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「――――ッ!」
まるで深海に沈められていた所を無理やり海の外へ引っ張り出されるように、私の意識は闇から解放された。頭がクラクラして視界が点滅している。考えがまとまらない。
肺の中に溜まっていた空気を吐き出し、ゼェゼェと呼吸する。自分が地に足を着けているのか疑いたくなるほどの衝撃。混ざり合った感情が心の中で渦巻く。
周囲にいた仲間達も殆どが私と同じ状況の様だ。目を見開き、驚愕の表情を浮かべている。茫然自失という風に立ち竦んでいる。
――――闇の中で起こった出来事は、それほどまでに衝撃的だったのだ。
その時、凄まじい轟音が私達の身体を叩き付けた。威力を伴う音の塊に吹き飛ばされないように堪えながら、視線を前に向ける。
轟音がメテオドラゴンの咆哮だと気付いた時にはもう遅かった。
瀕死の身体を引きずりながら、私を見下ろしていた。
「――――!!」
「――!! ――――ッ!!」
ドルーア達が叫んでいるが、言葉が耳に入ってこない。
今まで軽やかに動いていた身体が、明確な死を意識した瞬間動かなくなってしまった。
メテオドラゴンに視線が釘付けになる。
ドラゴンを口を開いて、
ブレスを。
隕石が。
あ。
死ぬ。
最後に私が名前を呼んだのは――――。
最後に私が思い浮かべたのは――――――。
――――――――――――――――――――
私は一般的で普通な家庭に生まれた。まあ他の家庭というものを知っているという訳ではないから、私にとっての普通が他の家庭にとっての普通とは限らないけど、とにかく私は特に不自由の無い家庭に生まれた。
もう顔は覚えてないけど、両親は私に優しくしてくれたし、兄さんも私の為に色々な事をしてくれた。
自分で言うのもなんだけど、私は出来の良い子供だったようだ。兄さんよりも言葉を覚えるのが早かったり、立ち上がるのが早かったり、色々な事が出来たり。両親は決して兄が嫌いだった訳では無いと思うけど、兄と私はよく比べられていた。今思うと、兄さんが私の前で格好いい姿を見せようと頑張っていたのは、もしかしたら両親に私と比べられていたのが原因だったのかもしれない。
そして忘れもしない、両親が死んだ日。
お母さんとお父さんが死んだ、と言われても私は実感が持てなかった。だって数時間前まですぐ近くにいて、すぐ隣で会話していたのだ。もう二度と会えない、なんて言われたって信じられなかった。
家の中でどういう会話があったのかは幼くて理解できなかったせいかあまり覚えていないが、とにかくドタバタと慌ただしかったのは記憶している。
両親の死に実感が持てなかったのは、二人の遺体が入った棺桶を見ても変わらなかった。遺体は事故のせいで酷いことになっていて、見せてもらえなかったけど、多分遺体を見ても実感が持てなかったのは変わらなかったと思う。
兄さんが大粒の涙を零しているのを見ながら、私は両親の死をぼんやりと考えていた。
しかし死んだということを実感出来たのは意外とすぐの出来事だった。リビング、キッチン、洗面所、お風呂、寝室、ベランダ、どこに行っても二人はいなくて、名前を呼んでも返事は返って来なかった。それでようやく、私はあの二人はもう死んでしまったんだな、と思った。
悲しかったし辛かったけど、涙は出なかった。毎日一緒に寝てくれるようになった兄さんや、美味しいご飯や玩具を買ってくれる祖父母を見て、私は頑張らなければいけないと思った。お兄ちゃんは抜けている所があったし、前に両親が「小学校でアカツキが仲間はずれにされている」というような事を話していたから、私が守ってあげなくちゃいけないと思った。
ちゃんと頑張っているのに、何だか胸が苦しかった。何かが溜まっているような気がした。誰かに助けてほしいと言いたかった。だけど私は兄さんを守らなければいけないと思っていた。
そんな私を救ってくれたのは、私が守らなければいけないと思っていた筈の兄さんだった。
私の身体を包み込む兄さんの両腕と、くっつけられたちょっと男らしい身体、そして布団に包まれているようなとても安心する匂い。
自分だって辛かった筈なのに兄さんは『栞は俺が守る』と言ってくれた。
嬉しくて、何だか胸に溜まっていた何かが溢れ出してきて、今まで出なかったはずの涙が溢れてきた。
その日から、今まで以上に兄さんは私にいい所を見せようと頑張っていた。得意じゃない勉強や、好きじゃない運動を頑張っていた。兄さんが学校で仲間はずれにされているという噂が私の耳に入ってきたこともあったけど、兄さんは全く辛そうな顔をしていなかった。中学に入って剣道部に入って、兄さんは防具が着けれなかったり他の皆より覚えるのが遅かったりしていたけど、毎日毎日頑張っていた。
高校生になって、兄さんは学校での人間関係が上手くいっていないようだった。それでもやっぱり兄さんは辛そうな顔は見せなかった。
私が苛められていた時も、すぐに駆けつけて助けてくれた。
嬉しかった。
兄さんの事を考えると、何だか胸がきゅっと締め付けられるような感じがした。
そうやって私の為に押さえつけていた感情が、大学受験で失敗してしまったことで爆発してしまったんだと思う。兄さんは部屋に引きこもって何もしなくなった。私が声を掛けても、今まで言わなかったような酷い言葉を掛けられたりして、私は兄さんに何も言わなくなった。
そんな兄さんの事をよく林檎に相談していた。彼女はいつでも私の相談に乗ってくれた。何回も励ましてらったりもした。
