16
ついにこの日がやってきた。
デスマーチの開始である。
今日もまた晴天なり。私の心をよく読んだ空は雲一つなく、澄み渡る青色をしていた。
緑のにおいを含んだ涼風が神殿内を吹き抜ける。それは私のいる、裏庭にほど近い神殿の一室も同様であった。
悠々と椅子に座り、背もたれに背を預ける私。私の背後には、神殿兵もいるからいいと言うのに、勝手についてきたカミロが控えている。
私たちに対峙するのは、今回の聖女帰還プロジェクトの主要なメンバーであった。
魔術師たちの代表である男、過去の文献から聖女帰還の方法を探る学者。神殿の儀礼を執り行う神官。そして彼らの総責任者、間もなく老年に差しかかろうという、副神官長代理主任補佐の名目を持つ男である。
○
さて、実際に指揮を執るとなったからには、もはやショウコが帰るまでに儀式を終えよう。などと無茶は言うまい。もう少し現実的な提案をする。
「いや、無茶ですよ。無茶ですよ。今回の、半年での召喚でさえけっこうな無茶だったというのに」
私の要望に、副神官長代理主任補佐は頭を抱えて呻いた。
どうやら聞くところによると、急遽離職が決まった私の後釜を据えるにも、実は神殿はかなりの努力をしたらしい。これまで必要だった提出書類を半分にし、毎日行う無為な朝礼を二日に一度とし、神官長の日課である一時間に一度のブレイクタイムは二時間に一度とした。
そうしてなんとか間に合ったのが今回の召喚だったのだ。
ならば下っ端どもはどうなっていたかと言うと、それはもう社畜まっしぐらであった。突然の事態に浮つく上役たち。ああでもないこうでもないの無意味な議論に左右され、せっかく進んでいた聖女召喚の準備も敢え無く中止となったと思えば、やっぱりやろうと翻される。そんな急に言われても、簡単に元の状態に戻せるものではないのだと、涙の主張も上には届かない。
休日出勤当たり前。残業は夜中まで。神殿に寝泊まりも辞さず、もちろん給与は据え置きだ。
果たして私主導でデスマーチを強行せずとも、下だけ見れば十分に働いてくれそうな気がしてくる。
「魔力の集約も、単純な作業ではないのですよ。この世界の神の力をお借りして、それをある程度集めたうえで、召喚などの目的に適した形に直すのです。この集めるということにも許可がいりますし、成形するのには高い技術と人員が必要なのです」
「それでも前回はできたのでしょう? 三か月で」
「神殿中の魔術師を駆りだして、ようやくできたことなんです。ナツ様、無理ですよ無理。並行して複数の魔力の集約をしようだなんて」
老いはじめの顔をくしゃくしゃにし、副神官長代理主任補佐は言った。
つまり私の提案とはこうである。
以前聞いたとおり、魔力の集約に三か月かかるというのなら仕方ない。実際、神官長主導のデスマーチでここまで時間がかかったのならば、そう大幅な削減もできないだろう。
煩わしい手続きを排除しても三か月。それで失敗したら、私は大幅にへこむだろう。同じだけの期間、涙に濡れる日々が続くだろう。おまけにその時にはすでに、聖女職をショウコに譲ったあとのこと。城を追い出され、橋の下で泣いている私の涙で洪水が起こる。
だからせめて、少しでもチャンスを増やしたいわけだ。いくつか並行して魔力とやらを集約しておけば、一度失敗したとしても、すぐにまた再チャレンジできるはず。その再チャレンジの裏で、また並行して魔力を集約すればなおよし。まだ儀式の途中だから、という、城から放り出されないための言い訳も立つ。
世は効率主義。回転率を上げていけば、成功の可能性も比例して上がっていくはずだ。
○
つらつら語るがむりむり言われるばかりであった。
上に話を通さなくてはならない。許可が下りなければ行動できない。書類の用意や事務連絡も含めて、ただでさえ三か月では不可能なものを、並行してなどむりむり。上からどんなことを言われるかわからない。
副神官長代理主任補佐は哀れな様子でそう言った。中間管理職の悲哀である。
しかし私も譲るわけにはいかない。副神官長代理主任補佐にはクビがかかっているのだろうが、私にも生活がかかっているのだ。
「やる前から無理なんて逃げ口上です。まずやってみる。駄目だったらがっかりするだけです!」
「無理なんですって。そもそも技術を持った魔術師だって少ないのに」
「だったら技術を広めればいいのです! マニュアル化して初心者にも理解できるようにするのです! 世間様にも公開して技術大安売り!」
「神殿の召喚は秘儀なんですよお……」
先に根を上げ、泣き出したのは副神官長代理主任補佐だった。この神殿ではどうやら、魔法よりも先に泣きの技術をマニュアル化しているらしい。
ここで涙を哀れに思うのは三流である。
私は心を鬼にして、将来の神殿のためを思い発言する。
秘儀なんてやめちまえ!
