千年眠っていた守護竜を起こしたのは、追放された契約管理人の私でした。――契約書によれば、未払いの守護料は三百十二年分ございます。お支払いは本日中でよろしいですね?
「書類ばかり触っている女に、竜の花嫁は務まらん。婚約は破棄だ。お前は竜堂の鍵を置いて出ていけ」
王都大聖堂の、朝の光が斜めに差し込む祭壇前。
アーレンス辺境伯家の嫡男ギルバート・アーレンス様は、磨かれた礼装の胸を張って、そうおっしゃいました。
周囲には貴族の方々が三十人ほど。皆さま、扇の陰で口元を隠しておいでです。
(なるほど。立会人は十分、というわけですね)
わたくし、リーゼロッテ・ヴェンツェルは、スカートの両端をつまみ、深く礼をいたしました。
「かしこまりました。では、鍵をお返しいたします」
紺色の実務用ドレスの隠しから、黒ずんだ鉄の鍵を取り出します。十二年間、毎朝この手が握ってきたもの。手のひらの形に錆が擦れて、少しだけ艶が出ております。
それを、祭壇の縁にことりと置きました。
「……それだけか」
ギルバート様が、眉をひそめられます。
「何か、申し開きはないのかと聞いている」
(申し開き。ええ、本来であればここで契約解除の通知期限と、原状回復義務の範囲について確認すべきところですが)
「ございません」
わたくしは顔を上げずに答えました。
「婚約は両家の合意によるもの。破棄のご意向は承りました。竜堂の鍵も、ただ今お返しいたしました。手続きは以上でございます」
「……お前は、それでいいのか」
「はい」
(よくはありませんが、議論の余地がございませんので)
ギルバート様の隣に立っていた少女が、ふわりと一歩前へ出ました。
淡い金髪、空色の大きな瞳。王都大聖堂の聖女候補、リリエル・ソメイユ様。十八歳。花の精がそのまま人になったような方です。
そして彼女は、心の底から善意に満ちた顔で、こうおっしゃいました。
「大丈夫です、竜様はわたしがお慰めしますから」
大聖堂がどよめきます。
「さすが聖女様だ」「竜の声が聞こえるお方だものな」「ヴェンツェルの娘など、所詮は記録係だ」
わたくしは、もう一度だけ礼をいたしました。
「——さようでございますか」
(竜堂の朝の報告は、夜明け前の第三刻。鐘が鳴る前です。扉は内側から軋みますので、油を注した布を右の棚に置いてあります。帳面は第四巻の途中。守護料の補填記録は、前月分までは締めてございます)
申し送りを、しようとして。
やめました。
(——お聞きになる気が、ないのですもの)
「本日より、わたくしは〈竜契約管理人〉の任を解かれたものとして振る舞います。ご承知おきくださいませ」
「当然だろう」
ギルバート様は、せせら笑うように言いました。
「帳面など、誰がつけても同じだ」
「——はい」
わたくしは、静かに微笑みました。
「そうお考えでしたら、どうぞ、そのように」
大聖堂の扉が、わたくしの背後で重く閉まりました。
誰も気づいておりません。
わたくしが返したのは、竜堂の鍵だということに。
——竜廟の扉には、鍵穴がないということに。
◆◆◆
前世のわたくしは、日本という国の損害保険会社で、契約管理課の係長をしておりました。
三十四歳。独身。趣味は特になし。
得意なのは、約款を最後の一文まで読むこと。
日課は、毎朝同じ時刻に帳簿を開くこと。
そして、残業八十時間目の木曜日に、オフィスの床で倒れて死にました。
目が覚めたら、ヴァルデン王国のしがない子爵家の末娘になっておりました。
魔法の才能? 平民並みです。
剣? 振れません。
女神様からの祝福? ございませんでした。
(つまり、引き継いだのは職業病だけ)
——けれど、この国では、それで十分だったのです。
◆
馬車は、用意されませんでした。
王都から領地まで、徒歩で三日。荷物はひとつ。中身は、十二年分の帳面と、黴の浮いた羊皮紙の束。
石畳が途切れて、土の道に変わるころ。
「姉ちゃん——!」
背後から、息の切れた声が追いかけてきました。
