼いショウコ様こそ女神!」
またしてもショウコ! いつの間にこの地下帝国まで魅了していたのだ!?
女神なら目の前にも一人いるだろうに!
「中古はちょっと……」
むきー!
この陰惨な腐海に降り立つ女神に対し、なんという無礼な発言。許すまじ、許すまじ!
だいたい私はまだビニールの個包装を開けるどころか、箱から取り出してすらいない新品である。それをまずは理解するべきだ!
怒りの鉄槌により、今まさに一人の引きこもりがこの世を去ろうとしていた。乙女のこぶしを握り締め、狙うは顔面一択。長年の珠算で鍛えた高速パンチが炸裂する。
はずであった。振り上げた私の腕は下されない。背後から何者かに掴まれているのだ。
もはや振り返らずともわかる。カミロだ。聖女帰還の計画を邪魔をするだけでは飽き足らず、天誅すらも阻害するとは、なんという罰当たりな男だ。
今はもう不倶戴天の敵となったカミロ。しかしこうして邪魔をできるのも今日限りだ。明日からは私は好きにやらせてもらう!
「そういうわけにはいかない」
カミロは私の手首を掴み、紳士とは思えない無遠慮な力で締め上げる。ギブアップを申し出ても知らん顔だ。
「もう護衛は終わりでしょう? いらんでしょう!」
「そうだな」
あっさりと言う割に、腕を掴む力はゆるぎない。目の前の魔術師が怯えた様子でカミロと私を見ている。怯える前に助けろ。そののちに、私の手によって死ね。聖女のために死ねるのならば、神殿の魔術師としては本望のはずであろう。
「俺はもうお前の護衛を終える。だがな」
締め上げられつつ、背後から落ちるカミロの声を聞く。まるで処刑を宣言されている気分だった。
「これからはお前の監視役になる。リベリオ王子殿下と神殿双方の命令だ」
「それってなにも変わってない!」
カミロのこれまでの役割に、正しい名前がついただけだった。今までろくに護衛らしいことを何一つしないまま、ついに大手を振って監視役になってしまったのだ。
なんという罠。回避不能のトラップカード。私の自由の身はいずこ?
悔しさに私はほぞを噛む。ちくしょう! 結局何も変わっていない!
明日からもまた、同じような日が続くのだ!
○
それでも明日、聖女として神殿に立つのは私ではなく、ショウコなのだ。