そんな囲い込みみたいなことをしているから、仕事効率も下がるのだ。そういえば、神殿だけではなく、王宮にも宮廷魔術師なるものがいるそうなので、あのあたりから人員を引っ張って来てはいかがだろうか。技術も拡散すれば、神殿の手間も減るだろう。
という私の演説を邪魔したのは、やはりカミロであった。
「ナツ様、あまり無理を仰らないでください」
背後から私を鋭く見おろし、警告じみたことを口にする。ぞっとするような威圧感に、反射的に口を閉じる一方で、安堵するのは副神官長代理主任補佐以下、プロジェクトチームの面々であった。
「みなさんも長い話でお疲れでしょう。どうです、一度休憩を挟まれては?」
「カミロ……!」
「それとも話がまとまらなければ、今日は解散にいたしましょうか」
なんたる勝手なことを口にするのだ。
私は思わず立ち上がり、背後のカミロに振り返った。今日こそは圧力に屈しない。断固反対、護衛などの良いようにされてたまるか! と口にするつもりであった。
しかし、意気込んで見上げたカミロの視線は、私には向いていない。射殺すような目は、私と相対する面々に向かっていた。口を開かずとも「早く出て行け」と言っていることがわかる。彼らの表情から、先ほど見せた一瞬の安堵もはかなく消えていた。
天の助けとも言えない地獄の視線に、そそくさと立ち上がったのは副神官長代理主任補佐だった。
「ま、待ちなさい!」
私の叫びは、カミロの脅威の前では灰と散る。代理未満のその男は気まずそうな顔で私を見やるが、結局は一礼をして、部屋を出て行った。カミロの視線に追い出されたとも言う。
一人が出て行くと、残りも落ち着かない様子で立ち上がり、ばらばらと部屋を去る。
私は部屋で呆然と立ち尽くした。
「……な」
しばらくして、私は喉の奥からつかえがちな声を出した。
「なんで勝手なことを! カミロ!」
ふつふつと沸き上がる怒りにまかせて、私はカミロに掴みかかった。しかしカミロは、憤る私を置いて、周囲を見回した。どこか神経質な瞳で、全員が出て行った後、固く閉じられた扉を見やり、窓の外を注意深く窺う。
目の前の私を無視する無体。許しがたい。
ますますはらわたを煮詰める私に、カミロはようやく目を向けた。
「お前は自分がどれほど危ういことを言っているか、気がついているのか?」
「しらん!」
「神殿には神殿の事情がある。知っておけ」
「私には私の事情がある!」
元の世界に帰るという重大な事情がある。それがすべてに優先するのだ。神殿の事情など、私に比べたら些末なことに過ぎない。
聞く耳を持たない私に、カミロは仏頂面のまま、少し腰をかがめた。誰かに聞かれぬように声を落とし、私に囁く。
「お前は殿下に利用されているだけだ。帰ることができる保証もない」
「利用されているからどうした! 帰れない保証もない!」
利用するならするがよい! 王子の狙いはわからないが、目的の一致した共闘関係とでも呼んでいただこう。
さすがのカミロも、敬愛するリベリオ王子の意向を無視するわけにもいかないだろう。王子が私に「やれ!」と囃し立てたのだ。ならば私はやる。
それともまさか、王子に逆らってまで、私の邪魔をする気ではあるまいな?
そう尋ねると、カミロは唇を噛み、苦悶の表情を浮かべた。が、それは一瞬のことだった。
彼らしからぬその表情は、幻かと思えるほどあっという間に掻き消え、ついでに感情も消えたような顔をする。
「――――邪魔をする気だ。お前は帰さない」
低く、重い宣言だった。