15
幼女趣味の変態について調べていたら、結構な時間が経っていた。そろそろ昼休憩も大幅に超過したころだろう。
このまま滑らかにサボタージュへと移行するのだろうと思っていたが、私が時間の指摘をした途端、ショウコは顔を青くして立ち上がった。同じ椅子に腰を掛けていた私は、ショウコの勢いに押されて転げ落ちる。
私がしたたか腰を打ちつける一方で、ショウコは手にしていた本のすべてを盛大に取り落とした。静謐な図書館にそぐわぬ物音に、周囲の学者たちがぎょっとこちらを振り向いた。
なかでも驚きが顕著であったのは、私たちのすぐ傍に座る、痩身の若い学者であった。彼はショウコの粗相に文字通り飛び上がり、そのまま座っていた椅子から飛び落ちた。
私と境遇を同じくした学者が落ちたのは、ちょうどショウコがばらまいた本のすぐ傍であった。彼はぼんやりとその一冊を手に取り、どうしたものかと眺めている。
「す、すみません! すみません!」
そこへすかさずショウコである。ショウコは近場の本をまとめて拾い上げると、学者の元へ行って必死に頭を下げた。
学者はいかにも女人とは無縁そうな野暮ったい顔で、謝罪するショウコを見ていた。手にした本、痛みに呻く私、騒動に注目する観衆。しかしこの学者には、もはやショウコ以外の何者も目に入っていないようだ。
「驚かしてすみませんでした。大丈夫ですか?」
「……は、はい」
「良かった。本、拾ってくださってありがとうございます」
そう言ってショウコは花のように微笑む。
女など残り香を夢想する他に一切の接点のないチェリーボーイが、彼女の笑顔にいかにして抗えるだろうか。学者は挙動不審に首を振り、赤くなった顔を俯き隠してショウコに拾った本を突き出した。
学者は童貞らしい短絡さで、光の速さで恋に落ちたのだ。チェリーがチェリーたるゆえんである。
そんな甘い空気の傍らで、私及び他の学者連中が面白くない顔をしているとは、二人は露とも思うまい。女とは無縁の学者たち。男とは無縁の女子校通いであった私。対極に位置しているようで、相通じるものがある。今は不思議と一体感を持って、渦中の二人に憎しみの視線を向けることができた。
ところがショウコは、そもそも甘い空気に気付いているのか、いないのか。「ありがとうございます」ともう一度礼を言い、カミロに助け起こされていた私の元へ戻ってくる。
「ナツさん、すみませんでした。さあ戻りましょう。本はあとでじっくり読みます」
忙しなくそう言うと、ショウコは私の手を取って、何の未練も残さず図書館を飛び出した。彼女の頭にあるのは、すぐにでも自室に戻り、勉学の再開をすることだけらしい。
哀れな男の気持ちなどいざ知らず。ショウコもなかなか罪深い。
○
ショウコの本気はこんなものではなかった。
「ショウコちゃんって元の世界で彼氏いました?」
カミロを先頭に部屋へと戻る途中、そう尋ねた私にショウコはものすごい勢いで首を横に振った。
「え、な、なんですか急に。いませんよ。私、もてませんでしたもん」
ショウコは大嘘吐きだ。
自室までの道すがら、私はショウコに元の世界でのことを、根掘り葉掘り聞き出した。それは多くの女子校に通う生徒にとって、腸がねじ切れるほどにうらやましい日々であった。
そもそも、同じクラスに男子生徒がいる事実。それだけで、女子校では珍獣でしかない存在が、本来あるべき姿の女子生徒となれるのだ。洒落っ気を見せたり、男女のいざこざに巻き込まれたり、他人の恋愛事情に首を突っ込んでは叩き出されたり、あわよくば自らにも恋愛事情が降って沸いたりするのだろう!
なんたる軟派なことであろうか。なんたる破廉恥な。風紀の乱れも著しい。しかしそれこそがうらやましい。ああうらやましい!