くすんだ栗毛に、そばかす。丈の合わない上着。手はいつも煤けている。竜堂の下働きの少年、エルマーです。十歳。
彼は布包みを両手で抱えて、全力で走ってきました。
「姉ちゃん、朝のスープ、もう誰も作らないって」
「……そう」
「厨房のおばちゃんが言ってた。あれ、姉ちゃんが自分の分を割いてたんだって。おれ、知らなかった」
布包みの中は、固いパンが二つ。
おそらく、彼の三日分です。
わたくしは膝をつきました。実務用ドレスの裾が土で汚れますが、どうでもよろしい。
パンをひとつ受け取り、半分に割って、片方を彼の手に戻しました。
「半分こに、いたしましょう」
「でも」
「契約でございます。差し出された物は、双方の合意で分配されるのが筋です」
「……むずかしい」
「はい。ですが覚えておきなさい。難しい言葉は、たいてい誰かを守るためにあります」
固いパンを噛みました。歯が痛いほど固い。けれど、麦の味がしました。
エルマーが、袖で鼻をこすりながら言いました。
「おれ、見てたよ」
「何を?」
「姉ちゃんが、毎朝まだ暗いうちに竜堂に来てたの。指に息吹きかけながら帳面めくってたの。全部、見てた」
「……」
「三年前の霜月、姉ちゃん、自分の冬外套を売ってた。おれ、見た」
十二年。
誰にも見られていない仕事だと、思っておりました。
毎朝、冷えきった竜堂の中で、誰も聞いていない報告を声に出し、誰も読まない帳面に数字を書き込み、誰も気づかない差額を家の金庫から埋めてきました。
それが役目だと信じて。
それが当たり前だと思って。
「エルマー」
「ん?」
「わたくし、十二年、誰にも見られないお仕事をしてきました」
喉の奥が、おかしな具合に詰まりました。
「でも、あなたは見ていてくれたのね」
まばたきを、しました。
十二年ぶりに、睫毛が濡れました。
◆
その夜。
ヴェンツェル子爵家の、雨漏りのする屋敷。使用人は二人。暖炉の薪は、数えて燃やす。
父ヨナス・ヴェンツェルは、娘の婚約破棄の報せを受けて、開口一番こう言いました。
「帳面は、持って出たか」
「はい。第一巻から第四巻まで、すべて」
「そうか」
父は、繕い跡だらけの袖口をじっと見つめて、それから深く、深く頭を下げました。
「……すまん、リーゼ。わしは、お前に何も残してやれなんだ」
「いいえ、お父様」
わたくしは首を振りました。
「わたくしは、読む癖をいただきました。それで十分でございます」
卓の上に、羊皮紙を広げます。
〈竜盟約〉原本写本。千年前、初代国王と守護竜ヴェルグリムが交わした契約書です。
王国の繁栄の根拠。結界、豊穣、魔物避け——そのすべてが、眠ったままの竜が放つ魔力で維持されております。
対価は、毎年の守護料。
しかし三百十二年前から、守護料は国庫の帳簿に「納付済」と書かれるだけの、ただの一行になりました。
竜は眠っている。形式でよかろう、と。
その差額を、ヴェンツェル家が七代にわたって私財で埋めてまいりました。
屋敷が傾いたのも、冬に薪を節約するのも、母が病でも医者を呼べなかったのも、全部そのためです。
父は一度も弁明しませんでした。弁明とは、補填の事実を公にすることだからです。
「契約は、守られねばならん」
それだけで、一族は静かに没落しました。
わたくしは羊皮紙の、下から三分の一あたりを指でなぞりました。
第七条・履行不能条項。
『守護料の未納が三百年を超えた場合、管理人はこれを竜に告知し、盟約の再査定を求めることができる』
(三百十二年。超過十二年)
(通知権者——竜契約管理人)
(ああ。これ、請求できるのね)
前世で何百回も読んだ、免責条項と失効条項の森。あの地獄のような読解作業が、今日このために積み上がっていたのだとしたら。
わたくしは羽根ペンだこのある指で、帳面を閉じました。
「お父様」
「うむ」
「——もう、肩代わりはいたしません」
父の背筋が、びくりと伸びました。
「わたくしは、本来のお役目に戻ります」
「……リーゼ、お前」
「管理人の役目は、補填ではございません。告知でございます」
