3.これは恋じゃない、ストックホルム症候群だ
あ、そういえば。私は思い出した。
何を、って?
もちろん、現代科学の申し子とも言うべき、文明の利器だ。
「携帯電話……通報したほうがいいのかな」
私の呟きは、彼の耳にも入ったらしい。苦笑していた。
「それ、僕に言っていいんですか?」
「独り言です」
「え、だから、僕に聞こえたら問題だと思うんですけど」
「独り言です」
「でも……」
「独り言です」
「……はい、そうですね。すみません」
強く言ったら、彼は引いてくれた。あれ、私、殺人犯を言い負かしている?と思わないこともなかったが、あまり認めたくないことだったので、無視しておいた。
さて、どうしよう。110番すべきなのだろうか。この嵐で通じるかどうかもあやふやだが。
「でも、エレベーター内で、携帯電話って通じるんですか?」
「え、通じないの?」
彼が言った言葉に、つい素で問い返してしまった。
「いや、通じにくいんだったかな。そもそも、台風の中ではアンテナが2本たつことも稀なんじゃないですか?」
「そうですねぇ。でも、どちらにしろ、携帯は車の中に忘れてきちゃったんで」
「そうですか。それはよかった」
よかった、という嬉しい気持ちが伝わってこないんですが。
「まあ、僕としては、どちらでもいいんですよね、本当は」
「どちらでもいい、というのは?」
きっと、対角線上の彼は、やっぱり笑っているのだろう。そんな予感があった。
「いや、あなたとこんなに長い時間、エレベーターに閉じ込められるなんて、思いもしなくて。本当、想定外のことが多すぎですよ。殺した直後に停電なんて、予想もしないでしょう?
でも、顔を覚えられるぐらいは覚悟していたので、いずれ捕まるだろうなあ、と。それならいつ捕まっても同じじゃないですか?だから、あなたが通報しても、しなくても、どちらでもいいんですよ」
「それなら自首をおすすめします」
私がそう言うと、彼は黙った。暗闇では、何もしゃべらなければ、相手の表情をよむこともできないし、目線をたどることもできない。彼が何を考えて、何を思っているのか、私にはまったくわからなくなった。
自首する気なのだろうか。それとも、逃げられるだけ逃げてみようと思っているのか。
わからないけれど、前者ならばいいな、と思った。ストックホルム症候群というやつかもしれない。
暗闇の向こう側の彼は、きっと美形だ。根拠はない。直感的にそう思っただけだ。
こういう非常識な言動で人を殺す奴は、格好いいに決まっている。声も若いしね。
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