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微睡

作者: 雨待草
掲載日:2026/11/01

「古語を教えてほしいだぁ??」

「そう。あなたにしか頼める人がいなくてね」


ノックのひとつもなく酒屋に入ってきたのは、昔馴染みの魔女だ。名は確か、マリアと言ったか。当然、俺の酒屋の前にはclosedと書いた看板をかけておいたのだが。そうして遠慮もなくずかずかと俺の聖域に侵入してきたマリアは、古語を教えてほしいと俺にせがんだ。


「俺以外にもいっぱいいただろ。俺はただの情報屋だぞ」

「少なくとも、世界ができる前から生きている人間を、ただのと称すのには無理があるわね」

「……酒の席の話を本気にするなよな」


そう、ここはただの酒場なんかじゃなくて、情報の売り買いの場。俺はいわゆる情報屋ってやつで、ここのオーナーをしている。かといっても、俺の情報は決して売らないし、俺が古語に詳しいことを知る人物などいないはずだったのだ。こいつを除いて。ちょっと気が大きくなった、酔っぱらいがついた嘘だって処理してくれたらよかったのに。世界ができる前から俺は生きてるんだ、なんてのをついぽろりとこぼしてしまったものだから、探究心に溢れるこいつは、根掘り葉掘り俺のことを探ろうとしているらしい。そんなたいそうなものじゃない、ただ、少しだけ長く生きているだけだというのに。


「はぁーーーーー……何が知りたい。仕込みしながらでいいなら付き合ってやるよ」

「ふふ、案外君は優しいよね。君の懐に入れたってことかな」

「調子に乗るなよクソ女」


くるりとマリアに背を向けて酒の準備を施す。酒のつまみもよく売れるから、作り置きを作っておかなくては。あとは、今日入っている"仕事"の準備だとか。酒屋のマスターは暇じゃないのだ。ただでさえ兼業だし。人に言えるような職じゃないけど。こっちはこっちで忙しいというのに、背後から調子に乗ったような笑い声が降ってきたので眉を顰める。入荷した分の酒瓶をカウンターに乱暴な手つきで置いた。


「君が知っている、一番古い言語を教えてくれよ」

「一番古いって言ったって……俺は俺の生きていた時代しかしらねぇよ?」

「それが知りたいって言ってるのさ。ね、教えてくれよ」

「うーん……ちょっと待ってろ」


マリアが所望したのは、一番古いとされる言語。けれど、今の時代でどこまで学問が発展したのか知らないし、いかんせん俺が聞かれる情報で言語のことなどあまりない。だから、俺が知っているのは俺の生きていた時代だけなのだけど、それでいいと、それがいいとマリアは微笑む。それならまあ、用意できるかと思って、奥の倉庫から分厚い本を引っ張り出した。長らく開くことのなかった、外国人向けの勉強本。もう見ることも聞くこともなくなった、俺の母国語。


「ほれ。それ貸してやるから満足してろ」

「わぁ。私、一度も見たことない言語だよ。何語だい?」

「譌・譛ャ語」

「……なんて?」

「だからー、譌・譛ャ語だって……あ、そっか。もう聞き取りできるか怪しいのか」


分厚い本をマリアの方へと投げつける。見事にキャッチして見せたマリアは、表紙を一瞥して、それからパラパラと中身をめくる。どうやら彼女のお眼鏡にかなうものだったらしい。言語の名前くらい、しっかり伝えてやりたかったのだけれど、もう聞き取れるものではなくなってしまったようだ。別に、他意はない。もう俺の母国語は、世界に受け入れられなくなったんだって、現実を突きつけられただけ。そう、それだけの話である。かつての古代文明だって、あの頃ですら解読できなかったんだから、自然の摂理だ。仕方がない。


「これ、覚えてみせるよ。私と君が、いつか君の言語で話せたら、ドラマチックだって思わないかい?」

「……かもな」


なんとなくナイーブになってしまった。これではいけないと目を閉じて、商売道具を磨こうと手に取った時、鼓膜を揺らした、明るいソプラノ。キザったらしくウィンクまで決めてみせるマリアがなんだかおかしくて、思わず吹き出しそうになってしまった。もしも、もしも彼女が、これを覚えてくれるなら。そうなればどれほどいいことか。言語と一緒に忘れてしまった、置いてきたかつての俺も、思い出も、全部救われるような気がしてしまう。そう思うには、多分まだ気が早すぎるけど。


「じゃあ、まずはこれか。どう読むんだい?」

「なんでそんな中途半端なとこから行くんだよ。えっと、『荳?悄荳?シ?』だな」

「うん、全然聞き取れないな!」

「だろうよ」


マリアが開いたページは、その参考書の後ろの方。慣用句とか、ことわざとか。そういう類の載ったページだった。指差された単語を読み上げたはいいものの、やっぱり聞き取れなかったようで、ペカペカと気の良い笑みを浮かべていた。そんな姿に呆れて、それでも笑ってしまって。なんだか酒を出すのは負けた気がして、サービスの水道水を注いだコップをマリアの前にことりと置いた。


「ぐぬぬ……じゃあ、意味を教えてくれよ。意味だけでも覚えよう」

「意味、意味かぁ。今はなんていうんだったかなぁ」

「おじいちゃんか」

「ぴちぴちの二十代だわ!」


マリアに言われて意味は思い出せるのだけど、それはあくまで昔の言語でというだけだ。今の言葉でなんと表現すれば良いのか、もう覚えていない。うーん、うーん、とマリアに馬鹿にされつつも唸ってどうにか捻り出す。


「あ!思い出した。教えてやるよ」

「本当かい?私にもわかるように言ってくれよ」

「まかせろって!それな、」


______一期一会って意味なんだ。

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