翌朝。
父は何も言わず、古い外套と干し肉を荷に詰め、玄関に三十分、黙って立っておりました。
それが、この人にできる最大の見送りでした。
わたくしは竜堂へは、戻りませんでした。
向かった先は、国境の〈最奥竜廟〉。
千年、守護竜ヴェルグリムが眠る場所です。
◆◆◆
竜廟の扉には、鍵穴がありませんでした。
黒曜石の一枚岩。高さは家屋三軒ぶん。千年分の苔と蔦に埋もれて、もはや岩壁と区別がつきません。
(ギルバート様は、鍵を返せとおっしゃいました)
(あの方は、竜堂と竜廟の区別すらついておられなかったのですね)
管理人が代々、口伝で受け継いできた手続き。
——竜廟の扉は、帳面を読む者にのみ開く。
わたくしは、冷えた石段に膝をつき、帳面の第四巻を開きました。
指先が、かじかんでおります。十二年間、毎朝こうしてきましたから、もう慣れたものです。
息を吸い、いつもの声で、いつもの報告を始めました。
「——おはようございます。本日は、ヴァルデン王国暦千十二年、霜月の七日。〈竜契約管理人〉リーゼロッテ・ヴェンツェルが、第三百十二期の収支をご報告申し上げます」
風が、止まりました。
「守護料、規定額、金貨千二百枚。国庫よりの納付——帳簿上は納付済。実納額、零」
扉の表面を、苔が一筋、滑り落ちました。
「ヴェンツェル家による補填——本年分、金貨八百枚。不足額、四百枚。繰越未納累計、三百十二年分」
地面が、震え始めます。
「盟約第七条・履行不能条項に基づき」
わたくしは帳面を閉じ、顔を上げました。
「守護料の未納が三百年を超えたことを、ここに告知いたします。並びに、盟約の再査定を請求いたします」
——黒曜石が、割れました。
千年の塵が噴き上がり、視界が白く染まります。
洞の奥から、山が動くような気配。
鱗。
白銀の、途方もない量の鱗が、朝陽を受けて虹色に散る。
大地そのものが寝返りを打ったかのような重低音。
そして——金の双眸が、千年ぶりに開きました。
国境の大地が、揺れました。
遠い王都でも、きっと誰かが窓の軋む音を聞いたでしょう。
伝説の守護竜ヴェルグリム。
一声で国を焼き、一息で結界を張る、ヴァルデン王国の根幹。
その巨大な顎が、ゆっくりと開かれ——
「……あと百年」
「は」
「あと百年、寝かせてくれ」
金の目が、再び閉じようとします。
わたくしは帳面で石段を、ぱん、と叩きました。
「起きてください。未払いがございます」
「……」
「守護料、三百十二年分。未納でございます」
「人間よ」
竜は、まぶたを半分だけ開けました。
「我は千年眠っておったのだぞ。労ってくれてもよかろう」
「労いは契約外でございます」
「冷たいな……」
巨躯が、ぶわりと白い光に包まれました。
光が収まったとき、そこに立っていたのは——
長身痩躯の、青年でした。
腰まで届く銀髪は寝癖だらけ。目の下には千年分の隈。裸足。布一枚のような衣を、適当に引っかけているだけ。
竜というより、三徹明けの学者です。
「寒い」
青年は、わたくしが石段に置いていた旅外套を、当然のように拾い上げて羽織りました。
「これは我のものになった」
「所有権の移転には、双方の合意が必要でございます」
「我は合意した」
「片方だけでは成立いたしません」
「……」
青年は、外套の襟を顎まで引き上げて、じとりとわたくしを見ました。
そして。
金の目が、ふと、見開かれました。
「——その音だ」
「は?」
「帳面をめくる音」
彼は、一歩、近づきました。
裸足が、崩れた黒曜石を踏む。
「我は千年、眠っておった。暗かった。何も見えず、何も聞こえぬ。ただ——毎朝、紙のめくれる音がした」
「……」
「言葉は届かなんだ。意味もわからなんだ。だが、毎朝同じ刻に、誰かが来る。それだけが千年の闇の中で、唯一の手触りであった」
わたくしの指から、帳面が滑りかけました。
「——お前か。毎朝、我に話しかけていたのは」
「……形式だと、思っておりました」
声が、かすれました。
