観察記録6
日に日に日が長くなり、春の色が濃くなっているのを感じる。――なんて、詩的な感想を持ってしまうのも、春だからだ。うららかな気候のせいで、うららかな気分になって、時々、馬鹿になる。
別に、俺個人の話をしているわけではない。何年も人間観察を続けた末に得た知見だ。
「ふふ、完成、完成」
ルルセラだって、例に漏れない。もともとおかしかったが、最近はそれに輪をかけたような有様だ。
今だって、節を付けたような変な調子で独りで喋っては、独りで笑っている。
すごく変だが、何も言うまい。彼女の頭の中は、きっと、春一色なのだ。それだけ一生懸命に春に向き合い、ようやく今掴み取ったところなのだろうから。
「あとは、練習するだけ……ああいや、違うか」
ルルセラは、自身の右手を持ち上げ、じっと見つめた。それから、順に指を折りながら、ぶつぶつと唱え始めた。
「ええと、練習でしょ、衣装の確認でしょ、美容師呼んで、エステシャン呼んで」
小指だけを立てた状態で「あとー、何だっけなあ」
そこで、俺と目が合った。
「あー、アルトにもお礼をしないと」
「えっ」
「なんだか、すごく貴重な本を貰ってしまった気がする。そうだ、請求書、もらってない。経費精算もしないと」
そう言って、小指を折り畳む。
「あれは、知人から譲り受けたものですから」
嘘じゃない。現に、俺はあの本のために、一コインも払っていない。
「そう? じゃあ」
と言って小指をもう一度立たせる。
「やっぱりお礼が必要ね」
と言って、また小指を折った。
「俺は自分の仕事をしただけですから」
お礼なんて、欲しくない。本当に、心の底から。
「じゃあ、私、しばらく立方体部屋に行ってくるから。留守をお願いしまーす」
こちらの言葉には耳を貸す様子もない。えらく上機嫌で、弾むような足取りで出て行ってしまった。
苦い気持ちになって、机の上に目をやる。そこに、書類が、無造作に広げられている。それこそが、彼女の汗と涙の結晶だというのに。
……本当のところ、全てが全て、春のせいではないとわかっている。人目を憚らず歌うのも、俺に大切な部屋の留守を預けるのも、春の陽気のせいだけじゃない。春の力はそこまで強いものではない。現に、俺の気分はもう、ほんの少しも春めいていない。
胸ポケットから通信装置を取り出して、重い指を動かした。
『ニジ ガ トリ ニ ナッテ キャク ノ アイダ ヲ トンデイク エンシュツ』
超小型な分、機能が制限された機器だ。それがせめてもの救いだった。これがもし、高性能の映像通信装置だったなら。何十時間もかけて書き連ねた緻密な設計書と、ちっぽけな送信ボタンを見比べて、立ち尽くしていたかもしれない。
しばし、ひどく感傷的な気持ちになった。それが過ぎると、馬鹿馬鹿しくて、腹立たしい気持ちになった。俺は一体、どの立場で、何を考えているんだか。
◆
『イロ カタチ ノ ショウサイ ハ』
マスターから、返事が来ていた。
『フメイ』
それだけ送って、ベッドに倒れ込んだ。知らないものは、知らない。知っていたら知らせただろうけど、とにかく今は知らない。あれこれ書いて報告する余力だって残ってない。
とにかくもう、眠ってしまいたくて、目を閉じた。真っ暗な世界に行ってしまいたい。それが叶わないなら、せめて非現実的な夢を見せて欲しい。
意に反して眠気は一向に訪れず、瞼の裏にはルルセラの姿が映し出された。夕方、ヘロヘロになって帰って来たルルセラ。準備していたハーブティーを差し出すと、「ありがとう」と笑って、何の躊躇もなく飲み干した。
彼女がもっと賢く悪い女だったなら。そしたら俺は今日、別のお茶を用意していただろう。深い眠りに落ちる姿を見下ろして、満ち足りた気分でマスターに報告していたのだろうか。




