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8.ノック

 んー…。

 朝っぱらからウルサイなぁ。なんだよこの音…。

 あ、止んだ。もうこっちは昨日災厄の塊が来て寝不足だっていうのに―――。


 タオルケットを顔まで持ち上げ、猫みたいに丸く縮こまる。この意識はあるんだけど覚醒はしてない微睡ってすごい気持ちいい。ああ、このまま二度寝しちゃおう、そうしちゃおう。いつもはメアリーおばさんの庭の水やりを手伝うために早起きするんだけど、明日にならないとメアリーおばさん帰ってこない、し――――。


「あ、だめだ」


 ぱっと、目を開ける。思い出した。留守の間、庭の水やり頼まれてたんだった。そのお礼にあの鶏肉を貰い受けたのだ。うぅ、もう少し寝ていたいけど、メアリーおばさんの悲しい顔なんて見たくない。鶏肉も昨日食べちゃったし。


 もそもそとベッドから這い出て、洗面台で蛇口をひねる。んん、ちめたい。ワタシがあの愛想のない真っ黒の男の屋敷に落ちた頃から、この国には水道設備も汚物処理の施設も存在し機能しており、現代日本同様蛇口をひねれば水が出てくる。これも電力の代わりになる魔石と、代々異世界トリッパーたちの知識を応用させた賜物である。ありがとう、田中さん。

 この国の天然記念物(扱いされてる)、最高齢の日本人田中さんに感謝し、くしで適当に髪をとかす。


 相変わらず量の多いだけの、太くてもつれやすい黒髪。この国のみならず、まだ女性が髪を短くするなんて狂気の沙汰と思われている世界なので、手入れが面倒くさいからというアホな理由では切らせて貰えない。


 というか、切りたかったけど切らなくてよかったな。アソコでは同僚に合う以外は四六時中顔のみならず体系をもすっぽり隠すローブ着用の不審人物スタイルでしか出歩かなかったが、ここに来てから短髪の女性の異質さを改めて実感してしまった。

 老いも若きも皆最低肩下までの長髪。女性はもちろん、男性でも長髪は珍しくなかった。案の定白髪の混じった明るい栗色の長髪をお持ちのメアリーおばさんは、髪の長い方が魔力が安定する、つまり健康で長生きできると言っていたけれど、アソコでそんな話聞いたことなかったし、宮廷魔法使いである真っ黒の男は短髪である。


 あっちでもあった、実証のない民間伝承みたいなのだろうな。

 信じてなくても、長いものには巻かれる主義の日本人。田中さんも前は後退してきたが、ここに来てから伸ばしたという真っ白な髪を後ろでちょこんとくくっている。優しげな老紳士で、それがまたかわいいのだ。


 鏡を見る。

 見慣れたここの住民に比べ、凹凸の少ない顔に、綺麗とも不細工だとも評されない平凡な女がそこに映る。いいさ、田中さんはワタシのことを愛嬌のある、優しい顔ですと言ってくれるもの。しかし、アレ褒めてんのかなぁ。言われた時にはどっちなのか判断できず愛想笑いで返したけども。


 こちらに落ちたのが26歳の時。

 大学を卒業して、新卒で入社した中小企業からリストラを告げられ、25歳でフリーターに。26歳でやっと次の仕事にありつけたと思った矢先、この世界に引っ張られてあの屋敷に落っこちてしまったのだ。


 ああ、今思い出してもムカムカする。

 次の会社の内定を貰い、両親が泣いて喜び、お祝いのご馳走と父さんのとっておきのワインを頂いてしこたま飲んだ。へべれけになって自室で休もうとした部屋のドアを開けた瞬間、まったく見たことのない部屋につながったのだ。おそらく使われていない物置かなんかだったんだろう。後ろを向いても埃をかぶった棚しかないし、目の前の出口には鍵がかかっていた。


 原因のわからない事態にパニックになり、唯一の出口を叩いても叫んでも応答はなし。しかもお腹いっぱいで酔っぱらってるし、なんだか不安を通り越してまあ、明日になれば見つけてくれるだろうなんてお気楽に考えて眠りこけてしまった。


 後で聞くと異世界トリップした人間の魔力は特殊で、魔法を行使できない使用人ならまだしもその屋敷の主人である真っ黒の男はワタシが扉を開けた時からワタシの存在に気が付いていたらしい。しかし、時刻は真夜中。そんな時間からどんな輩かもわからない厄介者と対峙するのが嫌という理由で、ワタシはその夜から、朝になり、また夜が来るまであの物置から出ることはなかった。

 何が焦ったかっていうとまずトイレ。本当にそこらへんに置いてあった花瓶にしちゃおうかと思ったけど、ぎりぎりのプライドで乗り切ったよ。あの男がやっぱり明日の朝にしようとか思っている所を、後々ワタシの世話係になる少女が進言してくれなければ、ワタシは泣く泣くアソコで漏らしていただろう。

 なんていうドラマチックな異世界トリップ。最初の危機は花瓶にするかしないかの葛藤だった。ケッ。現実なんてこんなものだ。




 そのまま寝てしまったから皺の寄っているワンピースを手で伸ばし、鍵を持って部屋を出る。

 太陽がこんにちはする前の、朝靄に包まれた時間帯は、まだこの家の住人は夢の中。出会ってしまうと昨日の貴族とはどういう関係云々を根掘り葉掘り聞かれるだろうから、ありがたかった。


「いっそこのまま出かけちゃおうかな」

 想像するだけで疲れそうな質問攻撃を思い、憂鬱な気分になる。

 メアリーおばさんの敷地に入り、備え付けの水道から水を汲む。少し寝坊してしまったから、いつもの時間より遅い。メアリーおばさんの言伝で、太陽の光が当たる前に水やりをお願いされているので、少々急がねば。


 水は持ってみると意外と重い。

 木の桶に入れると、すぐに無くなってしまうくらいの水しかないのに、手で持つには少しきついくらいだ。

 なので何度も何度も往復して水を足さなければいけない。これがまた地味に疲れる。水やりして、戻って水入れて、水やりして、戻って水入れて。もう十往復くらいしたんじゃないか。そう思うくらいに、辺りが明るくなってきた。急がなくては。

 今で水やりできたのは玄関の前の、表の庭だけ。メアリーおばさんの家をぐるっと囲むように、木々や花は植えられている。水道が遠くなるため、裏庭の水やりは今よりも重労働だ。しかしもう時間がない。桶に入るだけ水を汲んで、裏へ回る。

 バラのアーチをくぐりながら、朝焼けのさす裏庭に出る。

 もう、なんだか桶を落として倒れこみたかった。

 そこには真っ黒の男がいて、今まさにしようとしていた水やりをしていたのだ。


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