「誰にも聞かれていないと、思っておりました。竜堂の報告は、ただの慣例で、意味などないと——」
「意味ならあった」
青年は、まっすぐにわたくしを見て、言いました。
千年ぶりの、二つ目の言葉として。
「寂しかった」
風が、鳴りました。
竜廟の崩れた口から、朝の光が差し込んできます。
わたくしは十二年間、誰にも見られていないと思っておりました。
彼は千年間、誰にも気づかれていないと思っておりました。
——お互い、ずいぶんと見当違いをしていたようです。
「……ヴェルグリム様」
「ヴェルグリムでよい」
「では、ヴェルグリム様」
「聞いておらぬな、お前」
わたくしは帳面を抱き直し、深く礼をいたしました。
「再査定の請求を、受理していただけますでしょうか」
「——よかろう」
金の目が、すっと細くなりました。
寝起きの悪い青年の顔から、一瞬で、千年の古竜の顔に変わります。
「我は怒ってはおらぬ。ただ、払われていないだけだ」
「はい」
「連れていけ。契約の相手方のもとへ」
「かしこまりました」
わたくしは、荷の中から予備の帳面を取り出しました。
表紙に、新しい一行を書き込みます。
『第三百十二期・再査定手続 開始』
インクが、まだ乾いておりません。
◆◆◆
王城の大広間に、わたくしたちが足を踏み入れたとき。
国はすでに、軋み始めておりました。
北方の結界が二箇所で薄れ、魔物が国境を越えた。
秋の麦は実らず、井戸が三つ枯れた。
大聖堂の竜像に、ひびが入った。
玉座の間には、国王アルブレヒト三世陛下、アーレンス辺境伯、その嫡男ギルバート様、そして聖女候補リリエル様。
加えて、父ヨナス・ヴェンツェル。
それから——銀髪の青年を連れた、埃まみれの竜堂女。
「リーゼロッテ! なぜ貴様がここにいる!」
ギルバート様が、剣の柄に手をかけて叫ばれます。
「追放された身で王城に——その男は誰だ!」
青年は、わたくしの外套を羽織ったまま、欠伸をしました。
「うるさい」
「なっ——」
「寝起きなのだ。静かにせよ」
言葉と同時に、大広間の空気が、ずしりと重くなりました。
天井のシャンデリアが鳴る。
窓硝子が震える。
近衛兵が、理由もわからず膝をつく。
国王陛下の顔から、血の気が引きました。
「……まさか」
「守護竜ヴェルグリムである」
青年は、面倒くさそうに名乗りました。
「千年ぶりに起こされた。我を起こしたのは、この女だ」
大広間が、しん、と静まり返ります。
わたくしは一歩前に出て、礼をいたしました。
「〈竜契約管理人〉リーゼロッテ・ヴェンツェルでございます」
顔を上げ、帳面を胸に抱えて、静かに申し上げます。
「申し上げたいことが、三点ございます」
◆
「第一点」
わたくしは、卓上に一冊目の帳面を置きました。
「〈竜盟約〉第三条。守護料の納付主体は、ヴァルデン王国でございます。王家でも大聖堂でもなく、王国。つまり国庫」
「……うむ」
「国庫の記録では、三百十二年間、守護料は毎年『納付済』。間違いございませんか、陛下」
「そ、そのはずだ。余も三十年、その一行を見てきた」
「はい。見ておられました。——一行を」
わたくしは、二冊目を置きました。
「では、こちらを。ヴェンツェル家補填記録簿。わたくしの筆による十二年分でございます。年、月、日、額、出所。父の代、祖父の代の分は屋敷に保管しております。合計で七代分」
「……補填、だと?」
「はい。三百十二年前より、守護料は帳簿上の空計上となりました。実納額は零。その差額を、ヴェンツェル家が私財で埋めてまいりました」
紙をめくる音が、大広間に響きます。
「本年分、金貨八百枚。不足四百枚。三年前には、わたくしの冬外套が売却されております。証人はおります」
扉のそばで、エルマーが小さく手を挙げました。
「おれ、見た。三年前の霜月。姉ちゃん、外套売ってた」
「黙れ、下働きが——」
「下働きの証言は、無効ではございません」
わたくしは、遮りました。