女子校は女子校でいいところがあるだろう、と言われてみれば確かにその通り。野放図な女の園の、まったく女を捨てた有様も居心地のいいものであった。しかし隣の芝生は青いのだ。生い茂っているのだ。
「私は、女子校に行ってみたかったですけど。女子しかいないって、すごく気楽そうで」
ショウコは唇をとがらせて言った。しかし誤解がある。女子校にいるのは女子ではない。あれは精神を解き放ち、女子の殻を破ったなにかなのだ。
このようなことを切々と語っていたせいか、私たちは背後の危機に気付かなかった。
背中に強い衝撃。体勢を崩した私は廊下の石床に、したたか腰を打ちつける。何の因果か、図書館で打った場所と同じであり、私は悶絶した。いったい何事。
倒れた私の横には、同じく転んだショウコ。さらには若く小柄な侍女が一人、私とショウコを見下ろしておろおろとしている。どうやらこの侍女が、私とショウコを突き飛ばしたらしい。小さな体でありながら、とんだ馬力を秘めている。
「ああ、すみません、すみません、すみません!!」
侍女は私たちを見比べて、すぐさま泣きそうな顔で平伏した。私たちの服装から、相手がかなりの身分であると予想できたのだろう。
「すみません。あたし急いでいて。申し訳ありませんでした!」
平伏したまま叫ぶように謝罪する、その声は震えていた。
当然であるが、侍女の粗相は多少なりとも罰がある。その多少の部分がどうなるかは、相手の機嫌にかかっていた。虫の居所が悪ければ、打ち首獄門市中引き回しも夢ではない。怯えるのも無理のないことだった。
「お前、誰の侍女だ。名前は」
平伏する侍女に、カミロは低い声で尋ねた。痛みに呻く私を無視し、義務的に名前を尋ねるカミロはさすがである。護衛とはいったいなんだったのか。
震えながら、侍女は名前と所属を言った。これから上の者を通して、お叱りが行くのだろう。腰の痛みに耐えかねた私は、「おうおうやったれ」という気分であった。
しかしここでもショウコは天使だった。
聖女に対しての粗相。わざとではなくとも見逃すわけにはいかない。それなりの処遇を与える。などと言ったことを述べるカミロに対し、ショウコは痛む背中をおして立ち上がると、断固彼に反対した。
「罰なんて。私、平気ですから」
「聖女に対する粗相、見逃すわけにはいきません」
「粗相なんて。わざとじゃないんですから」
「わざとでなければ許せるということではありません」
うつぶせになり、腰を撫でつつ聞こえる会話は、まったくの平行線。ただただ不毛であった。それよりこの私を早く助け上げ、痛む腰を哀れんでいただきたい。
「ナツさん!」
しばしの論争ののち、ついに私に声がかけられた。
この時にはすでに、私の腰の痛みも回復し、一人虚しく立ち上がっていた。侍女を中心とした会話の中に、私の入る隙はない。それどころかほとんど話も聞いておらず、このままそぞろに帰ろうかとまで思っていた頃合いだ。
「ナツさんは、罰を与えたいと思っていますか!?」
「なんかもうどうでもいい」
「ほら!」
ショウコが勝ち誇ったように私を示す。カミロがうんざりと首を振り、平伏していた侍女が顔を上げ、瞳に安堵の色を浮かべた。
どうやら勝敗が決したらしい。
いつの間にやら私が最終審判者となっていたのだ。会話の流れも読めないままに、渦中にあった私の気持ちやいかに。いったい私はなんの審判を下したというのだ。
いまいち事情は呑み込めないままの私を尻目に、侍女はショウコに感謝の涙をとめどなく流しつつ、敬愛の念のこもった瞳を向ける。
事情はわからないが、ショウコはまた勝利してしまったようだ。
○
部屋へ戻るべくさらに王宮内を進むたび、ショウコは人々を魅了していった。
顔が良くて優しければ、それはもう惚れるなという方が無理なもの。ショウコが誰かに声をかけるたび、安易な恋に落ちる者が増えていく。
まったく男も女も単純極まりない。やはり見た目か。目に見えるばかりの優しさに眩んでしまうのか。
私はショウコと並んで歩きながら、世界が変わっても変わらぬ人々に義憤を覚えていた。
もっと思慮深く人というものを観察すべきである。外見以上に内面を見よ!
そしてショウコの隣にいる、溢れんばかりのカリスマを持った私の存在にも気づくべきだ。