《Blade Online》の中で兄さんと出会った時、私は兄さんをパーティに入れなかった。入れて欲しそうな顔をしていたけれど、入れてやるもんかって思った。でも決して死んで欲しいって思っていた訳じゃなくて、私は兄さんは街で引きこもっていればいいって思った。
その日、その後、七海にこう言われた。
――――アカツキさんは栞を守ろうとずっと頑張ってきたのに、栞はそんなアカツキさんの事を簡単に見限るんだね。
その言葉を聞いて、私は殴られたようなショックを受けた。
自分のしたことを振り返った。
ずっと自分の為に頑張ってきた兄さんをすぐに見捨てた自分に嫌気が差した。
七海はどうやら兄さんと現実で会っていたらしく、本当かどうかは知らないが林檎が言うには惚れているみたいだ。多少彼女は兄さんに対して肩入れしている所はあったけど、それでも彼女の言葉はずっと私の心に残った。
それから私は兄さんを探した。色んな人に協力してもらって兄さんを探したけど、結局どこにも見つからなかった。皆、もう死んでしまったのだろう、って言っていた。信じられなくて自分自身で目で確かめるために、私は死んだプレイヤーの名前が刻まれる墓に行った。暇がある日は墓で兄さんの名前を探した。同時に街やエリアでも兄さんを探していたけど、内心私はもう兄さんは死んでしまったんだろうな、って思った。
――――お兄ちゃんが死んでたら……どうしよう。
私はそんな事を言いながら七海や林檎の前で何回も泣いた。会って謝りたいと何回も思った。
《イベント》で兄さんの姿を見た時、本当はすごく嬉しかった。生きててくれたんだって。
なのに、それなのに、私は自分から謝ってきてくれた兄さんの言葉に耳を貸さなかった。喚いて怒鳴って。確かに兄さんは私に対して酷いことを言ったししたけれど、こんなことをする自分も最低だと思った。
今思うと、あの時の兄さんは本当に全力で戦えていたのだろうか。
本当に、兄さんは私に勝てなかったんだろうか。
そんな風に思うけど、本人に聞いても恐らくは全力だったと答えるだろう。だから聞いていない。
林檎達がサポートしてくれたおかげで、《イベント》の後、兄さんとフレンド登録する事ができた。メッセージで少しずつ話した。返信は素っ気ない物になってしまったけど、それでも兄さんとメッセージで会話できるのがすごく嬉しかった。メッセージが来る度にドキドキした。
素直になれない自分が、嫌いになった。
兄さんの事を「お兄ちゃん」と呼んで懐いている少女を見た時、私はその子に嫉妬していたんだと思う。兄さんのことを「お兄ちゃん」と呼んでいいのは私だけなんだと、そう叫んでやりたかった。だから兄さんが『俺の大事な妹はお前一人だけだ』と言ってくれた時、泣きそうになるぐらい嬉しかった。兄さんに返信しようとして、短い文章を考えるのに何時間も掛かった。打ち込んでは消し打ち込んでは消しを繰り返した。
兄さんが初めてのボス攻略会議で泣きながら私に抱きついてきた時、あの時ようやく私は素直になれたと思う。もしかしたら明日にはどちらかが死んでしまうかもしれないのだ。そう考えると、本音で喋らなければいけないと思った。久しぶりに兄さんと一緒に寝れて、幸せだった。
……胸がドキドキして顔が熱かったけど。
その日から兄さんと沢山話しをして、沢山遊んだ。
現実ではモテなかった筈なのに、何故か仮想現実の中では兄さんはモテた。
リンちゃんや七海、それかららーさん。恋愛感情とは違うともうけど、レンシアさんとも仲が良かった。嫉妬してしまった私は何回も理不尽に兄さんを怒ってしまったっけ。すぐに仲直りして、一緒に寝たけど……。
カタナ君がリンちゃん達を殺し、兄さんに怪我を負わせたと知った時。
私は兄さんが死ななくて良かった、って思った。それと同時に兄さんに怪我を負わせたカタナ君が許せなかった。殺してやろうって初めて思った。
そこで私はリンちゃんが死んだことよりも兄さんを優先していたことを知って、驚いた。兄さんにこの事を言ったら怒ったかもしれない。だけど私の中では一番兄さんが大切だった。
リンちゃんを失ったトラウマで引きこもってしまった兄さんを見て、リンちゃんに嫉妬した。同時に兄さんが私を頼ってくれて嬉しかった。今度こそ、兄さんを守れると思った。
守れると、思ったのに。
――――――――――――――――――――
走馬灯という物だろうか。
人は死ぬ直前の短い間に、今までの人生を振り返るという。
こうして振り返ってみると、私の人生の大部分を占めていたのはやっぱり兄さんだった。
『暗闇』の中での出来事が本当なら、私は――――。
ゆっくりと目を閉じて、メテオブレスの衝撃を待つ。
しかし――――何時まで経ってもその衝撃は来なかった。
代わりに激しい爆発音がすぐ近くで響いた。
ブレスが爆発したのだろうか?
だったら、なんで私に衝撃が来ないのだろう?
ゆっくりと目を開けて、私ははっと息を飲んだ。
同時に温かい何かが込み上げてきて、それが形となって目から零れ落ちる。
血のように赤い鎧で身を包み、手には蒼炎の様に蒼い大太刀。
現実世界と変わらない長めの黒髪。
地面を蹴りつけ、大きく跳躍すると、その大太刀でメテオドラゴンの残ったHPを一撃で削りとった。メテオドラゴンは悲鳴を上げて地面に崩れ落ちると、光となって消滅していった。
メテオドラゴンが消滅したことを確認して、コチラを向いて。
「ごめん、待たせたな」
と兄さんは言った。