「むしろ最も信頼に足る種類のものでございます。彼は、毎朝あの場所にいた人間ですから」
静寂。
「陛下」
わたくしは、二冊の帳面を並べました。
「国庫の額と、わたくしの帳面の額。——照合なさいますか?」
国王陛下は、王冠の下で、ひどく小さな声を出されました。
「……そういうものだと、思うておった」
「ええ」
わたくしは頷きました。
「皆さま、そうおっしゃいます」
(未払いの自覚がない債務者が、いちばん厄介なのよね)
◆
「第二点」
わたくしは、リリエル様に向き直りました。
空色の瞳が、不安そうに揺れています。
「盟約第五条。『竜の声を受ける資格は、血統にも聖性にもよらず、毎朝の報告を欠かさぬ管理人に属する』」
「……え」
「リリエル様。あなたが竜堂の前でお聞きになった声は、南東の通気口から入る風が、梁の隙間で鳴る音でございます」
「——」
「あの建物は、風向きが東に振れる朝にだけ鳴ります。年に四十日ほど。わたくしの帳面にも『風鳴り強し』と記録がございます」
リリエル様の唇が、小さく震えました。
「……じゃあ、わたしはずっと……」
「はい」
「わたし、何も、聞こえていなかったんですね」
彼女は、泣きませんでした。
ただ、両手で口元を押さえて、立ち尽くしておられました。
十二の歳に、風の音を竜の声と信じた少女。
周りの大人は大喜びで、彼女を聖女候補に祭り上げた。
以来六年、誰ひとり確認しなかった。
(この方は、嘘をついたのではありません)
(誰も、確かめてくれなかっただけ)
そのとき、銀髪の青年が、ふと口を開きました。
「——娘」
「は、はいっ」
「聞こえてはおらぬ」
リリエル様の肩が、びくりと跳ねます。
「だが、お前が毎日あの扉の前に立っていたことは、知っておる」
「……え」
「我は、千年、暗がりにおった。誰が来たかは分からぬ。だが、来た気配は覚えておる。——お前も、来ておったな」
「…………っ」
リリエル様は、ようやく泣きました。
声も出さず、ぽろぽろと。
◆
「では、第三点」
わたくしは、三枚目の羊皮紙を広げました。
「盟約第七条に基づき、再査定を請求いたしました。査定は、本日未明に完了しております」
「査定……結果は」
国王陛下の声が、かすれます。
「守護竜は、盟約を無効とはいたしません」
大広間に、安堵の息が漏れました。
「——ただし」
わたくしは、静かに続けました。
「守護の対象範囲を、変更いたします」
「……は?」
「現行の『ヴァルデン王国全土』から、『正当に守護料を納付してきた者の領地』へ。すなわち」
羊皮紙の、下の一行を指し示します。
「ヴェンツェル子爵領、一帯のみ」
沈黙が、三秒。
それから、大広間が爆発しました。
「なっ……それでは王都は……!?」
「結界が——」
「待て、北の魔物はすでに国境を——」
「ご安心ください」
わたくしは、声を張らずに申し上げました。
それだけで、全員が黙りました。
「再契約は、可能でございます」
懐から、一枚の紙を取り出します。
「ただし、滞納金——三百十二年分の守護料元本。並びに遅延利息。年利は盟約第九条に定めのある通り、年三分」
紙を、卓の上に滑らせました。
「こちらの金額になります」
アーレンス辺境伯が覗き込み、
次の瞬間、膝から崩れ落ちました。
ギルバート様が横からひったくるように紙を取り、数字を見て——
顔が、白くなりました。
「こ……」
声が、裏返ります。
「こんな額、王国全体の歳入の——」
「四十一年分でございます。計算は三度いたしました」
「——リーゼロッテ!」
ギルバート様が、わたくしに向かって叫びました。
「お前が黙って払い続ければよかっただけだろう!!」
大広間が、しん、と静まりました。
誰もが、その言葉の醜さに気づいた顔をしておりました。
わたくしは、静かに微笑みました。
「ええ」
十二年分の朝が、頭の中を通り過ぎていきます。
夜明け前の冷えた石床。かじかんだ指。売った外套。数えて燃やした薪。医者を呼べなかった母の咳。
誰にも、見られていないと思っていた朝。
「十二年、そうしておりました」
わたくしは、帳面を閉じました。
「ですから今日、やめることにいたしました」
ギルバート様の膝が、折れました。
◆
——そのとき。
「恐れながら、陛下」
父ヨナス・ヴェンツェルが、一歩前に出ました。
繕い跡だらけの礼服。白髪交じりの髪。けれど背筋だけは、いつも通り真っ直ぐです。
そして、生まれて初めて、国王に向かって声を荒げました。
「三百十二年、我が家は一度も催促いたしませんでした」
「……」
「それを、甘えと呼ぶのでしょうな」
国王陛下は、長いあいだ、動きませんでした。
やがて——
玉座を、降りられました。
白いあご髭を震わせながら、老王は、子爵の前に立ち。
深く、頭を下げました。
「三百十二年、我が国はそなたの家から盗んでおった」
大広間の誰もが、息を呑みます。
「……利息を、請求してくれ」
父は、何も言いませんでした。
ただ、ひとつだけ頷いて、ぽつりと申しました。
「契約は、守られねばなりません」
銀髪の竜が、欠伸をひとつして、わたくしの袖を引きました。
「もうよいか。眠い」
「あと、署名が十七箇所ございます」
「…………」
◆◆◆
半年が経ちました。
ヴァルデン王国は、守護料の分割払いという屈辱的な再契約を結びました。期間、二百年。年次報告義務あり。
国王陛下は契約書に自ら署名され、さらに国法を一つお定めになりました。
——毎年の更新日、国王は自ら竜廟へ出向くこと。
「『そういうものだと思うておった』では済まぬのだと、余は六十一にして学んだ」
陛下は、そう仰せになりました。
◆
アーレンス辺境伯家は、領地の三分の二を返上。
ギルバート様は債務整理の一環として、北方の小さな町に徴税補佐官として赴任なさいました。
皮肉なことに、生まれて初めて、帳簿をつける仕事です。
風の便りによりますと、初日に三行書いて、羽根ペンを折ったそうです。
翌日も、三行。
その翌日も、三行。
一月ほど経って、彼は赴任先からヴェンツェル領に一通の手紙を寄越しました。
中身は、たった二行でした。
『毎朝というのは、こういうことか。
十二年とは、何だ』
わたくしは、返事を書きませんでした。
(お返事を書く義務は、契約に含まれておりませんので)
◆
リリエル様は、聖女候補の肩書きを自ら返上なさいました。
大聖堂は引き止めたそうですが、彼女は首を振ったそうです。
今、彼女は竜堂の掃除係をしております。
箒を持つ手はまだぎこちなく、床の拭き方も下手です。初日は水をひっくり返して、帳面を濡らしかけました。
ですが、毎朝、必ず来ます。
夜明け前の、第三刻に。
「あの……わたし、聖女候補を返上しました。竜堂の、掃除係をさせてください」
そう申し出た日、わたくしは彼女に、何も教えませんでした。
ただ一度だけ、申し上げました。
「続けることだけが、資格でございます」
そのとき彼女は、泣きそうな顔で笑って、「はい」と言いました。
人生で初めて、誰かに与えられたのではなく、自分で選んだ仕事だそうです。
◆
ヴェンツェル領は、守護竜のお膝元となりました。
麦は二期作になり、魔物は境界線の内側に一歩も入れず、井戸は涸れません。
屋敷の雨漏りは直りました。薪は、数えずに燃やしております。
わたくしの役職は変わりました。
〈竜契約管理人〉から、〈竜盟約・首席査定官〉へ。
とはいえ、やっていることは同じです。
毎朝、夜明け前に起きて、帳面を開く。
◆
「姉ちゃん、この『六』ってやつ、下がぐるってなるんだっけ、上?」
「下でございます。上は『九』」
「ややこしい! ……なあ、おれ、字へたくそだけど」
「字が下手でもよいのです」
わたくしは、彼の震える線を眺めながら申しました。
「毎朝、続けることだけが資格です」
「じゃあおれ、もう資格ある?」
「二十三日連続で、朝の刻に間に合っております。——はい。ございます」
エルマーは、鼻の下をこすって、にかっと笑いました。
◆
問題は、もう一人のほうでございます。
「どきません」
銀髪の青年が、わたくしの執務机の上で丸くなっております。
しかも、整理済みの決算書類の上で。
「ヴェルグリム様。その下、本年度の査定書でございます」
「ここが温かい」
「窓際に長椅子をご用意いたしました」
「あそこはお前の匂いがせぬ」
「……」
わたくしは羽根ペンを置きました。
「では、こちらの書類を退かしていただくまで、朝の報告を中止いたします」
「——ずるいぞ、お前」
青年は、がばりと身を起こして、外套の襟を正しました。
しぶしぶ机を降り、床に座り込んで、じっとこちらを見上げてきます。
千年を生きた古竜の目。国を焼ける力。
それが、朝のスープを待つ犬のような顔をしております。
「リーゼロッテ」
「はい」
「我を起こしたのは、お前だ」
「存じております。第七条に基づく正式手続きでございました」
「責任を取れ」
「お言葉ですが、それは契約外でございます」
「——では」
金の目が、まっすぐに、わたくしを射抜きました。
寝癖のついた銀髪。目の下の隈。裸足。
それでも、その瞬間だけは、千年の重さが声に乗っておりました。
「新たに契約を結ぼう。生涯の」
わたくしは、
——少しだけ、まばたきの回数が増えました。
「……契約内容の詳細を、書面にてご提出ください」
「書くのは苦手だ」
「では、口頭で承ります。第一条から」
「第一条。我は、お前の朝の報告を、毎日聞く」
「……第二条は」
「第二条。お前は、もう誰の分も肩代わりせぬ」
手が、止まりました。
「……第三条」
竜は、少しだけ目を伏せて、言いました。
「我は、もう寂しくない。お前も、だ」
窓の外が、白み始めております。
夜明け前の、第三刻。
厨房のほうから、スープの匂いがしてまいりました。
エルマーが、顔を出します。
「姉ちゃん、兄ちゃん、できたよ! 今日は豆だって!」
「ただいま参ります」
「わ、我の分は」
「三人分、ございます」
◆
その夜。
わたくしは、代々の管理人が受け継いできた最古の帳面——第一巻を、初めて最後まで繰りました。
千年前の、初代管理人の筆。
褪せたインク。読みにくい古語。
最後の一ページ。
そこに、千年前の筆跡で、こう書かれておりました。
『第三百十二期・再査定。
担当——リーゼロッテ・ヴェンツェル』
……。
わたくしは、ランプの火を少し近づけました。
見間違いではございません。
インクの沈み方も、羊皮紙の繊維の褪せ具合も、確かに千年前のもの。
(——どなたが)
(いつ、これを)
「……ヴェルグリム様。ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか」
窓辺の闇から、眠たげな声が返ります。
「なんだ」
「千年前の第一巻、その最後の一ページに——『第三百十二期・再査定。担当、リーゼロッテ・ヴェンツェル』と。千年前の筆跡で、書かれております」
「…………ほう」
(その『ほう』は、何でございますか)
「契約書は、最後の一文まで読む。前世から持ち越した、たったひとつの職業病でございます」
わたくしは、帳面の背に羽根ペンだこのある指をかけたまま、申し上げました。
「——本当に重要な条項は、たいてい、いちばん最後の行に書いてあるものですから」
長い沈黙がありました。
やがて、竜は言いました。
「……明日の朝、報告するがよい。我は、聞いておる」
「かしこまりました」
わたくしは、帳面を閉じました。
窓の外では、白銀の竜が、屋根の上で丸くなって眠っております。
明日の朝も、夜明け前の第三刻に、わたくしは帳面を開くでしょう。
「——報告すべき事項が、一件、増えました」
(了)
――――――
お読みいただき、ありがとうございました。
『三百十二年分の未払い』は回収いたしましたが、『千年前の筆跡』については、まだ一件、未処理のまま残っております。
続きが気になった方は、ブックマーク・評価をいただけますと、査定官が喜びます。
(竜は、たぶん寝ております)




